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文字数 4,519文字

 ミツ子さんは、ばあちゃんの病院とは違う、隣りの市の病院にいた。今は鎮静剤で眠っている。久子伯母さんと幸子さん夫婦、完二伯父さんはすでに到着していたが、お袋と綾子伯母さんはまだ新幹線で向っている途中とのことだった。
 ばたばたと俺たちが廊下を歩いてくると、難しい顔をした全員が、個室の前のスペースにたむろしていた。美佐子はともかく、久子伯母さんも完二伯父さんも俺が来るとは思っていなかったらしく、かなりびっくりした様子だった。それに俺だけじゃない。泊まる場所を決めていなかったのと、トキ本人が「行きたい」というのもあり、二人ともついてきてしまったのだ。部外者二人がいることに、親戚、特に久子伯母さんは露骨に嫌な顔をした。
「あんたら、誰ね。浩介の知り合いか」
「旭は俺の大学の友達。今日は一緒に新潟へ遊びに来てたんだ。この女の子は――旭の妹」
 旭は一瞬「え」と俺の顔を見たが、すぐに考えを察してくれた。トキがばあちゃんであることは、ここでばらすわけにはいかない。トキもいつもなら「あたしは佐藤家の長女、トキだ」と言い張るのだが、見た目の年相応に今日は大人しくしていた。が、それは少しの間だった。久子さんと完二伯父さんの横をすり抜けると、すっとミツ子さんの病室に入り込む。俺や親戚一同、旭はトキを連れ出そうと一緒に病室へ入った。

 病室は静かだった。夏の夕日がゆっくりと落ちていくのが窓から見える。ミツ子さんは腕を包帯でぐるぐる巻いて、点滴をしていた。骸骨のように目はくぼみ、頬はこけているところを見ると、相当苦悩していたのだろう。トキはミツ子伯母さんをベッドの横でじっと見つめていた。すると完二伯父さんが少し怒りをはらんだ声で「部外者だろ、出て行ってくれないか」とトキの肩を叩いた。それでもトキは動こうとしない。今度は俺がベッドの横から離そうとする。しかし、同じだった。十代の少女は、七十を過ぎた老女を目の前に何を考えているのだろう。ついこの間までは逆の立場だった。トキがベッドに眠っていて、ミツ子さんがそれを見下ろす。今ではまったくの逆だ。
「お嬢ちゃん、これは阿部家の問題。何の用かは知らないけど、関係ないなら出ていって」
 久子伯母さんがきつい口調で言うと、やっとトキは動いた。そのまま後ずさりして病室の外へ出る。
「浩介、あんたは友達連れて、とりあえず帰んな。真澄が来たら呼ぶから」
「携帯持ってない」
「じゃあ美佐子に連絡させるから」
 半ば強制的に俺たちは病院を追い出された。旭はずっと居心地悪そうにしていたが、トキは違う。ずっと無言で何かを考えている。美佐子の車の前まで行くと、眉間に皺を寄せていたトキは口を開いた。
「あの人はまだ死んじゃいけない人だ」
 突然の言葉に、俺たちは閉口した。そりゃ、自殺はよくない。簡単に死のうとすることは許されないことぐらい、俺だってわかる。でもミツ子さんは、阿部家での居場所がない。居場所がなければ自殺していいのか? そういうわけでもない。ただ、大きな屋敷に他の血の繋がらない親戚に囲まれて生きるのは、俺が想像するよりも辛いものがあるのかもしれない。ばあちゃんが行方不明になったことで、ミツ子さんの立場はより悪くなったのだろう。一番に疑われたのは俺だが、ばあちゃんが行方不明になったことでミツ子さんも得する立場だ。なんせ介護から解放される。好きなことができるようになる。そのせいで完二伯父さん辺りから、きつい言葉を浴びせられたのかもしれない。美佐子には悪いが、あの人は、ばあちゃんの遺産を早く手に入れたいと思っている。だから、ばあちゃんが行方不明なのは都合が悪い。関東の俺のうちにも頻繁に来たくらいだ。毎日嫌味を言いに行ったりすることぐらい、想像がつく。
「でも、このあとが大変だね。誰がミツ子さんの世話をしていくんだろう」
