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文字数 1,642文字

 そのまま帰る気分ではなくて、俺は久子おばさんの家から近い海辺に来ていた。もう四時は過ぎているというのに、未だに真夏の刺さるような日差しが俺の肌を焼く。防波堤に座ると、初夏から始まった、現在進行中の漫画みたいな出来事を思い出す。『ばあちゃんが死ぬ』と病院へ行けば、当人は死ぬどころか若返る。それからは旭や美佐子、学さんの手伝いもあってやってこれたけど、とうとう正体もばれてしまった。もう、俺はいなくてもいいんじゃないか? きらきらと光る海面が、俺にそう語りかける。久子伯母さんも、なんだかんだ言って信じてくれているようだし、孫の俺がでしゃばる必要はない。実の娘との時間を多くした方がいいのではないか。完二伯父さんのことは心配ではあるけど、ばあちゃんは何か考えがあるようだ。いや、完二伯父さんのことは、この際もう関係ない。ばあちゃんが、これからどう生きるか。それは俺が決めることではない。ばあちゃんが決めることなんだ。もう十歳のばあちゃんではない。体は十代だけど、記憶は一〇三歳のものと一緒だ。蓄積してきた思い出も、今のばあちゃんにはある。だから、俺が無理に思い出を作ってやる必要もない。
 そう考えると、無性に寂しくなってきて空を仰いだ。俺はいらない。今までばあちゃんの特別な孫でいられた。その『特別』が取れるだけだ。それだけなのに。でも、こんなに濃密にばあちゃんといられたことは、俺の一生の宝物になるだろう。祖母と孫。住むところが違うだけで、年月が経つにつれ心まで遠くなってしまう。大きくなってからは、ばあちゃんのことを忘れて毎日を暮らしていた。ばあちゃんのことなんて、親戚のことなんて、全然気になんてしないで。徹や玲子は今もそうかもしれない。核家族化が進んで、遠くに住んでいる親戚とのコミュニケーションが取れなくなってきている。それでいいのか? 葬式に出るだけの親戚付き合いでいいのか? 少なくても俺は、今回のことでその認識を改めなくてはいけないと痛感した。それも、ばあちゃんとの時間があったから。つらいときもあったし、振り回されもした。でも、ばあちゃんが好きだ。ばあちゃんがいなかったら、俺は『今の俺』にはなれなかった。バランスよく食事したり、誰かのために走ったり、戦ったりできるような男じゃなかった。ばあちゃんは体だけ大きくなった俺の、心を育ててくれた人なんだ。
「浩介」
 声が聞こえた。どのくらいここにたたずんでいたのだろう。オレンジ色の夕日が、鏡に映っている。振り返ると、夕日と同じ色に染まったばあちゃんが立っていた。
「家に帰ったんじゃなかったのか」
「まだ浩介が帰っていないって聞いてね」
 ばあちゃんは「よっこいせ」と掛け声をかけると、俺の隣りに座った。
「変なこととか、されなかった?」
「爪を切られたり、髪の毛を切られたりはした。けど、大したことはされてない」
 俺は胸をなでおろした。同時にさっきから気になっていた質問が自然と口からこぼれる。
「なんでばあちゃんは、検査を受ける気になったんだよ。『若返った一○三歳』なんて、科学者の実験台はもちろん、ワイドショーのかっこうのネタになるんだぞ」
 脚をぶらぶらと振って、ばあちゃんは答えた。
「ワイドショーも実験台も関係ない。あたしは自分が本当に『阿部トキ』なのか、知りたかったんだよ」
 どういう意味か図りかねると、ばあちゃんは防波堤の上に立ち上がった。
「一〇三年間の思い出も、あたしの中にはある。けど、ここ二ヶ月の浩介との思い出も胸にある。二つ思い出があると、どっちの人生があたしのものかわからなくなるんだ。『阿部トキ』の人生か、二ヶ月だけの『佐藤トキ』の人生か」
「どっちも『俺のばあちゃん』だよ」
 俺は夕日を見ながら呟いた。どこからか魚が焼けるにおいがする。こうやって、ずっとばあちゃんと夕日を眺めていたい。ずっと。ばあちゃんが俺の側からいなくなるまで。俺は密かにそう思った。願いにも似た感情に気づき、再び涙がこぼれそうになった。
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