Ⅴ.調査報告ー①

文字数 5,526文字


「──へーえ。このちっちゃなオモチャが八千円?」
 テーブルの中央に置かれた買ったばかりのフィギュアのケースに顔を近付けてまじまじと見つめながら、麗子は感嘆の声を上げた。
「よく分かんないでしょ。でも、マニアにはこれがお宝ってわけ」
 向かいに座った一条が腕組みして言った。「まあ、一部の女性にとってのブランド品みたいなものなのかな」
「男子はいくつになっても少年やから」
 麗子の隣の萩原が言った。「むしろ、子供の頃には手に入らへんかったものが、大人になったら思う存分集められるってところもあるし」
 一条は萩原に向かって頷いた。「そういうことでしょうね」
「いずれによ、その刑事サンがこのお土産で喜んでくれるのなら、それでいいじゃない」
 麗子は上体を起こしてにっこりと笑った。
「そうね」と一条は肩をすくめた。「二人のおかげよ。あのままあたし一人で探し回ってたら、一生無理だったと思うし」
「もうちょっとで新世界(しんせかい)まで行っちゃうところだったもんね。呆れちゃう」麗子は苦笑した。
「面目ない」
 一条は少し顔を赤らめて、フィギュアを鞄にしまい込んだ。
「さてと、それじゃ本題に入りましょうか」
 三人は今、日本橋の黒門市場(くろもんいちば)にある台湾スイーツのカフェにいた。そこを選んだことに特に意味はなく、オタク文化が幅を利かせる恵美須町では普通の喫茶店を見つけるのが困難だっただけのことだ。
 一条は背の高いグラスに入ったタピオカミルクティーを一口飲むと、いつもの、流れるような口調で話し出した。
「そのオタク刑事──二宮くんって言うんだけど──彼の調査によると、林淑恵は神戸市出身で、両親は南京町(なんきんまち)と言うところで食品輸入会社を経営しているわ。地元の進学校では三年間トップの成績。現役で京大に入って、卒業後は大阪の貿易会社で働いていたらしいんだけど、二年で辞めて、悔いのない人生を生きたいんだと言ってイギリスに渡ったの」
「中大路さんのあとを追ったんやな。山岸の話と一致する」
 萩原が言った。
 一条は頷いた。「さっき言ってた元同僚って人の話ですね。その人の言う中大路さんの同居人というのは、林淑恵と考えて間違いないと思います」
「中大路さんの赴任後まもなくからだったみたいだけど、どうも帰国する頃にはいなくなってたそうよ」麗子が言った。
「彼女も三年足らずで戻ってきたみたい。そのあと半年ほどは実家に身を寄せてたらしいんだけど、やがて高校時代の知人を頼って東京へ出た。そこで今度は、自分で小さな輸入雑貨の会社を興したの」
「すごいバイタリティーやな」萩原が言った。
「だけど、なんだか慌ただしい生き方ね」
 麗子が首を捻った。「だいいちそんな仕事、簡単にできるものなのかしら」
「貿易会社で働いてたし、親の商売も見てたんやろうな」
「それに、中大路さんの今の仕事とも通じるものがある」一条が言った。「むしろそのことが強く影響してるって風には考えられない?」
「どういうこと?」と麗子は訊いた。「彼に対する意地ってわけ?」
「意地というか──こだわりみたいなものかな」
 一条は言うと向かいの二人をじっと見た。その意味ありげな表情を見て、麗子が静かに言った。
「……中大路さんと彼女の間に、やっぱり何かあったのね?」
 一条は頷いた。そして言った。
「彼女、中大路さんとの仲をずっと反対されていたらしいの」
「反対って……両親に?」
「ええ。双方の両親に」
「理由は?」と萩原。
「林淑恵は、日本人じゃないの。厳密に言うと、日本国籍を持っていないってこと」
「……なるほどな。それで南京町か」と萩原は溜め息混じりで言った。「中国籍?」
「いいえ、台湾。一族は彼女の祖父の世代で来日して、彼女は在日三世というわけ」
 一条は言うと小さく肩をすくめた。「ほとんど日本人ね」
「それで中大路さんの両親に交際を反対されたというわけね。京都の立派な会社の跡取りの嫁としては、相応しい相手じゃないって」
「中大路さんの親にだけじゃないわ。自分の両親──祖父母にも反対されてたらしいのよ」
「日本人は駄目だって?」
「それもあるかも知れないけど、実は、彼女自身も跡取りなの。祖父の代に身一つから興して、今ではすっかり立派になった中華食材専門に扱う輸入会社の一人娘ってわけ」
「だけどそうやって、家を出て別の会社を興したりしてるんでしょ。それはいいの?」
