Ⅱ.横浜にてー②

文字数 3,409文字

 一条と二宮はまず、最寄駅から横浜駅経由で渋谷(しぶや)へ向かった。傷害事件の被疑者が逃走中に身を寄せたという遠戚の経営する中古車販売店が渋谷にあり、被疑者の供述の裏付けを取るためであったが、実はそんな用件はさっさと終えて、同じ渋谷にある林淑恵の会社を調べるためだった。

 中古車屋ではごく形式的な裏付けでことが済んだ。
 社長は被疑者の高校時代の先輩で、遠い親戚でもあった。
 被疑者の、あくどい金貸しから連帯保証人になった友人の借金の返済を迫られ、逃げているという嘘を鵜呑みにして、二日間面倒を見たとの証言を得た。被疑者の供述通りだった。
「──ねえ刑事さん、あいつ、オレにはホントのこと、何も言わなかったんだ。それでもオレはあいつの逃亡を助けたことになるわけか? つまりそれって罪になるってことかい?」
 営業車であるレクサスのボンネットを磨きながら、ずんぐりとした体格の社長は刑事たちに訊いた。
「いや、それは──」
 二宮が答えようとするのを、彼の上着の裾を引っぱることで制した一条は、極めて平坦な口調で社長に言った。
「そのときはまた、あらためてお話を伺うことになると思います」
 社長は眉をひそめた。「罪になるのか、ならないのか。あんたたちにだって分かるだろ?」
「そうですね。だいたいのことは分かりますが、残念ながら今ここで断言することは出来ないんです」
 一条はにっこりと笑った。しかしその瞳はいかなる感情すら映し出してはいなかった。
「……そういうもんかね」
 社長は納得がいかない表情で一条を見下ろした。

 この中古車屋をあとにして、やがて被疑者は、再び横浜に舞い戻ったところを逮捕されたのである。

 中古車販売店を出て、林淑恵の会社のある道玄坂(どうげんざか)方面に向かいながら、二宮は一条には振り返らずに言った。
「──ちょっと訊いてもいいですか」
「この事件のこと? それとも京都の一件?」
「いえ。警部自身のことで」
「あたしが休みを取って関西に行った理由だったら、ノーコメント」
 一条は素っ気なく即答した。二宮は呆れたように笑った。
「そこをわざわざ訊くほどボクも野暮じゃないですよ」
「だったらなに」
「警部はどうして現場にこだわるんです」
 一条は二宮に振り返り、怪訝そうに目を細めて彼を見据えた。
「あたしが所轄にいちゃダメ?」
「駄目とは言いませんけど……違和感はあります」
「そうか……そうよね」
 一条は二宮から視線を逸らし、ふっと自嘲気味に笑った。
 そして彼女もまた前を見たまま、静かな口調で言った。
「現場が好きだから……ではきれいごとに聞こえる?」
「それが本当なら、納得はしますけど」
「信用できないというわけね」
「そうじゃありませんけど」
 二宮は少しムキになったように言った。「今の中古車屋みたいに、ずいぶんと素っ気ない態度に終始したり……おっしゃるほど現場が好きなようにボクには思えないって言うか」
 なるほどね、と一条は小さく頷いた。それを見た二宮は顔をしかめた。
「……すいません、生意気でしたね」
「何が?」と一条は二宮を見た。「どうしてそう思うの?」
 二宮は困ったように肩をすくめた。「だって……警部どのに対する発言じゃありませんでした」
「つまらないこと言うのね」一条は口元を歪めた。
「大阪府警のイケメンだったら、そんなこと言わないんですか」
 一条は苦笑した。「ノーコメントって言ったでしょ」
「何だか妬けますね」
 一条は眉を上げて二宮を見た。「あら、本気?」
「まさか」と二宮は悪戯っぽく笑った。「警部を本気で相手にするほど、ボクは無謀じゃありません」
「そうよね」
 一条は今度は穏やかな笑みを浮かべると、すっと真顔に戻り、そして言った。
「──あたしはね、二宮くん。あなたも思ってる通り、きっと所轄には必要のない人間よ。だからいずれあそこを離れて、本庁に行くわ。それから次は霞ヶ関に戻って、どんどん偉くなる。たぶん二宮くんとは二度と顔を合わせることのないような、ずっと上に行くの。そしてそれはおそらく、よほどのことがない限り疑いようのない事実よ」
 そこまで言って一条が二宮を見上げると、二宮は黙って頷いた。
 一条は続けた。
「だからこそ、今は現場にこだわるの。警察庁に戻ったら、現場を長く見てきたあたしにしかできないことをするためによ。ただの経験値向上のために所轄に腰掛けてた連中とは違う、あたしにしか成しえない仕事をしたいの。二宮くんや──そうね、大阪府警のイケメンだって──彼ら現場の刑事がどんな風にのたうち回ってるか、あたしには分かるはずだから」
「そうですか」
 二宮は嬉しそうに微笑んだ。
「だからもう少し、あたしに付き合ってもらうわよ」
 一条は可愛らしくウインクした。
「分かりました。おやすい御用です」
 二宮も軽く片目を閉じた。

