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文字数 5,957文字

 夕方帰宅すると、トキにさっき見ていたガイドブックを差し出した。すると、さっそく興味津々と行った風に読み始めた。
「今度の休み、どこか連れてってあげるからさ。どこか決めておいてくれ」
 トキは返事もせずに、見入っていた。子供というのは案外強い。両親がすでに死んだとわかってまだ一日。それなのに、もう俺との生活に順応しようとしている。子供の強さ、というか、これがトキ自身の強さなのかもしれない。
 夕食は焼き魚と水菜の味噌汁、ご飯に酢の物と沢庵、茄子の炒めものを用意することにした。昼にトキが和食に感激していたからだ。普段俺ひとりだと、絶対こんな面倒なことはしない。そんな俺の食生活をあっさりと変化させてしまうトキはすごい。気づかない間に、俺自身に影響力を持つ女の子になっていた。
 魚の焼けるにおいが部屋に充満するので、窓を開ける。それでもカーテンを閉めたままなのは、今、外の風景を見る勇気がないからだ。カーテンが揺れたとき、階段を誰かが昇ってくる音がした。旭だ。美里が持っていた合鍵は、そのまま彼に預けることにした。旭はなんだかんだ言って信用できるし、第一俺とトキの味方になってくれる。
 部屋に入り、俺が出られなかった午後の講義のプリントとノートのコピーをテーブルに置くと、トキを横目でちらりと見た。
「なんだ、どこか遊びに行くのか?」
「まだ決めてないけどな。トキに決めてもらって、行こうかと思ってる。お前も行くか?」
 訊ねると旭は首を振った。
「いいや。俺がいる方がいいなら行くけど、お前とトキちゃん二人きりの方がいい。だってお前らは家族だろ」
「家族?」
「ばあちゃんと孫、だろ」
 俺は旭の『家族』というワードに驚いた。ばあちゃんと孫。その関係は確かに家族だが、あまりにも離れて暮らしていたので『家族』というよりもそれより遠い関係の『親類』というイメージが強かった。それが、家族。今はばあちゃん――いや、トキと兄妹のように暮らしているから、確かに家族か。
「コウスケ! ここに行きたい!」
 トキがガイドブックの後ろの方のページを指さした。さいたま動物公園。ここは遊園地と動物園が一体化していて、夏にはプールと花火が楽しめる埼玉県の行楽施設だ。今住んでいる世田谷のアパートより、実家から行った方が近い場所である。俺も小さい頃はよく連れて行ってもらった。今でも覚えている。あのとき俺は、入り口で売っていた五百円の風船が欲しいとごねて、やっと買ってもらったのに、結局手から離して飛ばしてしまった。そうだ、トキにも買ってやろう。俺が飛ばしてしまった風船。どっかに飛んでいかないように糸を腕に巻いてやって、二人で手を繋いで歩くんだ。トキもさっきからずっとさいたま動物公園のページを寝そべりながら見ているが、その表情は楽しみに満ちている。俺は彼女が嬉しそうに脚をバタつかせているのを、ほほえましく思った。
 そのとき邪魔が入った。インターフォンが鳴った。一回目。しばらくして、二回目。先の親父たちが来た例がある。俺はしのび足で玄関まで行き、のぞき穴を見た。見覚えのあるプリン頭といがぐり坊主。今度は新潟からの刺客か。
「旭、靴持ってベランダに出ろ。それで、トキを連れて雨どい伝って降りろ」
「はあっ? ちょっと待てよ。ここ二階だぜ? 無茶言うなよ。それに俺、運動全然ダメなんだが」
「知ってる。でも、とりあえず今はトキ連れて逃げてくれ。一晩でいい、預かってくれ」
「え、ええ? 俺、実家住まい……」
