Ⅰ.父の客ー③

文字数 4,069文字

 病院に着いた刑事たちは深見哲のいる集中治療室に向かった。やはり深見春子はそこにいた。
 しかし、芹沢に差し出された例の男の写真を見ても、春子は見覚えがないと言った。
今までマンション内かその周囲ですれ違うこともなかったのかとの問い掛けに、それも無いと言い切った。
 まったく、この女からはこんな言葉ばかり聞かされている。かと言ってそれが嘘でない限りは仕方のないことだったが、苛立つのも事実だった。
「──ご主人とは話ができそうですか」
 芹沢が訊くと、春子はさあ、と答えた。「先生に訊いてみないと」
 それくらい訊いといてくれよ、と言いたいところをぐっと抑え、芹沢は、おそらくこの女には効き目はないのだろうなと半ば諦めながらも、普段だと極めて女受けの良い微笑を浮かべて言った。
「お手数ですが、訊いてきてもらえませんか。俺たちでもいいんなら、行ってきますけど」
 しかし春子はやはり、目の前の若者の微笑みにはなびかなかったようだ。逆に口を真一文字に結び、厳しい表情で芹沢を睨むと、吐き捨てるように言った。
「私が行けばいいんでしょ」
「お願いします」
 芹沢は相変わらず清々しい笑顔で頭を下げた。

 数分後、春子が戻ってきた。
「先生も同席の上、五分だけなら許可できるそうです。ナースステーションで予防衣を受け取って、着用した上で先生の指示に従って下さい」
「分かりました。ありがとうございます」
「……どういたしまして」
 春子は面白くなさそうに溜め息をつき、長椅子に腰を下ろした。

 刑事たちが予防衣に着替えるのに合わせたかのように、一人の医師が現れた。
 三十代半ばくらいと思われる医師は、その無骨な印象からは想像のしにくい、極めて静かな口調で話しかけてきた。
「刑事さんですか」
「ええ、西天満署刑事課の──」
 鍋島が慌ててジーンズのポケットをまさぐった。警察バッジを出そうとしたのだ。
 ああいいですよ、と医師は鍋島を制すると、いくぶん疲れたような表情で二人を見た。
「まだ喋れないと思うけどね。質問に対して首を振る程度のことはできるでしょ」
「それで十分です」
「五分だよ。きっちり五分で終わってね」
「分かってます」
「じゃ、行きましょうか」
 
 深見哲は呼吸器をつけたまま、目を覚ましてベッドに横たわっていた。医師に連れられた二人の若者を認めるとすぐにその視線を外して天井をじっと見つめ、ゆっくりと胸を上下させた。
「深見さん、刑事さんがちょっとだけ訊きたいことがあるって」
 医師の言葉に、深見は僅かに顎を引いた。
 振り返った医師に頷いて、鍋島が深見の枕元に歩み寄った。そして今度はちゃんと警察バッジを深見の顔の前にかざし、ゆっくり、はっきりと言った。
「深見さん、西天満署の鍋島と言います。一昨日のことで少しお訊きしたいことがあって、ご迷惑を承知で伺いました。すぐに終わりますので、正直に答えて下さい」
 深見は何も反応しなかった。
「──この写真の人物ですけど──」

 五分後、刑事たちは集中治療室からナースステーションへと戻る廊下を歩いていた。
 前を歩く医師が二人に振り返った。
「無理はさせられないからね。おたくらには不満だろうけど」
「仕方ありません。五分の約束だったし」
 芹沢があっさりと答えた。その様子を見た医師は、なぜだかちょっと嫌そうな表情になり、立ち止まって言った。
「だけど、いくら時間が許してもあの人は同じじゃないかな。素人のボクが口を挟むのは間違ってるとは思うけど」
「さあ、それはどうでしょうね」と芹沢は苦笑した。「人の気持ちなんてものは分かりませんよ」
「もちろん」と医師は力強く頷いた。「あの人が話す気になる、その時を待つと?」
「別の道を探りながらね」鍋島が言った。「医療にも同じようなところがあるんやないですか」
 医師は嬉しそうな眼差しで目の前の若者を眺めると、組んでいた腕を解いて白衣のポケットに入れ、言った。
「暗中模索」
「えっ?」
「あんたらの仕事も、そうなんだな」
「……ええ。ほとんどずっと」鍋島は諦めたように目を閉じた。 
「身体には気をつけることだね」
 医師は言って、ナースステーションの呼び出しボタンを押した。

 正式な面会の許可が下り次第連絡をくれるようにと医師に頼んで、二人は病院を出た。
「──茜に確かめるしかないか」芹沢は言った。
 そうやな、と鍋島は諦めたように頷き、腕時計に視線を落とした。「……もう昼か。早いな」
「何とか結果出して、夕方は時間空けねえと。結婚式までホント時間がねえ」
「分かってる」
 鍋島は短く言って、高い冬空を見上げた。


