32

文字数 4,861文字

 次の日、さっそく俺とばあちゃんはミツ子さんの病室を訪ねた。部屋に入ろうとすると、看護師さんが慌てて俺たちを止めた。
 どうやら意識は戻ったようなのだが、まだ誰にも会える状況ではないようだ。仕方なく、俺とばあちゃんは病院を出て、近くの喫茶店に入ることにした。ばあちゃんはオレンジジュース、俺はアイスコーヒーだ。
「これからどうする? もしかしたらずっと面会を断られるかもしれないよ」
 俺がばあちゃんに訊ねると、ばあちゃんは、そんなこと関係ないとでもいいそうな顔でオレンジジュースを吸う。ちゅーっと一気に吸って、口を離すと、ストローの中に入っていたジュースが、ちょっとだけグラスに戻る。
「断られても、何度でもぶつかる。ミツ子さんの心を壊したのは、あたしなんだから」
 ばあちゃんの言葉が、俺の心にずしんと響いた。ミツ子さんの心を壊したのは、ばあちゃんだけではない。俺もそのひとりなんだ。無知は時として罪になる。何も知らずにのほほんと学生をしていた俺は、自分でも知らない間に、ミツ子さんにばあちゃんの世話を押し付けていた。もっと親戚のこと、自分の祖母のことを気にかけていれば、もっと他に手の打ちようがあったかもしれない。
 後悔しか残らない。俺は、ばあちゃんのことも、ミツ子さんのことも無視して生きてきた。ばあちゃんに付き合うことで、少しでも償いになれば。
「ところでさ」
 俺は口火を切った。ばあちゃんに付き添うなら、知っておくべきだと自分で判断したのだ。ミツ子さんと、みんなの確執の原因を。寛一伯父さんとのこと。ばあちゃんとの関係。ミツ子さんが自殺未遂したのは、介護うつとばあちゃんの失踪が一番の原因だ。でも、介護うつになるほどばあちゃんの面倒を看ていたのは何故だ。なんでみんなミツ子さんにばあちゃんをまかせっきりだったのか。
「教えてくれないか? 寛一伯父さんとミツ子さんの間にあったこと」
 ばあちゃんは氷だけ残ったグラスをストローでかきまぜながら、俺を見上げた。一、二、三。三秒間見つめてから、ふっと溜息をついてやれやれと話し始めた。
「ミツ子さんはね、一度浮気相手と逃げたことがあるんだよ。そのあとに寛一が倒れてね。結局寛一が倒れたせいで阿部家に戻ってはきたんだけど、あたしもね、最低な嫁だと思ったよ。寛一の遺産目当てだと思ったからね」
 ばあちゃんは続けた。ミツ子さんが浮気相手と逃げた理由は他にもあったらしい。寛一伯父さんの暴力と、ばあちゃんや小姑である久子さんとのしごきがきつく、毎日泣きっぱなしだったらしい。ばあちゃんもそれは反省していると言っていたが、当時は嫁であるミツ子さんに色々覚えて欲しいことがあったから、きつく言ってしまうことが多かったのだという。
「あたしと久子も悪かったんだよ。結局寛一の遺産も、法律で決められた分以外、あたしに返してきた。その時点でミツ子さんは、かなり反省していたようだね」
 それでも久子さんは兄を捨てた嫁として、許すことはできなかった。もちろん完二伯父さん、綾子伯母さん、小さかったお袋もだ。だからミツ子さんは阿部家から疎外されていたのか。
「でも、ミツ子さんはずっと阿部家の……いや、あたしの世話をしてくれていたんだからね。今は感謝の方が大きいよ」
 ばあちゃんは少し寂しそうに窓の風景を眺めた。ばあちゃんの実の娘、息子は一切世話をしなかったばあちゃんを、ずっと面倒を看てきたのはミツ子さんだった。血の繋がった子供たちより、血の繋がっていない義理の娘の方が、ばあちゃんのことを思っていたという事実は、ばあちゃん本人にすれば切なかったかもしれない。俺はお袋や他の伯父、伯母に対して怒りの感情がわいた。元々持っていたものが噴火したのだ。
「なんでお袋たちは、ばあちゃんの世話を、金だけ渡してミツ子さんに押し付けたんだ。自分の実の母親なのに!」
 怒り心頭の俺に対して、当人のばあちゃんは案外平気そうだった。そうなることがわかっていたようだ。
「つい先日まで元気に畑仕事をしていたのに、いきなり倒れて何もできなくなった。浩介はそんな親を見ていられるか? 平気な顔でおむつを代えられるか? 残念だけど、あたしの子供たちはみんなあたしから目をそむけてしまったんだよ。現実を受け入れることができなかったんだ」
 ああ、そうか。だからミツ子さんに任せたのか。きっと、長生きしていて欲しいという気持ちと、何もできなくなっていく親を見るのがつらいという気持ちの二つが心の中にあったんだ。だから、完二伯父さんみたいに「母ちゃんは死んだ、死ぬんだ」と言ったり、お袋や綾子さんみたいに、平気そうな顔でおしゃべりして、意識をそらせようとしていたんだ。
 みんな、悪くない。ただ少し勇気がなかったり、許す心の余裕がなかったりしただけなんだ。もっと話し合ったり、互いの立場を考える力があれば、状況は変わっていたのかもしれない。ばあちゃんが倒れたあと、ミツ子さんだけじゃなく、親戚一同力を合わせて介護していけば、ミツ子さんをこんな目に合わせることはなかったかもしれない。ばあちゃんだって、変な霊に襲われなかったかもしれない。でも、結果、ばあちゃんが若返ったことで俺はばあちゃんとの思い出を作ることができた。美佐子もだ。それに、ミツ子さんの事情を知ることもできた。そこだけは霊に感謝したい。
 喫茶店に居座って、二時間くらい経ってしまっていた。もう夕方だ。ばあちゃんはもう一度病院へ寄るという。もちろん俺もばあちゃんに付き合う。トレイを返却口に返すと、俺たちは日差しで熱くなった鉄板を踏みしめた。