 旭が最後まで言う前に、トキと旭、それに二人分の靴を一緒にベランダへ閉め出すと、鍵をかけた。しばらくガラス戸を叩く音が聞こえたが、二、三分くらい経つと旭はあきらめてくれたらしくガラス戸の方からは音がしなくなった。だが、今度はその分インターフォンがけたたましく鳴り響きだした。ピンポン、ピンポンと間髪入れずに鳴っていたが、そのうちドアの前にいた人間がキレたらしく「開けろ、この野郎!」と罵声が聞こえた。
 急いでドアの鍵を開けると、顔を真っ赤にした完二伯父さんと美佐子が挨拶もなしに部屋に侵入してきた。
「母ちゃん! 母ちゃん、いるんだろ! 返事しろ!」
「お父さん!」
 止めようとする美佐子を振り払い、完二伯父さんは俺の部屋押入れや布団の中を探す。それでも誰も出てこない。一通り探して、少し頭が冷めたのか、完二伯父さんは俺にやっと声をかけた。
「浩介、お前、本当に母ちゃんを匿ってないだろうな?」
「お父さん! ごめんね、浩介。お父さん、興奮してて」
「それはいいけど……」
 美佐子に完二伯父さんを説得してもらって、早々に帰ってもらおう。そう思ったのに、やくざのようなおっさんは、目ざとく夕飯の焼き魚が二匹あることに気がついた。
「おい、浩介。お前は魚を二匹焼いてるな。今から誰か来るのか?」
「浩介だって、友達や彼女呼んだりするんじゃない? ねぇ?」
 美佐子がフォローしようとするが、完二伯父さんは納得せずに、終いには、今晩誰がうちに訪ねてくるか確認するまで居座ると言い出した。トキはとりあえず旭に預けた。旭なら、文句は言っても何とかしてくれる。俺は心の中でそう願い、伯父さんと美佐子が居座ること承知した。
 無言でテーブルを囲む、俺たち三人。時計の針の音だけが響く。
「何か、出前とる? うどんかラーメンかピザか」
 俺が携帯の電源を入れようとすると、伯父さんは腕を組んだままむすっと言った。
「お前は自分の夕飯食べればいいだろう」
「浩介、私たちのことは気にしなくていいよ。食べてきてるからさ」
 美佐子が伯父さんの言葉を優しく変換する。伯父さんが「食え、食え」と言うものだから、俺は無言の二人を目の前に、食事をするはめになった。トキのために一汁三菜、しっかり作ったというのに。トキの前に出したら、喜んだだろうか。空虚な妄想だけが頭に浮かぶ。二人に見られているせいか、味もうまく感じなかった。
 食べ終わると、伯父さんがさっそく切り出した。
「俺はお前が母ちゃんを匿っていると思っている」
 予想通りの展開に、俺は唾を飲み込んで、首を横に振った。
「よく考えてくださいよ。俺が、どうやってばあちゃんを病院から連れ出したと言うんです? それに、そんなことをして何のメリットがあるって言うんだ。仮に連れ出したとしても、俺は今東京にいるんですよ。死にかけたばあちゃんの世話を、誰がしてるんですか?」
 『死にかけた』と自分で言ったくせに、気分は当然よくない。でも、これが伯父さんに説明するには力ある言葉だ。伯父さんは黙り込んだ。無論、俺の質問に答えられるわけがない。
 タバコを一本箱から出し、勝手に火をつけようとする。それを慌てて止めて、ベランダで吸うようにうながした。伯父さんがカーテンを開けると、俺は自然と目を伏せる。
「うわ、ここは本当に墓場がよく見えるな」
 サンダルを履き、ベランダに出た伯父さんがもらした。家賃三万の超安物件の理由。それはこの景色と、この部屋に霊が出るといういわくがあったからである。俺は霊なんて今まで信じていないタイプだった。だから、気にせずこの部屋を借りた。ただ風景が悪いだけ。それならカーテンで隠してしまえばいい。そんな考えはあれを見てから変わった。ばあちゃんに群がっていたあの白いマネキン。あのマネキンが、ここにも出るのではないか。トキはここにいない方がいいのではないか――。
