Ⅲ.臆病がゆえの断罪ー①

文字数 4,149文字


 マンションのエントランスを転げるように飛び出した芹沢は、実際、勢い余って表の階段を三つも飛ばして下り、もう少しで膝を突くところだった。
 大慌てで体勢を立て直し、周囲を見渡した。通りのどちらの方向にも、琉斗は見あたらなかった。
 もう制裁を加えに行ったのか。
 芹沢は髪を掻きむしり、琉斗のマンションの方向に走り出した。
 その瞬間に、茜の自宅玄関にコートを忘れてきたことに気づく。今日に限ってスーツを着たがためにわざわざコートを羽織っており、そのせいで暖房の効いたエレべーターが我慢できず、脱いでしまっていたのだ。おまけにノータイときているから、首元からたちまち寒さが染みこんでくる。体脂肪率11%の身体では、燃やす脂肪もほとんど無い。
 ちくしょう、何でこんなことになるんだと芹沢は今の状況を呪った。あいつが事実を知ったら、こういうことになるのは分かっていた。だから本当は茜に直接問い質すことはしたくなかったし、できれば深見の口からすべてを語らせて……いや、それもまた酷な話か……

 ──は、まさかな。
 まったく俺は、何を甘いことを考えてる?

 それもこれも、琉斗のせいだと芹沢は思った。あいつが茜への想いをこんなにも剥き出しにしやがるから、俺はついそれに(ほだ)され、たじろいでしまっているんだ。この俺がだ。好きだの嫌いだの、守りたいだの傷つけたくないだの、しゃらくせえ他人の心の機微なんざクソ食らえで生きてきた俺としたことが──しかも刑事のくせに──なんてザマだ? 

 たかが中高校生の、ガキの恋愛ごっこじゃねえか。

「覚えてやがれ──」
 芹沢は忌々しそうに呟くと、現れた琉斗のマンションの玄関ドアを突き破るようにくぐった。

 琉斗の自宅は三階にある。エレべーターなんか待っているよりも階段を使った方が早いと思い、エレべーターホールの脇にある階段を芹沢は駆け上がった。そう思うだけの若さが彼にはあった。
 三階に着くと、芹沢は少し歩調を緩めて廊下を進み、扉の右上にある表札を一つ一つ確認していった。そして五枚目のドアの表札に目指す苗字を見つけた。
 芹沢はすぐさまインターホンを押した。家人がすぐに出て来るとは思っていなかったので、何度も試みた。
 四回目のベルを鳴らしたところで、ドアがゆっくりと開いた。
「西天満警察だ。息子は居るか?」
 芹沢はバッジを突き出し、顔を出した女に問い質した。
「あ、あの──」
 琉斗の母親と思われる女は明らかに戸惑った表情で芹沢を見上げていた。小柄な痩せぎすの女で、目の下にいくつものくまを作っていた。
「ここのクソ坊主だよ。居るんなら出せ」
「ど、どういうことですか?」
「琉斗のことを言ってんだ。居るのか居ねえのかさっさと答えろ」
「息子は居ませんが……何か?」
「いつから居ねえ? 今ここへ戻ってこなかったか?」
「戻ってきましたけど、すぐに出て──」
「どこへ行った?」
「分かりません」
「あんたの亭主は?」
「あの、ですから何なんです?」
 芹沢は顔を背けて舌打ちした。すぐに女に振り返り、ドアを掴むとぐっと顔を近付けて言った。
「……奥さん、呑気に話してる場合じゃねえんだ。俺は刑事で、あんたの息子を捜してる。しかもちゃんとした手順も踏まず、こんな強引なやり方で、まるであんたを脅すも同然だ」
 女が息を呑むのが分かった。芹沢は続けた。
「そう。この事態がどういうことか分かってもらえるよな。十六かそこらのガキが警察(サツ)に追われてるなんて普通じゃねえよ。あんたもこれ以上、家族が地獄へ堕ちていくのを見たかねえだろ?」
 しかしもうすでにその地獄を見ているのか、女は疲れたような溜め息とともに肩を落とし、右手で顔を覆った。そして力なく言った。
「あの子はきっと……主人のところへ行ったのだと思います」
「亭主はどこにいる?」
「はっきりとは分かりません……パチンコか競馬か」
「どこのパチンコ屋だ?」
「分かりません、京橋(きょうばし)かどこか」
「琉斗のケータイ番号は?」
「は?」
「携帯電話の番号だよ。知ってるんだろ?」
「し、知りません」
「どいつもこいつも……!」芹沢は舌打ちした。「上がらせてもらうぜ」
 芹沢は力ずくでドアを開くと女を押し退け、靴を脱いだ。
「あ、あのちょっと──!」
 女を無視して芹沢は廊下を進んだ。両側に並んだ部屋のドアを黙って開き、中を確認していく。左側の一番奥が琉斗の部屋だった。
 芹沢は中に入ると、正面の机の上を物色し、携帯電話料金の請求書を探した。琉斗は自分で料金を払っているはずだから、そういうものがあるだろうと見当をつけたのだ。それがあれば番号が分かる。
 抽斗(ひきだし)をかき回したが、見あたらなかった。屈んだ体勢の視界の端で、琉斗の母親が立っていた。