 ミツ子さんの病室に行くと、今度は看護師さんもいなかった。追い返されることを覚悟していたが、これは好都合だ。個室のドアを三回ノックする。返事は当然ない。それでもばあちゃんは勝手に病室のドアを開けた。
 ミツ子さんは起き上がって、窓からの風景を見ていた。俺たちがいることに気づいているのか、それとも無視しているのかはわからないが、ずっと窓から視線を移さない。
「ミツ子さん、どうだい?」
 ばあちゃんが話しかけても無反応。まるで魂が抜けきってしまったようだ。
「窓が気になるのかい? 外はいい天気だからね」
 何を言っても返事はない。ばあちゃん失踪からずっと顔色は悪かったが、今はそれ以前より悪くなっている気がする。
「ミツ子さん、何か食べた? もし食べたいものとかあったら、持ってくるからさ」
 俺もミツ子さんに話しかけてみるが、なしのつぶてだ。
「ばあちゃん、ミツ子さんの好物とか、興味を持つものってわからないかな? 何かあれば反応するかもしれないし」
「ばあ……ちゃん」
 俺がばあちゃんに訊ねたとき、ミツ子さんが口を動かした。ばあちゃんも、おばさんの口元に注目する。
「ばあ……ちゃん……お義母……さん?」
 ばあちゃんが目を丸くしている。ミツ子さんの手を握って、次の言葉を待つ。しかし、この日はそれ以上の進展はなかった。

 翌日。ばあちゃんからアドバイスを受けて、ミツ子さんが若い頃から好きだったという近所の「近藤屋」の和菓子をいくつか持って病室を訪ねた。看護師さんがナースステーションでミーティングをしている隙を突いて、おばさんの病室へ向う。本当はこんなことをしていると怒られてしまうのだが、若いばあちゃんの行動力は凄まじかった。
「ミツ子さん、今日は近藤屋の和菓子を持ってきたよ。あと、あんみつもあるんだ。これは冷蔵庫に入れておくよ」
 ばあちゃんは手早く袋から菓子を取り出すと、ミツ子さんの前に置いた。ミツ子さんは今日も窓の外を見ていて、和菓子に興味を示さない。それでもばあちゃんはへこたれず、話しかける。
「外は今日も暑いよ。夏を感じる。ここはクーラーが効いているから涼しいね」
 昨日、一瞬、「お義母さん」と呼んだのに、また元の状態に戻ってしまった。これじゃ一進一退だ。ばあちゃんは再びミツ子さんの手を握って、床に膝をついた。
「ミツ子さん、あんたに生きてもらいたいと思っている人間はいるんだよ。少なくてもあたしはそうだ。あんたのおかげであたしは生きてこれた。あんたが世話をしてくれたからだよ。今は少し姿が違うけどね」
 そういうと立ち上がり、ミツ子さんの頭を撫でた。
 クーラーが効いていても、喉は渇く。俺は一度病室を出て、ばあちゃんの分と俺の分の飲み物を買いに行った。