「そうか、わかったぞ」
 伯父さんが一服を終えて、部屋に戻ってきた。ベランダのガラス戸は開けっ放しで、カーテンがそよぐ。六月の夜の生ぬるい風が、俺の腕をなでる。なでた風は、雨を予感させるにおいが混じっていて、同じくタバコのにおいがしみこんだ伯父さんと同じくらい、気分がいいものではなかった。
「――死んだんだろ? 母ちゃんは」
「へ?」
 唐突な問いに、俺だけではなく美佐子もお茶をこぼしそうになる。実の娘すら驚かせたまま、自分の想像した話をどんどん続けていった。
「母ちゃんは死んだ。だが、お前や真澄、研一くんはそれを隠そうとしている。つまり、母ちゃんが死んだことを伏せておけば、母ちゃんの金と土地、その他の財産をうまく手に入れる事だってできるって寸法だ」
「ありえないですよ。死亡届だって出せないし、第一死体は? どっかの工事現場にでも埋めたら、死体遺棄罪ですよ」
 俺はできるだけ冷静に返答した。この伯父は、ばあちゃんの生死よりもばあちゃんの遺産のことしか考えていない。ばあちゃんが見つからないのは俺たち山崎家のせい。ばあちゃんが死んだことを隠しているのも、自分たちの分け前を増やすため。もうすでに遺言状は作られていることは知っているはずだ。それなのに、少しでも自分の分け前を増やそうとする伯父。苛立つだけ、無駄なことはわかっていた。俺が冷静に対処できたのは、昔っからそういう気質があったからだ。実の息子なのに、実母の世話を義理の姉に丸投げ。自分はというと、暇な時間を作っては、ばあちゃんの口座からこっそり金を抜いて、パチンコ、競馬、麻雀。金のことや家のことはだらしなく、ずっと新潟で暮らしている久子伯母さんによくお灸をすえてもらっていることは、関東の我が家にも伝わってきていた。
「ちょっと待ってよ!」
 自分の父親の酷い台詞と、冷静すぎる俺の言葉に美佐子が割って入った。丸顔で、一見するだけだと大人しそうでかわいいプリン頭は、俺と父親を交互に睨んでから口を開いた。
「何でみんな、おばあちゃんを殺したいわけ? 生きてて欲しいって思わないの? 点滴やチューブがないと生きていけないのに、誰かに誘拐されたかもしれないんだよ? それを二人とも『死んだ』とか『死体』だとか。おばあちゃんをそんな風に言わないで!」
「おう、じゃあ美佐子。聞くがな」
 完二伯父さんは乱暴な口調で、遅くに生まれてかわいいはずの娘を鋭い目で見つめた。
「母ちゃんが生きていて、新潟に帰ってくるとする。お前はその介護、できるのか? 専門学校に行きながらだって、介護をしている人間はいるんだぞ? お前にできないわけないよな?」
「でも、私の学校は補講とかで遅くなることも多いし……」
「どうなんだ? 結局お前も、口だけで心配しているだけじゃないか」
 美佐子はしゅんとして身を縮こませた。美佐子も結局そうなのか。ばあちゃんには生きていてもらいたい。でも、世話はしたくないから、ミツ子さんにお金だけ払う、うちのお袋たちと同じなんだ。
 どいつもこいつもろくな人間じゃない。伯父、伯母は自分の親のはずなのに、最終的には残す遺産にしか興味がないようだし、孫は口だけ『生きていて欲しい』。
……いや、それ以上に最低なのは俺だ。ばあちゃん自身に興味がなかった。『生きていて欲しい』とすら思わず、遺産もどうだってよかった。ばあちゃんの生にも金にも関心を持たずに、関東で何年も離れて生きてきた。そっちの方がひどい。俺は、ばあちゃんについて発言することは許されない人間だ。そんな人間の手に、今、ばあちゃんのすべてが握られている。俺がトキの時間を独占していて、いいのだろうか。
