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文字数 2,741文字

 ベッドの中には少女だけ。室内にも、窓の外にもばあちゃんはいない。煙のように消えてしまった。だとしたら、この少女は誰だ。服は、ばあちゃんが着ていた寝巻きとまったく同じものだ。襟元に、青いシミがついているからわかる。サイズは、少女が着るには少し大きいようだが、今問題なのはそんなことじゃない。俺が頭を抱えていると、ごそりと布の擦れる音がした。反応して顔をあげると、少女が目を覚まして、ベッドに座っていた。
「何だ、これ。邪魔だな。鼻も痛い」
 少女は酸素吸入器や鼻に差し込んでいたチューブ、点滴すら乱暴に取り外してしまった。俺は痛そうに外している少女をおろおろと見守っていたが、途中で少女から話しかけてきた。
「なあ、あなたは? それに、ここはどこだ? 東京のお屋敷ではないな」
「……君こそ誰だ?」
 俺は質問を質問で返した。この少女は誰なんだ。ここにいたのは、俺とばあちゃんだけだ。あと、いたのは子供の霊ぐらい。でも、それはちょっと疲れて幻覚を見ていただけかもしれない。そもそもこの状況も幻覚か、若しくは夢だ。やはりこれは夢らしく、少女は俺の予想をはるかに越える名前を言った。
「あたしはトキ。佐藤トキ」
 『佐藤』という苗字に一瞬驚いたが、よく考えれば『阿部』はじいちゃんと結婚してからの苗字だ。旧姓は佐藤。佐藤トキ。この少女、佐藤トキはやっぱり。
「あなたは? あたしは名乗った。今度はあなたの番」
 ベッドに正座したばあちゃん――トキは、俺の目をのぞきこんだ。腕組みをして、考えてみたが、別に夢なら何を言っても平気だろう。
「俺は山崎浩介」
「コウスケか。ところであたしは何でこんなところにいるんだ?」
「ああ、それは……」
 俺が適当にこたえようとしたとき、冷たい風が入ってきた。振り返ると親父とお袋が立っている。親父は持っていたコンビニの袋を落とした。入っていたカレーが、どろりと袋から顔を出す。カレーの強いにおい。茶色のルー。頭がぐるぐる回る。
「……浩介、その子は? おばあちゃんはどうしたの?」
 はっ、とした。トキはベッドの上で正座しているだけだ。ああ、これはまずい。本当にまずい状況だ。これはリアル。夢ではない。お袋にも彼女が見える。一応、お約束のようにほっぺをつねってみる。それだけじゃ信じられず、拳を病院の壁に打ち込む。じんとして、赤い跡がついた。
 死にかけていたばあちゃんは、夢ではなく本当に、十歳の少女に若返ったのだ。
「浩介? おばあちゃんは? 答えなさい」
 親父が詰問する。お袋も顔色を変えた。やばい。ばあちゃんが若返ったなんて言っても、信じてもらえるわけがない。それに、一○三歳のばあちゃんの姿がなければ、俺にはどうすることもできない。
「コウスケ、この方々は誰だ?」
 ばあちゃんは当然状況を理解していない。旧姓を名乗ったことからして、記憶も子供の頃のものだと思われる。
「ば、ばあちゃん、意識が戻ったんだ。だから俺、先生呼んでさ。そしたらすぐに検査するって」
「そうなの? みんなに連絡しないと!」
 咄嗟の嘘に、お袋は携帯を持って廊下に飛び出していった。親父はお袋を見守ったあと、今度は若返ったばあちゃんを見た。
「浩介。この子はどうした?」
「ね、寝ぼけてたみたいでさ。ここの病室、電気ついてたから小児病棟まで連れてってあげようとしてたんだ。そういうわけで、今から連れてくから」
「ああ、そうか。ちゃんと送ってやりなさい」
 親父はほっとしたようで、落としたカレーの掃除に取りかかった。モップを借りてくると言うと、俺とばあちゃんは病室に残された。
外は大分明るくなっている。俺は、ばあちゃんの目をじっと見つめる。ばあちゃんも、俺の目を見る。
「ここは新潟なんだ」
 きょとんとして首をかしげる。十歳の少女には、東京と新潟の共通点がないらしい。難しい顔をしているが、これじゃあらちがあかない。俺は少し乱暴な口ぶりで言った。
「東京に帰ろう」
 ここにいるわけにはいかないし、他に考えは浮かばなかった。
 俺は、ばあちゃんの荷物からできるだけ小さい服をカバンに詰め、お袋や親父に会わないように病院の外に出た。ばあちゃんは靴がなくて、病院から失敬した子供用スリッパを履いている。寝巻きはズボンを脱がせればワンピースのようになるので、俺のベルトを貸して、丈を合わせた。
「コウスケは新しい書生か? 前にいた一郎太は出て行ってしまったからな。あたしも寂しかったんだ」
 寝たきりだったせいか足取りが怪しいばあちゃんをおぶって、俺はまず病院の近くにあるショッピングセンターに行った。十時の開店までは時間がある。自販機がある外のベンチで店が開くのを待つことにした。ばあちゃんの服と靴を買うためだ。
 俺がオレンジジュースと缶コーヒーを買うところを見たばあちゃんは、興味深げに自販機の前をうろうろしている。缶が落ちてくるところに何度も手を入れて、構造を知ろうとしているようだ。俺がオレンジジュースの缶を開けてやると、それにも驚いていたが、黙ってジュースを飲み始めた。
 俺はブラックのコーヒーを口に含み、目をつむった。勢いでばあちゃんを連れてきてしまった。もちろん、この先のことは何も考えていない。ばあちゃんが子供になってしまった理由。あのときに見たマネキンたちのせいだ。霊がばあちゃんの歳を吸った。それしか考えられないのだが、まるで現実味がない。しっかり見たというのに、まだ幻覚だったのではないかと自分を疑ってしまう。それでもばあちゃんは現に子供になっている。いや、待て。この子は本当にばあちゃんなのか? 俺の早とちりで連れてきてしまった、小児病棟の子供じゃないのか? 少女がばあちゃんではないとしたら、ばあちゃんはどこにいるんだ。
 さっきから携帯がずっと震えている。着信はお袋、親父、親父、お袋の順で五分間隔にある。メールは怖くて開けていない。わかることはひとつ。ばあちゃんは病院にいないということだ。
ジュースを飲んでいる少女に目をやる。プルタブが不思議なのか、何度もぐるぐると回していたら取れてしまった。
「なあ、きみは誰なんだ?」
 ベンチに座っている少女に目線を合わせようとしゃがむと、彼女は缶のデザインを見つめたまま元気よく答えた。
「佐藤トキだ、さっきも言っただろう。佐藤正継の長女だ」
 何も進展しない答え。名前はわかったが、それ以外の情報がない。俺はどうしたもんかと大きく溜息をついた。溜息とともに、ぐうと何か音がした。顔を上げると、トキが顔を真っ赤にしている。どうやら彼女の腹の音だったらしい。照れた顔は、まるでりんごみたいだ。
「腹減った?」
 無言でうなずく。俺は彼女の手を引いて、近くのコンビニに入ろうとした。
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