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文字数 3,934文字

 病院と久子伯母さんの家の往復だと、さすがに飽きる。俺とばあちゃんはバスに乗り、駅まで行った。近くのデパートで新しいミツ子さん用のパジャマを買う。ミツ子さんの好きな柔らかい緑色だ。ばあちゃんは地元の駅の変貌を見て、驚いていた。ばあちゃんが寝たきりになって施設に送られたのが確か九十五のとき。それから八年ぶりの駅前だ。いくら中身が一〇三歳と言っても、女性である限り服や小物には目をひかれるらしい。それ以外にも、ゲームセンターのプリクラに興味を持って一緒に撮ったり、アイスクリームを食べたりと、結局一日中引きずり回された。彼女でもない、自分の祖母にここまで付き合う俺も、毒されてきている。美里といたときとはまったく違う安心感。自分の妹で、祖母。女性として好きになることはないが、ばあちゃんはお茶目で、優しくて、人間としてどんどん好きになっていく。
 万代橋を歩きながら、ばあちゃんはさっき撮ったプリクラを見て笑った。
「『孫アンドばあちゃん』って書いてある」
「本当のことだろ」
「今の時代は本当になんでもあるんだな。昔は写真を撮るのも一苦労だったのに」
「そうだね。でも、その分人間関係が希薄になった気がするよ」
 自分の言葉が身にしみた。今までの俺もそうだ。新潟の親戚のことなんて、どうでもよくって。ばあちゃんのことも、ミツ子さんのことも何も知らなくて。お袋から教えてもらうことすらなくて。完二伯父さんが本当にどうしようもない大人だってことも気づかなかったし、逆に子供の学さんや美佐子の方が理解してくれたり。どうしようもない完二伯父さんも、久子伯母さんにだけは頭があがらないとか、綾子伯母さんとお袋は双子みたいに仲がいいこととか。徹と玲子は俺より親戚のことは他人事と思っていることとか。全部、全部。みんな繋がっているようで、繋がっていない。あるのは『血縁』だけ。その言葉さえむなしい。
「なあ、浩介。あとで花屋に寄ってもいいか?」
「いいけど……なんで?」
 訊いたが、ばあちゃんは答えなかった。ただ、真剣な表情だけが、俺の頭に残った。

「ミツ子さん、様子はどうかい」
 ばあちゃんが訊いても、やはり無反応。和菓子もあんみつも食べていない様子だった。そこでばあちゃんは後ろに隠していた花束をミツ子さんの眼前に出した。
 無表情だったミツ子さんの表情が、一気に変わる。ばあちゃんの顔も真剣だ。目の前の花束はカスミソウ。この小さな花に、ミツ子さんは何を感じているのだろう。俺が見守っていると、ミツ子さんの口からはっきりと言葉が聞こえた。
「お、義母さん」
「ミツ子さん。気づいたかい?」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
 ミツ子さんは少女姿のばあちゃんに、何度も何度も必死に頭を下げる。一体どういうことだ。ミツ子さんは目の前の少女の正体は知らないはずだ。それなのに、目をつむり、恐怖心を露わにしている。
 ばあちゃんの持ってきたカスミソウ。これにどういう効果があるというのだ。
「ばあちゃん……」
 あまりにもミツ子さんが必死に謝るものだから、俺は不安になった。ミツ子おばさんは何に怯えているんだ。訊いてもばあちゃんは答えない。その代わり、カスミソウを水の入った花瓶に入れた。それを活けて、窓際に置くものだとてっきり思った。それなのに、ばあちゃんは水とカスミソウの入った花瓶をミツ子さんにぶっかけた。
「ばあちゃん! 何してるんだよ! 相手はミツ子さん、自殺未遂したばっかりの人だぞ!」
 ばあちゃんはまったく動じず、平然とした顔で、花瓶を元の位置に戻した。そして今度はタオルを取り出す。濡れたミツ子さんを丁寧に拭き出したのだ。俺は個室の外に出され、着替えが終わるまで何が起きたのか頭を悩ませるはめになった。
「いいぞ、入っても」
 ばあちゃんのOKが出ると、俺はミツ子さんに近づいた。
「ミツ子さん、大丈夫ですか?」
 ミツ子さんは怯えた様子で俺を見る。「甥の浩介です」と名乗ったが、まだびくびくしている。
「それよりばあちゃん! なんで水なんてかけたんだ!」
「荒治療だったんだよ。あたしもね、やるかどうか迷ったけど、このままじゃいけないと思ってね」
 ばあちゃんは話し始めた。俺が気になっていたもうひとつのこと。昔、ミツ子さんがばあちゃんに何かした、という話だ。ばあちゃんが寝たきりだったとき、ミツ子さんもさすがに疲労が溜まっていたのだろう。また、実の娘息子たちからの協力が得られなかったせいもあったのかもしれない。ついに何もできないばあちゃんに、ひどいことをしてしまったことがあったらしい。それがこのカスミソウ。美佐子が見舞いに来て、置いていったものらしいのだが、花瓶で水をかけ、カスミソウを投げつけて大泣きしたことがあったという。夕方に来た久子伯母さんがそれを発見したそうだが、ミツ子さんは「手を滑らせた」と嘘を吐いた。ばあちゃんは何も言えず、何も訴えることができずに、ミツ子さんのストレスのはけ口になっていった。