「先にホテルへ戻ってる。酒が飲みたくなった」
 完二伯父さんはすっと立ち上がると、こちらに顔も向けずに部屋を出て行った。時間は午後十時。もうこんな時間になっていたのか。美佐子の方を向くと、まだ下を向いて小さくなっている。そのうち、嗚咽のようなものが聞こえてきた。
「美佐子、泣いてるのか?」
美佐子は目を赤くして顔を上げると、ぽつりぽつりと話し出した。
「私が面倒見ることは難しいけど、おばあちゃんに生きてて欲しい。これってわがままだよね」
 返事に困って目を逸らした。さっき開けたガラス戸からは、不気味な風が入ってくる。トキは無事だろうか。旭はうまくやってくれただろうか。
「浩介は、どう思ってるの? やっぱりおばあちゃん、生きてて欲しい?」
 今の俺に解答権はない。正直、つい三、四日前までばあちゃんのことは『どうでもよかった』のだから。
「じゃあ逆に聞くけど。美佐子は何でばあちゃんに生きていて欲しいの?」
「自分の祖母だよ! 長生きして欲しいに決まってるじゃん!」
 必死な形相でテーブルを叩く美佐子だったが、その答えは空虚なものだった。血の繋がりがある人間だから、長生きして欲しい。それだけ? 完二伯父さんと一緒になるのは嫌だが、食事も排泄も自分でできない。意思疎通もできない。寝たきり。本人はつらくないのか? それを生殺しのように死を先延ばしにする。いいか悪いかなんて、本人にしかわからない。俺にはその問題に答えられるほどの経験はない。誰の死も看取ってこなかった。寛一さんだって、和子さんだって、葬式のおぼろげな記憶しかない。死を身近に感じることなんて、なかったんだ。
「……それだけじゃないんだ」
 美佐子は麦茶を一口飲むと、先ほどとはうってかわり、静かに語り始めた。
「私、昔おばあちゃんにおんぶしてもらったことがあってね。それが忘れられないんだ」
 美佐子が六歳の頃。ちょうど小学校に上がったときらしい。元から体が小さくいじめられることが多かった彼女は、いつものように同じクラスの男の子にからかわれ、近所の空き地で泣いていたらしい。それを迎えに来たのが、ばあちゃん。多分、その頃でも八十九歳と、結構な年齢だったはずだ。普通のお年寄りならよぼよぼなのに、ばあちゃんは当時畑仕事もこなす元気な年寄りだったそうだ。
「それでね。私、『帰りたくない』って駄々こねたんだけど、おばあちゃんってすごいんだよ。おんぶしてくれたの」
 小柄とはいえ、小学生だ。腰が抜けてしまうだろうに、ばあちゃんは美佐子をおぶって完二伯父さんの家に連れて行った。美佐子はそれを思い出すように、優しい眼差しで麦茶を見つめた。
「背中、あったかかったんだ。たったそれだけだけど、私がおばあちゃんに生きていてもらいたい理由」
 映画だと数秒で終わってしまうような、一シーンだった。それが美佐子の心に、色鮮やかに残ったというのか。
「私もね、浩介と一緒で、おばあちゃんとは別々に暮らしてたからあんまり思い出はないんだけどさ。それでもそういうちょっとしたことを覚えてると、『生きてて欲しい』って思うんだ」
 ああ、そうなのか。美佐子も同じなのか。駄菓子屋の帰り道、手を繋いでもらった俺と。俺はばあちゃんに長生きして欲しいとか、希望を押し付けることはできないし、答えもやっぱり出せない。それでも今いる『トキ』には、楽しい思い出をたくさん作ってやりたいと思っている。美佐子が俺と同じなら、きっと『トキ』に思い出を作ってくれるはずだ。
 俺は意を決した。
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