 林淑恵の会社が入っているという雑居ビルに着くと、二人は袖看板を頼りに二階へ上がった。
 そこで二人が目にしたのは、思いもよらぬ貼紙だった。

 『都合により閉鎖』

 油性のインクで乱暴に書かれた紙切れが、会社のドアに貼ってあった。
 二人は大きく溜め息をついたあと、押し黙ったまま階段を下りた。

「──すいません、この上の会社についてちょっと訊きたいんだけど」
 雑居ビルの一階にあるセレクトショップの前で移動式のハンガーラックを運んでいる若い男に一条は声をかけた。
「上? ああ、引っ越しちまったよ」
 キャメルカラーの革ジャンにヴィンテージ物と分かるジーパン、凝った刺繍の施されたウェスタンブーツを履いた金髪の男は顔を上げずに答えた。
「いつ?」
「一ヶ月ほど前だったかな。手狭になったから、引っ越すんだって言ってた」
「どこへ行くか聞いてませんか?」 
元町(もとまち)
「元町って、横浜の?」
「そうだろ。そこ以外にどこがあるんだ?」
 男はここで初めて二人を見た。二十五歳前後のその男は鷲鼻に二つの“輪っか”をぶら下げていた。
「横浜に引っ越すって、確かに言ったんですね?」
「ああ。俺がどこ行くんだって訊いたら、元町って答えたから、それってどこにあるんだって言ったんだ。そしたら、元町の場所も知らないの? 横浜に決まってるじゃないって笑いやがった」
「失礼だな。それで?」二宮が訊いた。
「だからオレ、なんだよ、オレは同じ渋谷のことだと思ったから、渋谷でそんな場所は知らねえと思って訊いたんだぜって言ったよ。だってそうだろう? 手狭になったからっていう理由だけで引っ越すんだったら、そう遠くへは行かないと思ったんだ。よく分かんねえけど、馴染みの客とかもいろいろ付いてるだろうしさ、あんまし場所は変えねえ方がいいだろ」
「確かに」
「……あの女、人のこと見下した感じで気に入らねえ」
 男は吐き捨てるように言うと、その時のことを思い出しているらしく、忌々しい顔つきになって舌打ちした。

 雑居ビルをあとにして渋谷の駅に向かう道すがら、二宮は悔しそうに一条に言った。
「……すいません、そこまで調査が追いついてませんでした」
「この住所はどうやって調べたの? まさか自分の身分を使ったわけじゃないわよね?」
「……役所のルートです」
「そういう情報源を持ってるんだ」
「警部のおっしゃる、オタク仲間です」
「明らかな職務規程違反ね」
「そこを突かれると、なんにも出来ませんよ」
「まあいいわ。実際あそこに看板は残ってるんだし、まだ登記を移してないんでしょ」
「そうだと思います」
「だったらしょうがないわね」
 一条は言うと、なぜだか満足げに微笑んだ。
 その様子を見た二宮はほっとしたような表情を浮かべ、そして言った。
「あの、また訊いていいですか」 
「いいわ。この際とことん訊いちゃってよ」
 一条はさばさばした口調で言った。
「その行方不明の婚約者って、警部とはどういうかかわりの人物なんですか」
「まったく面識無しよ」
「じゃあ、その女性の方と知り合いとか」
「今回初めて会った。話は聞いてはいたけど」
「なるほど」
 二宮は頷いた。そして言った。
「やっぱり警部は変わってます」
「ありがと」
 一条はまた可愛らしい笑顔を二宮に向けた。
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