 俺があまりにショッキングな話に閉口していると、ばあちゃんは意外にもからからと笑い出した。
「いいのさ、いいのさ。ミツ子さんが追いつめられていたのはわかっていたし、だからといってあたしが何かできたわけでもない。しょうがないことだったんだよ。それに今、ミツ子さんは同じ仕打ちを受けた。だからもう、あたしに遠慮することなんてないんだよ」
 それでも呪われたように頭を下げ続けるミツ子さんの顔を、ばあちゃんはぐっと押さえつけて、目を合わせた。顔を固定されてしまえば、視線を動かすことは難しい。
「ミツ子さん、よく聞き。あたしは死んでない。いなくなってもいない。若返って、あんたの目の前にいる。わかるかい?」
「お、義母さん……?」
「あんたが気に病むことは、もうひとつもない。あたしの面倒も看なくていいし、阿部家のことも気にしないでいい。寛一の遺産は返すから、自分の好きなように暮らしなさい。それでもまだ不安があるなら、あたしが力になるよ。今まで厳しくしてきた分ね」
 ばあちゃんが話し終わると、ミツ子さんは安心したように目を閉じて眠りについた。
 病室を出ると、俺は安堵の溜息をついた。まったく ばあちゃんのやることはとんでもない。いつでも肝を冷やす。それでも張本人は話が一段落したように、すっきりした顔をしている。
「結局俺は、子供のばあちゃんにも、一〇三歳のばあちゃんにも振り回されるんだな」
 半分笑いながら言うと、子供の姿のときに見せた小悪魔のような笑顔を再び浮かべた。この人は元々こういう人なのか。こりゃ、死んだじいちゃんは苦労したんだろうな。
 なんだか心がぽかぽかと温かくなり、楽しい気分で廊下を歩いていたら、曲がり角の先にごま塩頭の白衣といがぐり坊主の姿が見えた。俺は咄嗟にばあちゃんを庇い、廊下の壁にぴったりとくっついた。
「やっぱり血液ぐらいないと……それか髪の毛や爪でもいいんですけど、お金かかりますよ」
「金なんか、あとで入ってくるんだから、関係ねぇ! それよりばあさんのDNA鑑定だ!」
 畜生、伯父さんめ。DNA鑑定までする気なのか。もしDNA鑑定で、ばあちゃんが子供の姿でいることがばれたら。この間の話だと、分州先生は確実にばあちゃんを実験台にして学会に発表するだろう。完二伯父さんは遺産を手に入れたのち、マスコミに売るかもしれない。 
 それにしても、遺言書が、分州先生の弟が伯父さんに有利になるように書かれたものだなんて知らなかった。いや、ばあちゃんが死なない限り、それは知りえなかったんだ。俺は、いちおう法学部だが、まだ二年なので法律には自信がない。特に民法は苦手だ。だけど、ばあちゃんは一番面倒を看ずに遊びほうけていた伯父さんに、自分の遺産を分け与えたいと思うだろうか。本当に世話になった人間に、最高額を渡したいのではないだろうか。
 運良く二人は俺たちに気づかず、そのまま直進して行った。ほっと胸をなでおろしていたが、ばあちゃんがいない。周りをきょろきょろ見回す。やっぱりいない。
「完二!」
 白衣といがぐりが行った先から少女の高い声がした。――ばあちゃん? 俺は急いで三人がいるところまで走る。すると、完二伯父さんは再びばあちゃんの腕を引っ張り、分州先生に検査をするように大声で迫る。
「伯父さん! 何してんだよ! ばあちゃんも!」
 俺は二人を怒鳴ると、すぐに完二伯父さんの手を振り払い、ばあちゃんの手を引っ張った。が、ばあちゃんは動かない。
「ばあちゃん、何してるんだよ! この二人の近くにいたら、実験台にされたり、マスコミに売られたりするかもしれないんだぞ!」
「ほう、マスコミな。それは考えなかった」
 やばい。完二伯父さんにまずい知恵を与えてしまった。それでも関係ない。この場から離れなければ。
「浩介、待て。そのなんとか検査を受ければ、あたしは正式に『阿部トキ』だと認めてもらえるんだな」
「ばあちゃん?」
 何を考えているつもりだ。もし十五歳くらいの少女と、一〇三歳のばあちゃんのDNAが一緒だとしたら、大ニュースになってしまうんだぞ。静かに暮らすことなんて、できなくなってしまうんだ。
 ばあちゃんは、それを知ってか知らずかにやりと笑い、「受けてもいいぞ」とあっさり言ってのけた。この間のびくびくしていた姿からは、想像できない。
「これで完二が納得するなら、受けようじゃないか」
「おう、それじゃ、先生。善は急げだ。お願いするよ。検査が終わったら、俺が久子姉さんの家に送るから、お前は先に帰ってろ」
 三人は俺を置いてさっさと五階の検査室へと向う。一瞬、ばあちゃんが振り返ったが、その笑みは力強かった。
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