13

文字数 3,182文字

 新宿で、更に私鉄に乗り換え数駅。そこから歩いて五分。大学から近い、俺の住むアパートに到着した。1LDK で月三万弱。安い家賃は、それなりの理由があるからで。気にせずに暮らしていくには多少のことには目をつぶらねばならない。ズボンのポケットから鍵を取り出して、ドアを開けると、万年床と散らかった部屋が玄関から見えた。
「ここは?」
 困惑しているトキが入り口で立ち止まる。俺はその背中を押して、入るようにうながした。カーテンが閉められている暗い部屋に渋々入り、小さい玄関で買ったばかりの靴を脱ぐと、とりあえずテーブルの近くに座った。それを確認すると、俺もドアを閉めてカバンとトキの着替えの入った袋を置く。テーブルに鍵を置くと、とりあえず冷蔵庫に入っていた賞味期限ギリギリの牛乳をカップに注ぎ、トキと自分の前に並べた。
「コウスケ、お屋敷へ帰るんじゃないのか? ここは誰の部屋だ?」
 俺は牛乳を一気に飲み干すと、不安顔のトキを横目に今後どうすればいいか悩んだ。
 トキが本当にばあちゃんだとすると、その『お屋敷』が実際今もあるか謎だ。かといって、ずっとこの子をうちに居座らせておくわけにはいかない。正体不明、どこの子供か分からない少女を家に置くなんて、誘拐犯と同じじゃないか。そうなるとどちらにせよ彼女の言う『お屋敷』を探すしか道はない。
「トキ、お屋敷は東京のどの辺りにあるかわからないか?」
 牛乳の入ったカップを手にした彼女は、きょとんとした。
「コウスケはうちの書生だろう? 知らないのか?」
「実は、お屋敷に行く前に階段から落ちてしまって、記憶がないんだ」
 やり方は荒いが、記憶がないことにしておけば、細かいことを疑われなくて済むだろう。大きな嘘をついてしまったが、純粋なトキはあっさりと信じてくれた。打ったところは痛くないか、と真剣な面持ちで俺を心配してくれる。心を針でちくちくやられている感じがした。
「ともかく、お屋敷の行き方を覚えていないんだ。ここは俺の部屋だけど、ずっときみをここに置いておくわけにはいかないだろう?」
 トキは牛乳を飲みながら、小さくうなった。
「住所がわかれば一番いいんだけど。それでなければ、何か目印になるようなものは近所になかった? 神社とか、お寺とか」
「……そうだな」
 ドンドン。トキが何かしゃべろうとした瞬間、部屋のドアを乱暴に叩くやつが訪れた。そのあとにインターフォン。普通は逆だろうと内心思いながらも、立ち上がる。
「山崎さーん」
 聞き覚えのない男の野太い声がする。のぞき穴から見てみると、警察官らしき人間と、両親が揃っていた。
 この場にトキがいるのはまずい。俺はクローゼットにトキと彼女の服、靴を無理やり入れると、出てこないように小さな声で指示してから玄関の鍵を開けた。警官と両親が勢いよくは言ってくる。
「一体、何ですか」
「何ですか、じゃないわよ! お母ちゃんはいなくなるし、最後に見たはずのあんたは携帯にも出ないし!」
「お前がおばあちゃんを匿っているとしか考えられないだろう」
 取り乱したお袋と、朝からばあちゃんを探して疲れているらしい親父が俺を責める。
「だからって、警察はないだろ」
「こっちは俺たちじゃない」
 親父が不信そうに警察官たちを見やると、彼らは「通報されて来た」と説明した。どうやら俺の部屋に小さい子供が入るところを見たという人間が怪しく思ったらしい。
 多分下の階の鳥飼さんだ。鳥飼さんは四十過ぎのおばさんで、ひとりで暮らしているのだが、どうも俺のことをいちいち監視している。部屋で友達と飲んでいた日も、うるさいと口で注意してくれればいいのに、紙にペンで『うるさい』と書いてポストに入れてきた。
 面と向って言わずに、回りくどいことをするので、逆に腹がたつ。そういうタイプのご近所さんだ。