 自販機は一階の売店横にある。ミツ子さんのいる病室の階にはないので、いちいちエレベーターで下まで降りなくてはならない。ばあちゃんとミツ子さんを二人っきりにしてしまったが、大丈夫だろう。ばあちゃんは若い体になったおかげで、自由に動ける。自販機で微糖のアイスコーヒーと、牛乳を買うと、俺は今度は階段で上の階まで昇った。二機あるエレベーターは、寝台に乗った病人を運ぶ看護師さんと、点滴を受けつつ歩いている人がいたので、気を遣ったのだ。変にぶつかって怪我をさせてはいけない。それに三階くらいなら階段でいける。
 そのときだった。
「浩介、助けて!」
 すれ違いに声が聞こえた。ばあちゃんだ。俺は上の階へ向う階段を見た。マスクをしている男が、ばあちゃんを抱えて階段を昇っていく。俺は反射的にそれを追った。マスクをしていたが、あのいがぐり坊主には見覚えがある。完二伯父さんだ。彼しかいない。ばあちゃんを連れて、どうする気だ。まさか。五階に着くと、色々な検査室があり、伯父さんがどの部屋に入ったか見失ってしまった。だが、検討はつく。きっとばあちゃんの主治医、分州先生の部屋だ。確か分州先生は、普段こちらの病院にいる。だが、ばあちゃんの診察のときは、わざわざ隣り町まで出張してきてくださっていたのだ。それも、完二伯父さんの昔からの知り合いだったかららしい。
 俺はプレートを見ながら、第五検査室を探した。ばあちゃんがよく検査で連れて行かれた部屋だ。扉の前につくと、予想通りそこから話し声が聞こえた。
「彼女が若返ったという阿部トキさんですか?」
「そうだ! 本当に若返ったかどうか、先生、調べてもらえないか! うちの若造が『これがばあちゃんだ』と言って聞かんのです」
「はあ……といいましても、『若返り』なんて医者としても考えにくいですからねぇ。遺伝子を調べることぐらいならできますが、時間がかかりますよ?」
「いいんだ、それでも! このガキがお母ちゃんじゃない証拠さえできれば!」
 俺はドアの隙間から二人のやり取りを見つめていた。ばあちゃんは伯父さんにガムテープで腕を後ろ手に拘束されていて、逃げることができない。さて、どうするか。ここで出て行って、ばあちゃんを助けることはできる。けど、その前に完二伯父さんがどうしてばあちゃんが生きていることを否定するのかが知りたい。この会話で何とかわからないだろうか。そうこうしているうちに、採血の準備がされていく。分州先生は「この子より、甥っ子さんの精神状態を調べたほうがいいと思うんですがね」とぶつぶつ呟いていた。
「それでも、このガキがばあさんだった方が、あんたも得じゃないのか?」
 伯父さんが悪い契約でも持ちかけるように言うと、分州先生は黙った。ばあちゃんが寝たきりだったときは、いい先生だと思っていたのに。やはり権力や名誉には弱いのか。それとも研究者としての血が騒ぐのか。
「そういう阿部さんも、遺言書が変わらないか、冷や冷やしているんでしょう。あれは私の弟が、あなたに有利になるように書いたものですからね」
 ようやく尻尾を出したか、伯父さん。分州先生のその台詞を聞くと同時に、俺は検査室に突入した。

 奇襲は成功した。俺は伯父さんの顔にコーヒー缶をぶつけると、注射針を持とうとしていた先生の隙を狙って、ばあちゃんを助け出した。さすがにこのときばかりは、いつも堂々としていたばあちゃんも、体の年齢相応にびくびくと震えていた。
 ちょっとした騒動があったため、今日は病院を出ることにした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み