 美佐子が、ずっと俺が口に出せなかった疑問を呟いた。久子伯母さんはミツ子さんよりも若いが、あの人も随分な年だ。それに、久子伯母さんが阿部家の中心人物と言える存在である。あの完二伯父さんも久子伯母さんの言うことには逆らえない。阿部家での権力者は、阿部家の外の人物には冷たい。ミツ子さんが嫁入りしてきたときから、久子伯母さんはあまり彼女のことを好いていない。となると、その子供の幸子さん夫婦、若しくは幸太さんが世話をするかというと、そうとも思えない。幸子さんは介護を嫌がるだろうし、幸太さんは近畿に赴任している。完二伯父さんは当然しないだろう。ミツ子さんは目の上のたんこぶだ。残りは美佐子と関東に住んでいるお袋、綾子さんだが、関東の二人は遠すぎて無理だ。美佐子もばあちゃんのときと同じで、「かわいそうだけど面倒は看られない」と表情が語っていた。
 車に乗り込むと、トキと俺が今日泊まるところを探し始めた。親戚の家にはお世話になれないが、お盆前だし、どこかしら泊まれる場所はあるだろうと、何の予約もせずに来たのだ。運良く駅近くのビジネスホテルに宿泊できるようだったので、そこを拠点にすることにした。本当はすぐに関東へ帰ってもよいと思ったのだが、トキがそれを渋った。旭は夜の新幹線で帰宅するという。これ以上部外者の自分が関わっていいものではないと判断したようだった。旭は駅弁を買って、東京へ戻って行った。
「もう一度病院へ行こう」
 言い出したのはトキだった。俺は目を丸くした。トキにはミツ子さんとの記憶はないはずだ。それなのに、まるで自分が原因の一端を担いでいることを悟っているかのように、真剣な眼差しをしている。俺はその目に逆らえず、再度病院へトキを連れて行くことにした。心配はある。トキは霊に狙われている。病院へ行けば、今度はばあちゃんに戻るかもしれない。それでも十代の少女は、恐怖をかえりみずにミツ子さんと正面から対峙しようとしていた。
 面会時間は当に過ぎていた。無論、ミツ子さんは半ば面会謝絶のようなものだったので関係はなかったが、そのせいか、親戚一同は常に帰宅していた。俺たちは、急患用の時間外面会のバッチをもらい、堂々と入り口からミツ子さんの個室まで向った。
 二回ノックをするが、当然中からの返事はない。まだ眠っているのか、それとも誰とも会いたくなくて返事をしていないのか。どちらにも取れたが、トキは勝手に扉を開けた。まだ点滴をしている、青白い顔のミツ子さんが横たわっている。トキは静かに、そっとその側へ近寄った。左腕の包帯を見て、軽く手を握る。
「死んじゃ、いけないんだ。つらくても、死なないで欲しいと思っている人間がきっといるはずだ」
 トキはミツ子さんの手に頬擦りして、言葉を落とした。俺はそれを聞かなかったことにした。トキは何も知らない。本気で死なないで欲しいと思っている人間が、ミツ子さんの周りに果たしているのだろうか。久子伯母さんが「自殺してくれて迷惑だ、阿部家の面汚しだ」と思っているのが何となく伝わった。完二伯父さんも一緒だ。お袋や綾子伯母さんも結局今日は来ていない。命に別状はなかったので、明日くるのだろう。
 ――ばあちゃんと同じだ。ばあちゃんも、周りから死を待たれていた。ミツ子さんは今回自殺未遂に終わったが、ばあちゃんの病室に集まったときと似ている。伯父さんや伯母さんは、ばあちゃんもミツ子さんも死んだ人間と同じように扱っているんだ。二人とも阿部家に居場所がないから。
 ミツ子さんの目から、一筋の水滴が流れた。泣いている? 気がついているのか? それでも目は開かない。トキの声が聞こえているのだろうか。それとも夢の中でも苦しんでいるのだろうか。死んでも死にきれなかった彼女に、安息はないのか。
 一瞬、ふっと頭にビジョンが浮かんだ。ばあちゃんをひとりで背負い、地球を走るミツ子さん。朝も夜も関係ない。後ろからは白いマネキンたちが迫ってくる。それを遠巻きに、まるで他人事のように眺めるだけの親戚。俺はこのビジョンのどこにいる? 
