Ⅱ.若さの悲鳴ー①

文字数 4,415文字


 池波涼子が電話で指定してきた待ち合わせ場所は、北浜(きたはま)の大阪証券取引所からほど近くにある、文化庁からの登録有形文化財に指定された大正建築のビルに入るカフェだった。
 早めに着いた一条が、二階の窓際の席を選んで待つこと五分、涼子は時間きっかりに現れた。一条が自分の今日の服装を説明しておいたので、すぐにこちらを見つけると、落ち着いた歩調で歩み寄り、丁寧な会釈をした。
「一条さんですね。池波です。お待たせしてすいません」
 上品なシルエットのグレーのスーツに身を包んだ涼子は、背の高い、モデルのようにスレンダーな体型をした、どこか神秘的な美女だった。
「こちらこそ、お仕事中にお呼び立てして申し訳ありません」
 一条は立ち上がって深く頭を下げた。顔を上げると、涼子がしなやかな手つきで名刺を差し出しながら言った。
「ごめんなさい、会社の名刺しかなくて」
 大手証券会社の係長の肩書きがついた名刺だった。
「すいません、わたしは今回私用でこちらに来ておりますので、うっかり名刺は置いてきまして──」
 一条は恐縮して言った。たとえ持っていたとしても、もちろん渡すつもりもなかったが。
「いいえ、お気になさらないで」
 涼子は白い歯を見せて笑うと、一条を促して席に着いた。
 注文を終えると、涼子は微笑みをたたえながら一条を見た。
「新婦さんの後輩の方というと、大学の?」
「いえ、高校です。卒業後すぐにわたしは転居しましたので、なかなかこちらには来る機会がなくて」
 一条は適当に答えながら、これからどのようにして涼子から知りたい情報を引き出そうかと考えていた。
 しかし、あれこれと考える暇もなく、涼子は本題に入ってきた。
「わたしに聞きたい話というのは?」
「大学時代のエピソードなんかを。できればありきたりでない内容の方がありがたいんですけど」
「と言うと?」
「そうですね……正直な話、披露宴で話すにはちょっとはばかられるような内容なんかも、聞きたいところです」
 一条は少し声を潜ませた。「サプライズ、と言うんですか。もちろん、あとあともめることのないように、フィルターはちゃんと掛けますけど」
「例えば?」
「例えば、そうですね……」
「女性関係とか?」
 涼子は試すような視線を一条に投げてきた。
「ええ、まぁそういうことも含めて……」
 涼子は口元に軽く握った右手を添え、うふふ、と笑った。
「一条さん、あなた何か心当たりがあるんですね」
「何か、と言いますと?」
「中大路くんの女性関係。本当のところ、スピーチのネタ集めよりも、そっちの方が気になってて──それがあなた自身なのか、新婦さんなのかは分からないけど──わたしにリサーチしに来られたんではなくて?」
 乗っかるしかないな、と一条は思った。無駄話に時間を割く気が一切なく、話題の核心にしか興味のない涼子のようなタイプを相手にする場合、その方がきっと、話が早いだろう。
「……すいません。実を言うとそうなんです」
 一条はいかにもバツが悪そうな表情を造って首を傾げて見せた。「でも、あくまでわたしが勝手に、なんですけど。真澄センパイは何もご存じないですから」
「ご存じないとは、何のことを?」
林淑恵(はやしよしえ)さんのことです」
 涼子は目を閉じて頷くと、またすぐに一条を見据えて言った。
「その名前はどこで?」
「ごめんなさい。情報源は明かせません」
 一条のキッパリとした言い草に、涼子は納得したようだった。
「その二人の何が訊きたいんです?」
「まさかと思いますけど、二人は今も親密な関係──なんてことはないですよね」
「そう思われる根拠は?」
「先月の同窓会での様子です。そのお二人も出席したと聞きましたが、そこで二人の間に何かまた、新しい関係性ができたんじゃないかって──なんとなくそんな風に思ったものですから。さっきも言いました通り、あくまでわたしの勝手な憶測なんですが」
「なるほどね」
 涼子は手にしていたコーヒーカップをソーサーに置くと、一条を見て言った。
「あの二人、今はもうただの友人よ」
「友人?」
「ええ。少なくともわたしたちはそう理解しています」
「わたしたち?」
 一条は訊き返した。「ゼミの皆さん、と言う意味ですか?」 
「友人のみんな、と言う意味です」涼子は答えるとまた一条を見据えた。
「……信じていいんですか?」
「もちろん、ただ信じろと言っても難しいとは思います。あなた──あるいは新婦さんが納得されるための具体的材料を提供できなくては、ただのたわごとですものね」
「……そういうことです」
「確かに、この前の同窓会でもあの二人は同じグループ──つまりほら、ああいう場ではそれぞれに仲の良いグループに分かれて一緒にいるでしょう? もちろん、その中でも時には他の集団に入っていくこともあるけれど」
「ええ、分かります」
「彼らはわたしと同じその集団の中でずっと一緒にいました。わたしの記憶違いでなければ、時には二人で隅っこの席に移って話し込んでいることもあったけれど──」
 そこで突然、涼子は言葉を切った。
「どうかされました?」
「え、いいえ」
 涼子は俯き加減で小さく首を振った。その表情は今までと違って、ずいぶん自信なさげだった。
「池波さん?」