 ──そぶりだけは、心配でございますってか。

 芹沢は溜め息をついて身体を起こした。そしてベッドの上に散乱した衣服や雑誌を一つ一つ手に取り始めた。 
 芹沢はぽつりと言った。
「──母親は優しかったけど、学校と親父からオレを助け出してはくれへんかった」
 相変わらず下手くそな関西弁だった。
「は、はい?」ドアの脇に居た母親が目を見開いた。
 芹沢は手に取った雑誌をペラペラとめくっては無造作にベッドに捨てながら続けた。
「そんな人生終わらせてえと思っても、あいつには勇気がなかった」
 目の前の刑事が琉斗のことを言っているのだと気づいた母親はゆっくりと俯いた。
「だから自分で救世主を見つけて、それを拠り所にしてたんだ」
 芹沢は顔を上げて母親を見た。その手には請求書があった。
「その救い主を、どんなになっても守ろうってな」
「あの──」
 芹沢は携帯電話を取り出し、琉斗の番号を押すと部屋を出て玄関に向かった。何度コールを鳴らしても琉斗は出なかった。後ろから女がついてくるのが分かっていたが、一切振り向かずに部屋を出た。

 ──ああいう連中はうんざりだ。

 何度も琉斗に電話を掛けながら、芹沢は今度はエレべーターに乗り込んだ。このマンションのエレべーターは暖房など効いていない。琉斗にとっては、隅々にまで空調設備の行き届いたマンションに住む茜は、本当に聖母(マドンナ)だったのだろうと思った。
 そう思うとやりきれなくなって、芹沢は電話を耳に当てたまま、俯いて肩で大きく息を吐いた。

 足許に、まだ新しい血痕が落ちていた。

 三秒だけそれを見つめて、芹沢は目の前のドアを思い切り蹴飛ばした。古ぼけたドアはびくともせず、しかしガタガタと揺れながら沈んでいった。
 ドアが開くと芹沢は猛ダッシュで飛び出した。電話を鳴らし続け、落ちている血痕をたどり、しかし迷走するその赤い涙は、やがて建物の裏口らしき小さなドアへと彼を導いた。
 芹沢はドアを開けた。ぬるっとした感触のドアノブが、彼の手を赤黒く汚した。

 すぐ脇の壁にもたれて、琉斗が立っていた。右の腹の辺りから真っ赤な血が出ていて、デニムの太股まで達している。足許にも血溜まりが出来つつあり、そばにナイフが落ちていた。

 芹沢は電話を鳴らしたまま、彼の前に立ちはだかった。琉斗の尻で着信音が鳴っていた。
「……こんな……バカなことって……」
 琉斗は目に涙をいっぱい溜めて、芹沢を見つめた。苦痛で顔の全部が曲がっていた。それでようやく鼻とのバランスが取れている。哀しいくらい滑稽な現実だった。
「うるせえ。それはこっちの台詞だ」
 芹沢は琉斗への電話を切り、一一九番にダイヤルした。繋がった相手に出動要請をし、そこでようやく電話をしまった。
「一番のバカはてめえだろ」芹沢は腕組みをした。「てめえが腹切ってどうすんだ」
「親父が、なんで……」
「しょうがねえよ。おまえの親父はそういうヤツなんだから」
「せやけど──」
「一つ言っとくけどな、あんま喋んない方がいい」芹沢は軽い口調で言った。「できたら、座った方がいいとも思うぜ」
「だって──」
「だから喋んなって。めんどくせえことになるからよ」
「……せやからもうオレのことはほっといてって──」
「おまえ怪我人だろ。一応面倒見るのが警察の

な」芹沢は目を細めた。「この前も説明したろ」
 琉斗の表情が緩んだ。「……突っ立ってるだけで、面倒なんか見てへんやんか」
「服が汚れる。それに、手を差しのべたらおまえが安心して、気力の糸を切っちまうかも知れねえだろ」
「……なるほど。確かに今日もカッコええよ」
「まあな」芹沢は言うと琉斗の足許のナイフを拾った。「とにかく、もう黙ってろ」
 血まみれのナイフをじっと見つめて、芹沢は琉斗に視線を移した。琉斗の顔がまた激しく歪み始めている。
「こんなもん、おまえみてえなへなちょこが持つもんじゃねえな。誰一人ビビらせることもなく、結局は破れかぶれでてめえの腹刺してたんじゃ世話ねえよ」
 琉斗はハハッ、と笑って頷いた。その拍子に脇腹に添えた指の間から血が落ちる。
「……マズくなってきたな」
 芹沢は呟くと、琉斗の左側に回って腕を取り、自分の肩に回して背中を支えた。
「ゆっくり座るんだ」
「服、汚れる……」
「冗談に決まって──」
 そう言った瞬間、琉斗は崩れるように芹沢に寄りかかってきた。芹沢は全身で彼を受け止めると、両手を彼の後ろに回し、デニムに通したベルトを掴んで踏ん張った。琉斗が、自分が倒れ込んだことで自ら受ける衝撃を、少しでも抑えるためだった。
「堕ちるなよ──」
 芹沢は言うと琉斗を抱きかかえたままゆっくりと膝を突いた。
 琉斗は首を折って芹沢の肩に顔を埋めていた。意識が徐々に薄れていくのが分かった。

 ──終わらせる勇気もないって、言ってたじゃねえか──

 芹沢は琉斗の腰から手を離して彼の背中を掴んだ。その手が小豆色に染まり、ワイシャツの袖口も同じ色に変わっているのを見て、重い溜め息をついた。
「──スーツなんて着なきゃよかった──」

 遙か向こうから、ようやくサイレンの音が聞こえてきた。



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