「逆に大歓迎なんと違うか。軌道に乗れば、同族企業として傘下に入れることも考えてると思うで」
「あたしもそう思う」と一条は頷いた。「とにかく、二人の関係は両方の身内からは歓迎されないまま、それでも大学の間は続いてたそうなの。だけど就職して、お互いの生活環境が違ってくると、すれ違いが起きてくるのは二人に限ったことじゃないでしょ。特に中大路さんの方は海外赴任で大きく環境が変わって、彼女に対する気持ちも少しは違ってきたのかも知れないわ」
「……俺にも心当たりがある」と萩原が言った。「俺の場合は結婚してたから、それでは許されへんのやけど」
「確かに、中大路さんと一緒にはできないわね。あいにくだけど」
 麗子は気の毒そうに萩原を見て言うと、溜め息をついた。
「……あれ、悪いこと言っちゃったかな」と一条は肩をすくめた。
「ええねん、もう結構慣れてるから」萩原は笑った。「それで? 林淑恵は心配になってロンドンに乗り込んだってわけか」
「そうなんでしょうね。そこで数年は一緒に暮らしたけれど、結局は淑恵が先に一人で日本に戻ってきた。二人の間にどういう話し合いがあったのか、あるいは何もなかったのか、そこまでは二宮くんの調査でも分からなかったみたい」
「さすがにそこまではね」と麗子は頷いた。
「林淑恵はずっと、自分と中大路さんは本当は結ばれるはずなんだと思ってるんじゃないかしら。別れたのは決して二人の本意じゃないんだって、そんな思いが彼女にはずっとあるような気がするの。お互いの家の反対のせいで一時的に気持ちがすれ違ってしまったけれど、本当は今でもお互いへの想いはまだ消えてはいないんだって。だから、彼自身とは離れてしまっているけれど、彼を感じる世界に身を置くことで、自分はまだ彼と繋がってるんだと思おうとしてるんじゃないかしら。いつかまたきっと寄り添うときが来るんだって、無理にでも考えようとしてるように私には思えるの」
「こだわりって言ったのは、そういう意味だったのね」
「ええ」
「だけど同窓会で、相手には婚約者がいることを知った」萩原が言った。「せやから拉致ったって?」
「完全なる拉致ではないと思うんです」と一条は答えた。「積極的ではないにしろ、中大路さんはある程度納得して姿を消したような気がするし」
「必ず五日で戻るってメールしてきたから?」
「それもあるし、野々村さんに迷惑がかかるのを恐れたっていうのもあるんじゃないかしら」
「じゃあ仮に中大路さんがある程度納得して真澄ちゃんの元から行方を眩まして林淑恵のもとへ行ったんやとして……そこで何をしようとしてるんやろ。ただ話し合うだけやったら、一ヶ月以上も前に逢ってるんやから、わざわざ今まで引き延ばして、しかも姿を隠す必要まではないはずや」
「やっぱり、何らかの脅しというか、脅迫みたいなものを受けてたんじゃない?」麗子が言った。
「それが妥当な線でしょうね。ひと月かかって何とか収めようとしたけれど、結局今のこの時期になっても無理だった」
「それが何かを突き止めたら、きっと中大路さんの居所も判るってことやな」
「たぶん。と言うか、そうあって欲しい」
 一条は言うと深い溜め息をついた。「でも結局、今のところ肝心のそこが判ってないのよね」
「これだけでもすごいわ。その刑事サン、いったいどうやってこの短時間でそこまで調べ上げたの?」
「二宮くんはおそらく、大学のルートからアプローチしたんだと思うの。電話でそう言ってたし」一条は言った。「アニメやゲームのオタクって、今やあらゆる方面に存在してるでしょ。そして、彼らはとても頼りになるネットワークで結びついてるみたい」
「どんなことでもあっという間に調べ上げるんやな。しかも極めて綿密に、正確に。それが自分にとって興味のあることだろうがなかろうが、目の前に課題が投げかけられたら、放っとくことはできひんのやろな。きっとそれが彼らの性質なんと違うか」
「一種の学者気質でしょうね」
「分かる。学者もある意味オタクだもん」
 麗子は自分にも思い当たるフシがあるのか、大きく頷いた。
「同僚として頼もしいような、怖いような」
 一条は苦笑して肩をすくめた。
「話は戻るけど……脅しや脅迫って、される側に何らかの弱味というか、後ろめたい状況がないと成立しないでしょ。つまりそんなことが中大路さんにあったってことよね」
 麗子は言うと表情を曇らせた。