 今度は一条が涼子を見据える番だった。涼子は気づいていなかったが、その眼差しは紛れもなく刑事のそれだった。
「何かあるんですか?」
「いえ、別に……」
 涼子は相変わらず俯いていた。
「本当に?」
 涼子は返事をせず、しばらくのあいだ何かを考え巡らしている様子だった。しかしやがて顔を上げると、意を決したような表情で一条を見つめ、言った。
「一条さん、しつこいようですが──」
「構いませんよ。何でもおっしゃって下さい」
「あなたは純粋に、先輩の結婚相手が浮気をするような人物かそうでないか、それだけを心配してわたしに会いに来られたんですか?」
「とおっしゃるのは?」
「まさかとは思いますが、二人の結婚を邪魔しようとか──」
 一条は慌てたように顔の前で手を振った。「とんでもない。むしろその逆です」
 そう言うと一条は肩で大きく息を吐き、いかにもこれから大事な告白をするぞという神妙な表情になった。
「──わたし、実はとっても心配性で──真澄センパイの結婚を心から祝福する気持ちは、センパイから婚約の報告を聞いたときからずっと変わらないんですけど……昔から、少しでも心に引っかかることがあると、他のことが手につかなくなるって言うか……いてもたってもいられない性分なんです」
 一条は健気な後輩を演じた。そして続けた。
「センパイからは、『そんなに何でも心配ばかりしてたら、将来、仕事に就いたときとか、家庭を持ったときにきっとしんどい思いをするよ』って、いつも言われてたんですけど……性格だから、簡単には直らなくって。特に、友達とか家族とか恋人とか……自分にとって大切な人のこととなると、心配と言うよりも強迫観念みたいなものが、次から次に押し寄せてくるんです」
 そうなんですか、と涼子は頷き、少しのあいだ考え込んでいた様子だったが、やがて言った。
「──だったら、そんな心配性のあなたには、これ以上不安になるようなことは言わない方がいいんでしょうけど、わざわざこうして知らない相手に会いに来てまで先輩を気遣っているあなたを見ていると、わたしもあなたのお役に立ちたくなってきました。あなたがあまりに健気だから。そんなあなたを信じてお話ししましょう」
「お願いします」一条は頭を下げた。
「──あの時、二人が姿を消したことがあったような気がします。ごく短い時間だったけど」
「本当ですか?」
「ええ。そして二人が再びわたしたちの輪に戻ってきたときには、明らかに中大路くんの様子に変化がありました」
「どんな?」
「沈んでいるというか、考え込んでいるというか」
「何らかの問題を抱えたってことですね」
「ええ。ただ、何度も言うようですけど、それが、淑恵さんによりを戻すように迫られたとか、二人の間で恋愛感情が再燃したとか、そういう、恋愛関係に起因した問題が起こったことによる気分の落ち込みには思えなかったんです。なぜそう思ったのか、と訊かれれば説明つかないけど──そういう艶っぽさは感じられなかったと、そうとしか言いようがありません」
「二人の間で、もっと別の問題が起こったんだとしたら──その方がかえって厄介かも知れませんね」
「それはどうか分からないけど……」
 涼子は俯き加減で首を捻ると、目に入った腕時計が示す時間を見て言った。
「ごめんなさい、わたし──」
「すいません、お時間がないんですね」
 一条ははっとしたように胸の前で両手を合わせた。
「申し訳ありませんでした。お仕事中でしたのに、初対面のわたしのつまらない心配事に付き合わせてしまって」
「いいえ。でも、かえってあなたを不安に陥れてしまいましたね」
「とんでもない。むしろ聞いておいて良かったと思います。中大路さんが抱えた問題が何なのかは分からないし、それについてわたしには何もできなくても、中大路さんと林さんの間に昔の関係が戻っていないと分かっただけで、わたしの当初の心配は消えたんですから」
「そう納得していただけたなら、お話しした甲斐がありました」
 涼子は立ち上がって伝票を持った。一条は慌ててそれを制し、私が払います、と言った。涼子も受け容れた。

 店を出て、通りで一条が謝意を示すと、涼子はいいんですよと笑い、それからなぜか神妙な顔つきになった。
 涼子は言った。
「──最後に、もう一度訊いてもいいかしら」
「何ですか?」
「あなたに林淑恵さんの名前を教えた情報源。言えないっておっしゃったけど」
「ええ。ご勘弁願えますか」一条は申し訳なさそうに笑った。
「浅野でしょ?」
「はい?」
 一条は一切の戸惑いを隠し、見事にとぼけた。
「──あたし、彼の元カノなのよ」
 涼子はさらりと言った。「一応、結婚の約束までしてたのよ。だけど、つまらないことであっさり別れて、今じゃいい友達」
 一条は黙っていた。どんな返事をしても、浅野が情報源だと認めることになる。
「だからね、分かるのよ」
「何をです?」
「中大路くんと淑恵さんが今はもう友達だってこと」
「そうなんですか」
「ええ。その心配は本当に必要ないわ。安心して」
 涼子は笑顔になった。「じゃ、わたしはこれで」
 雑踏に消えて行く涼子を見守りながら、さてこれからどうやって林淑恵に辿り着こうかと一条は考えていた。

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