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文字数 2,691文字

「浩介、食欲がないのか?」
 ばあちゃんが俺の顔をのぞきこむ。ミツ子さんも箸がすすまない俺を、心配そうに見ている。俺は笑って「そんなことないよ!」と出し巻き卵をほおばる。ばあちゃんが今日の夕方、元に戻るからって、落ち込んでいてもどうしようもない。俺は俺のできることをするだけだ。
「浩介くん、今日は米の特売日なんよ。あとで二人で買ってきて欲しいんだけど」
「ミツ子さんは行かないんですか?」
「おれはもう少し畑の様子を見て、種が蒔けそうなら種まきすっから」
 玄関で鍬や畑仕事の道具を用意したミツ子さんが、俺とばあちゃんに手を振る。
 ミツ子さんも大分元気になった。ばあちゃんとは色々思い出ができた。この辺が潮時なのかもしれない。落ち込んだ表情で下を見ていると、ばあちゃんがぎゅっと手を握ってきた。突然のことで顔が赤くなる。さすがに異性として見ることはないのだが、不意打ちを食らうと赤面してしまうのは仕方がない。
「どうした、浩介。何かあったのか?」
 ばあちゃんに話すべきなのか。今日の夕方に一〇三歳の姿に戻ってしまうことを。俺は、ばあちゃんはもう色んなことをやったと勝手に思っているけど、ばあちゃんはまだやり残したことがあるかもしれない。やり残したことがあるまま、元の姿に戻してしまっていいのだろうか。
 農協に着くと、米を十キロ頼み、精米してもらう。白い雪のような米が、どんどん袋に入っていく。俺はそれをじっと眺めながら、ばあちゃんに打ち明けるかどうか迷っていた。
 米を担いで阿部本家まで帰ると、すっかり汗だくになってしまっていた。一度帰宅していたミツ子さんが、「お疲れさん」と麦茶を出してくれる。それを一気飲みしながら、横目でばあちゃんを見る。ばあちゃんは、今日ミツ子さんが蒔いてきた種の袋を眺め、秋の収穫を楽しみにしている。ばあちゃんに、秋は来ない。俺は胸が締めつけるように痛くなって、ついに決心した。
「ばあちゃん、午後に海へ行かないか?」

 午後からは、畑仕事を手伝ってもらえると思っていたらしいミツ子さんが、ぶうたれていたが、俺にはばあちゃんにどうしても伝えないといけないことがある。阿部家の納屋に置いてあった自転車にばあちゃんを乗せて、海に向う。元々阿部本家から海までそんなに遠くはない。十分もあれば着いてしまう。
 腕時計は一時半を過ぎていた。もう昼を過ぎてしまえば、夕方まであっという間だ。俺は自転車を端に置くと、防波堤にばあちゃんと腰かけた。
「ばあちゃん、あのさ!」
 俺は前置き無しで夜中じいちゃんに会ったことを話そうとした。が、ばあちゃんは何を話すか前もってわかっていたように、笑顔でうなずいた。
「あんたも、総一朗さんにあったのかい」
 俺は唖然とした。ばあちゃんは自分が今日、一〇三歳に戻ることを知っている。それでも気丈に振舞うばあちゃんに、俺はつい涙目になる。
「俺、嫌だよ。今までばあちゃんのこと、何にも知らなかった。やっとばあちゃんのことがわかってきた。そう思ってたときだったのに……」
 涙がぼろぼろこぼれて止まらない。情けないが、自分の力では一切止められないのだ。ばあちゃんがハンカチで顔を拭ってくれる。
「あーあ、まったく泣き虫な孫だ」
 ばあちゃんは自分が寝たきりに戻るというのに、笑っている。
「じゃあ浩介。あたしの最後のお願い、聞いてくれるかい?」
 ばあちゃんはいたずらっこのようにウインクをして、人差指を唇に当てた。

「どうしたの? 突然呼び出すなんて」
 数の少なくなった公衆電話を探し出し、そこから美佐子の携帯に連絡して呼び出すと、三十分くらいで待ち合わせた喫茶店に来てくれた。
 ばあちゃんの前には、油性のボールペンに朱肉が置いてあった。必要なものはこれで充分かはわからなかったが、とりあえず大丈夫だろう。
「これ……一体何する気なの?」
 不思議そうに美佐子は、ばあちゃんの前の道具を見ている。これからばあちゃんは、残った時間で最後の仕事をする。そう、遺書を作るのだ。
 もくもくとばあちゃんは文字を書いていく。二十分くらいで書き終わり、ばあちゃんは自分の親指を朱肉にべったりつけた。それを今度は紙に押し付ける。横には俺と美佐子のフルネームが書かれている。この遺書が法的に有効になるかどうかはわからない。俺が法学部とはいえ、遺書の立会いなんてやったことはない。だが、これが完二伯父さんに与えられる最後の愛のムチだった。
 美佐子と別れ、三時十五分。荷台にばあちゃんを乗せて万代橋を自転車で走る。日差しがじりじりと俺の髪、首、背中を焼く。麦藁帽子をかぶっていたばあちゃんは、帽子が飛ばされないようにしっかりと手で押さえていた。
 万代橋の河川敷で、俺はばあちゃんに訊ねた。
「最後……さ、どこに行きたい?」
『最後』という言葉に詰まる。最後なんて思いたくない。もっとばあちゃんと出かけたいところがある。ふと、自分が五歳だった頃を思い出した。ばあちゃんに手を引かれて散歩したあの頃。ミニトマトを採ろうって、今くらいの時間に畑へ繰り出したっけ。畑だけじゃない。子供公園や、プール。実は色んなところに行ってたんだ。それを俺は全部忘れていたんだ。
「そうだな……夕日が見たい」
「よし、夕日だな!」
 俺は覚えていることを総動員させて、今いるところから一番夕日が見えるところを検索した。じいちゃんの墓だ。あそこは広い畑が広がっているので、夕日はよく見えるはずだ。俺は少しぐったりしてきたばあちゃんを背に乗せて、自転車を飛ばす。最後に、ばあちゃんに真っ赤で、一生忘れられないような、心臓みたいな夕日を見せるために。

 自転車にばあちゃんを乗せたまま、じいちゃんの墓の前まで行く。苔が夕日を受けてきらきらと光っているように見えた。
「それにしても、最後にじいちゃんのところにくるなんて、負けた気分だ」
「何がだ?」
「俺、ばあちゃんにも認められるぐらいのいい男になりたかったんだけど、結局じいちゃんの勝ちみたいなもんだろ? これって」
 俺がサドルの上で文句を垂れると、ばあちゃんは額の汗も気にせず、優しい笑みを俺に向けた。
「いいや、浩介は総一朗さんに負けないくらいのいい男に育ったよ。あたしが保障する。だから……たまにでいいんだ……ばあちゃんのこと、思い出してくれよ」
「当たり前じゃないか。思い出すも何も、忘れないよ。ばあちゃんのこと」
 俺の背後からしゅうしゅう音を立てて煙がのぼる。背中に感じていた重みが、だんだんと軽くなっていく。
 夕日がすっかり落ちて、俺が後ろを見ると、一〇三歳のばあちゃんが眠っていた。
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