 刑事たちの訪問を、茜はめずらしく素直に受け容れた。
 二人を玄関に招き入れると、茜は芹沢に不敵とも言える笑顔を見せ、気安い口調で言った。
「今日はスーツなんだ」
 芹沢は片眉を上げて茜を見下ろした。「似合うだろ」
「やっぱり自意識過剰」
 茜は肩をすくめた。そして鍋島を見て言った。「そっちの刑事さんは、相変わらず軽いカンジ?」
 鍋島は黙って茜を見つめ返した。容赦のない厳しさがその童顔を険しく覆っていた。
 茜はぺろっと舌を出すと、気を取り直すように深呼吸し、言った。
「それで? あたしを逮捕する気になった?」
「……その可能性はひとまずお預けだ」
 芹沢は整った鼻に皺を寄せた。「キミに確かめてもらいたいもんがある」
「援交の相手の顔なら、いちいち覚えてないけど」
「違うよ」
 芹沢は短くかぶりを振ると、スーツの内ポケットから写真を取り出し、茜に見せた。
「このおっさん誰だ」
 茜の表情が急変した。身体の周りに冷たい空気が張り付いた。
「何よそれ……誰。知らない」
「ちゃんと見ろよ」芹沢は写真を茜の顔の前に突きつけた。
「見たもん」
「そんなチラ見で分かるってことは、知ってるってことだな」
「知らないって」
「誰なのか正直に言え」
「だから知らないって言ってるでしょ」
「……おまえの嘘にはうんざりだ」
 そう言うと芹沢は鍋島に振り返った。「しょうがねえ。深見をもう一回締め上げるか。どうせくたばり損なって弱ってんだ、あと一息でオチるぜ」
「はぁ……?」
 鍋島は呆れ返って額に手を当て、どうしようもないとでも言いたげな溜め息をついた。「……おまえには参るよ」
「……パパの意識が戻ったの?」
 そう言った茜を、芹沢は冷たく一瞥した。「せっかく戻った意識も、おまえ次第じゃまた失うことになるかもな」
「……構やしないわ」と茜は唇を噛んだ。「とにかくあたしは、そんなおっさんのことは知らない。だから帰って」
 茜は芹沢の両腕を掴むと、力いっぱい押した。しかし芹沢はびくともしなかった。
「帰ってって言ってるでしょ。警察呼ぶわよ」
「ここに居るじゃねえか」
「もっとまともな警察よ」
 そう言うと茜は今度は両手の拳で芹沢の腕を叩きはじめた。「帰ってよ……!」
「茜さん」
 ここで鍋島が呼びかけた。茜はびくっと肩を縮ませ、鍋島の顔を見た。さっきまで無邪気に輝いていたその瞳は、恐怖で充血していた。
 鍋島は静かに言った。
「俺たちにはね、もう分かってるんや」
「何が……?」茜の声が震えた。「……何が分かってるって言うの?」
「この写真の男が、西条俊也(としや)やってこと」
 茜は両手で素早く口を押さえた。肩をきつく強張らせ、目を真っ赤にして鍋島を睨み付けた。
 鍋島は続けた。 
「……琉斗の親父さんやから、庇おうとしたんやね」
「……ちが……う……」
 茜は絞り出すように言い、激しく首を振った。
「どういう訳か、キミのお父さんも何も答えてくれへんかった。自分がひどい目にあった相手のこと、庇うなんておかしいと俺らは思った。それでその理由を考えた。すると自然にこの男の正体が分かったんや」
「言ってる意味が分かんないし」茜は吐き捨てた。
「一昨日、キミは琉斗の親父さんがキミのお父さんを傷つけるところをこの家で目撃した。そしてキミは咄嗟に、お父さんを助ける方ではなく、琉斗の親父さんに加担する方を選んだんや」
 鍋島は溜め息をついた。「親父さんはだから、俺らの質問に黙秘を決め込んだ。この男が西条俊也やと証言することはつまり、娘のキミのやったことも白状しなあかんようになるから」
「そんなこと知らないわ。パパがどう勘違いしようと、あたしには関係ない」
「琉斗の親父を守ることで、琉斗を守りたかったんだろ」芹沢が言った。「琉斗に暴力をふるう最低の野郎だけど、父親は父親だ。その親父が逮捕されたら、琉斗の家庭は今度こそ本当にめちゃくちゃになる。自分の父親だって最低だから、そんな最低のヤツらのために琉斗が犠牲になることはないって、そう思ったんだな」
「………………」
 茜は崩れるようにその場にしゃがみ込んだ。目からは涙が溢れていた。
「大丈夫か」
 その様子を見て芹沢が言った。茜にではなく、鍋島に。
「……なんとか……」鍋島は俯いていた。
 
 そのとき、ドアの後ろでガタンと音がした。刑事たちが振り返ると、誰かが全速力で廊下を走っていくところだった。

 その華奢な後ろ姿は、まぎれもなく琉斗だった。

「まずい……!」
 芹沢は舌打ちすると玄関から飛び出し、後を追った。
 その様子に茜も這うようにして玄関から身を乗り出した。そして芹沢の前を走る琉斗の姿を見つけ、両手で頭を抱えると、もう我慢ができなくなって大声で泣き叫んだ。
「やだーーーーーーっっっっっっっっ!!!!!」
「泣くなっ!!!!!!」
 鍋島はいつものあの恐怖に襲われながらも、茜の両手を掴み、ぐいと引き寄せて言った。
「……いいか。全部喋るんや。もう逃げるな」
 茜はゆらゆらと顔を上げ、底の見えない絶望的な眼差しで鍋島をぼんやりと眺めると、そのまま気を失って彼の胸に倒れ込んだ。


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