 ドアが開く音で俺は我に返った。トキはすでに病室を出ていた。俺も急いで彼女を追って、部屋を出る。ドアを閉めるとき、一度だけ振り返った。ミツ子さん、あなたの背負っている人間は、今、十代後半の少女の姿をしています。きっとトキは、明日もあなたに会いにこようとするでしょう。なぜかわからないが、確信にも似た気持ちを、俺は心で感じていた。
 夜も更けた。腕時計を見ると、すでに時間は九時を過ぎている。少し距離を置いて、俺とトキは街灯の下を歩く。明かりの周りには虫が集まってきていた。まるでその有様は、ばあちゃんを取り囲んだ白いマネキンたちのようで、気分が悪かった。
「なあ、コウスケ」
 下を向いて歩いていたら、距離を置いていたはずのトキがすぐ横にきていた。突然の接近に、俺は思わず転びそうになる。動揺することなんて何もないはずだ。確かにトキは、顔のパーツひとつひとつが整っていて、まん丸の瞳にふっくらとした唇を持っている美少女かもしれない。でも、彼女は俺のばあちゃんだ。見た目は十六ぐらいでも、実際は一〇三歳。頭ではわかっていても、鼓動が早くなる。今までこんなに意識したことはなかった。海に行ったときも、どちらかというと旭がトキに目を奪われていることが心配だったくらいで。それが今度はどうだ。俺が、トキに心を盗まれそうになっている。このままじゃ、まずい。今はまだ、夏の暑さにやられているだけだと思うことができる。だけど、時間が経てば、俺はトキの虜になってしまいそうだ。
 悶々とした意識の中で、トキが何か言った。俺の耳にその声は届かなかったが、自然と大きくうなずいていた。トキは嬉しそうに、笑顔で俺の左手を取った。
 トキの柔らかく小さい右手から、温かい思い出が流れてくる。そうだ、ここの道は昔駄菓子屋があった通りだ。視界がぱっと開けて、明るい昼の景色に町が染まる。さっきまでマンションやアパートがあったところが、空き地や畑に変わっていく。あそこのT字路を左に曲がると、その先に古い木造の一軒家がある。アイスを買ったあの店が。
 トキの手は、いつの間にかしわしわで血管の浮き出たばあちゃんの手になっていた。あの、十代の少女ではない、白髪のばあちゃんが俺の手を引いている。瞳は言葉にならないほどの優しさを湛えている。小さい俺が転ばないように、ゆっくりと歩幅を合わせて店までの道のりを行く。
 T字路を曲がったところで、風景は夜に戻った。どんなに目をこらしても、古い木造の一軒家はもうない。あるのは誰もいない公園。虫の集まる街灯。そして左手には、ばあちゃんではなく、トキがいた。トキの瞳だけは変わらず優しさを湛えていた。トキは少女の姿をしていても、やっぱり俺のばあちゃんなのだ。俺は甘えるように、ばあちゃんの手をぎゅっと握って空を仰いだ。月も星も出ていない、真っ暗な空。五歳のときは夜が恐かった。何も見えなくなる闇が。十五年経った今でも、闇が恐い。夜の暗さじゃなくて、人の心に潜む闇が。
「浩介、大きくなったなぁ」
 ばあちゃんの温かい手に、冷たい雫が落ちる。俺の頬にも。雨だ。
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