「いや、そうとも限らへんで。自分に落ち度がなくても、相手の思い込みによる一方的な攻撃かてあり得るんと違うか。特に男女の仲では」
 萩原の発言に一条も頷いた。「中大路さんは結婚式を控えてるわけだし、例えばそれをぶち壊すとか言われたら、相手に対する落ち度がなくても、慎重にならざるを得ないんじゃないかしら。野々村さんに心配かけたくないって考えるのも自然だし。マンションの周辺を怪しげな男たちがうろうろしてたってことも、もしも中大路さんの耳に入ってたとしたら、なおさらよ」
「ただ……それと男女関係のもつれって、どうも結びつかへん」
 萩原は独り言のように呟いた。
「豊、さっきからずっと言ってるわね。日常と非日常だって」
「ああ」
「ところが、実際はそうでもないのよ」
 一条が言った。「ほんの些細なことが原因で、ヤクザも顔負けなことをする人間はたくさんいるわ」
「……そうなんや」
 ええ、と一条は頷いた。そして隣の椅子に置いた鞄から新聞を取り出すと二人を見ながらテーブルに置いた。
「なに?」と麗子が新聞を見た。
「この事件記事。昨日西天満署の管内で起こった傷害事件よ」
 一条が指を差した記事を、麗子と萩原は覗き込んだ。
「『アルコール依存症の妻 夫を包丁で刺す?』……」
 麗子が記事の見出しを呟いた。
「たぶん鍋島くんと貴志が担当してるわ」一条は言った。「記事では明言を避けてはいるけど、原因は夫婦の不仲にあった。そんなこと、(いにしえ)の時代からあたりまえの日常。だけどこの夫はどうやら今、病院のベッドで死線を彷徨(さまよ)ってるみたいね」
「日常が非日常と直結してる典型例ってわけか」
「……そういうことね」
 麗子は言うと新聞を一条に返した。「一条さん、西天満署の事件をちゃんとチェックしてるのね」
「たまたまよ。今朝、刑事課から貴志のケータイに電話があって、彼、それっぽいことも話してたし」
 一条は麗子から新聞を受け取ると鞄に戻した。
 するとそのとき、鞄の中でスマートフォンの着信音が鳴った。
「──二宮くんだ」
 一条は画面を見て指を動かした。「──もしもし?」
《──あ、警部、僕です》
「八千円だった」
《はい?》
「ロボットよ」
《……ああ、ええそうです。ありがとうございます》
「明日持って行くから」一条は得意げに言った。「それで?」
《林淑恵の会社の取引先で一件、関西の会社を見つけました》
「五秒待って」
 一条は鞄から手帳を取り出し、ペンホルダーに挟んだ水性ボールペンを抜くとキャップを外した。「オッケー」
《株式会社『慶福堂(けいふくどう)』。慶びごとの慶に、幸福の福。それにお堂の堂。住所は京都市上京(かみぎょう)堀川中立売東入(ほりかわなかだちうりひがしいる)となってます。アジア各国からアンティーク家具を輸入している小さな会社です》
「京都で、しかも輸入家具会社か……」
 メモを取りながら一条は呟いた。
《何か繋がるんですね》
「まあね」と一条は言った。「関西の会社はここだけ?」
《ええ、今の時点で分かってる限りでは》
「ありがと」一条は手帳を閉じた。「ところで、そっちはどう?」
《訊いてどうするんです?》二宮は言って笑った。
「一応、気になるから」
《ズル休みの警部に心配していただかなくて結構ですよ》
「言ってくれるわね。これだけのことを調べ上げてなかったら、許してないわよ」
《そりゃ助かった》
 二宮は嬉しそうに言った。《ということは、役に立ったんですね》
「ええ、ずいぶん。どうやって調べ上げたのかは訊かないけど、この短い時間でこれだけの結果を出すのは大変だったでしょ」
《そう苦労はしてませんよ。きっと警部は僕がどうやって調べたかある程度推測してらっしゃって、それは正解とそう遠くはないんでしょうけど──

にとっては容易いことです》
「当然のことながら精度についても信用していいわけだ」
《もちろんですよ。たいていのことは誤差なしで調べられます》
 そして二宮は今までの愉しそうな口調を少し抑えた、静かな、しかしあくまでも屈託のない調子で言った。
《たとえば──

のことなんかでも》
「──────」
 一条はほんの少しの間黙っていたが、やがて言った。
「あなたを敵に回さない方がいいみたいね」
 電話を切った一条は麗子と萩原に言った。
「京都へ行かなきゃ」
「あたしも行くわ」麗子が答えた。


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