 警察官たちは俺の部屋をじろりと見回すと、特に異常がないことを確認して帰っていった。が、親父とお袋はそう簡単に帰ってはくれない。クローゼットのトキに気づくことなく、自分たちの分のカップを持ってきて、茶を淹れる。
「浩介、子供を連れてきたって……」
「多分、下の階の人が見間違えたんだよ。俺がそんなことするわけないだろ。現にここには俺以外いないじゃないか」
 心配するお袋を安心させるように、嘘をつく。本当はこの部屋のクローゼットに、十歳の少女がいるから早く帰ってくれ。しかも彼女はばあちゃんだ。それがばれたらとんでもないことになる。
「じゃ、おばあちゃんのことはどうだ。何か知っているのか、正直に話しなさい」
 親父がきつい口調で訊ねるが、俺は首を振った。
「ばあちゃんは本当に意識を取り戻したんだ。それで、他の部屋に移った」
 前半は本当。後半は嘘。意識は取り戻しているが、体も脳内も十歳の少女になってしまった。言ったところで信じてくれないだろう。気でも狂ったかと疑われるだけだ。それに。
「何で今更ばあちゃんを探すんだよ。いつ死ぬかわからない人間がいなくなっただけだろう? 早く死んで欲しかったんじゃないのか」
 俺はあのマネキンどもの言葉をお袋にぶつけて、睨んだ。俺が一報を聞いた時点で喪服を用意していた。まるでお盆の帰省のように、綾子伯母さんとはしゃいでいた。『お母ちゃんにとっても死んだほうがいい』。ばあちゃん本人じゃないのに、何でそんなことがわかる。それが急に自分たちの前から消えたら大騒ぎ。自分勝手だ。
 親父はテーブルを強く叩き、お袋はうつむいた。すべて事実じゃないか。俺は本当のことを述べただけだ。
「お前、母さんがどんな思いをしているのか、わかるか? おばあちゃんの死を受け入れたくないから、無理に明るく振舞っていたというのに!」
「わからないね、まったく。ミツ子さんみたいに介護をしていたわけでもない。ただ、お金だけ送って、形だけ『長生きして欲しい』って言っていただけだろ。もし、ばあちゃんがふと現れて、また病院か施設に戻ることになったら、お袋どうすんの? 『生きてた!』って、本当に喜べる? それとも『あのままいなくなってくれていれば』って思う?」
 そこまで責めると、お袋は立ち上がり、俺の部屋を出て行った。残った親父は大きく溜息をついて、眉間に皺を寄せた。
「浩介、お前はどうなんだ? そこまで母さんを責める権利はあるのか?」
「俺はわからないことを正直に訊ねただけだ。お袋の気持ちを聞いておきたかった」
 権利は、ある。俺が聞かなければいけない。ばあちゃんがばあちゃんに戻るとき、多分一番近くにいるのは俺だ。今いるトキが、もし元の姿に戻ってしまったら。また、死を待つだけで何もできない老人になってしまったら。今のトキも、ばあちゃんに戻ったトキも、俺が守らないといけない。ただ純粋に、守りたい。守れるのは、俺だけだ。そう思うと、ほんの少しだけ笑ってしまった。何で今になってからそんなことを思うんだ。写真で見なければ顔も思い出せなかったようなばあちゃんだ。それを守りたいなんて都合が良すぎる。それでもばあちゃんを思うのは、きっと今までお袋よりも何もしてこなかった罪悪感があるからかもしれない。
「何かおばあちゃんのことで思い出したら、連絡しなさい。あと、完二さんたちも心配していたから、もしかしたら近いうち、訪ねてくるかもな」
 テーブルに手をついて腰をあげると、親父もお袋を追うように出て行った。完二伯父さんたちは、心配というよりも俺を疑って乗り込んできそうだ。それを思うと今から気が重い。
 歓迎できない客人たちをやっとの思いで追い出すと、急いでクローゼットを開ける。暗かったせいか、トキはぐっすりと眠っていた。自分は新幹線で少し眠ったが、彼女はずっと眠っていなかったな。一式しかない布団を敷くと、そこに彼女を寝かせて、自分はソファーに寝転んだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み