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文字数 2,749文字

 お屋敷は、松蔭神社の近くにあると彼女は言った。松蔭神社なら、俺たちの大学の近くだ。だが、当然俺たちはその辺りにお屋敷を見たことがない。それでもトキが望むなら、連れてってやるしかない。ずっとトキは家に帰ることを望んでいた。俺と旭は学校をサボって、それに付き合うことにした。
 彼女はまだ松蔭神社辺りにお屋敷があると信じている。小田急線に乗っている間、トキはずっと楽しそうに両親の話――つまり俺の曾祖父さんと曾祖母さんの話をしていた。家族に会うのを楽しみにしているのに、行ったらお屋敷はとうに無くなっていて、みんなもう死んでいるなんて。俺は唾液を飲み込むのさえ苦痛だった。
 梅田駅からトキの歩みに合わせて三十分。松蔭神社の近くをぐるりと回るが、やはりその付近にあると言っていたお屋敷はなかった。
「おかしいな、確かこの位置にあったはずなんだけど」
 トキは古くて大きな家の前に立って、その位置から神社を見た。旭も俺も、何も言えずに彼女が歩くのについていくだけだ。
「そうだ、この辺りの人に話を聞けばわかるかも」
 トキが門前をほうきで掃いていたおばあさんに声をかけた。そんなことをしても何もわかりはしないのに。だからといって、彼女を止めることはできなかった。どう止めろというのだ。「もうお屋敷はなくなっているから訊いても無駄だ」。そう言うことは簡単かもしれないが、トキはどういう反応を示すだろう。帰る家がなくて泣くだろうか。両親に会えないと知って、落ち込むだろうか。自分だけ時に置いていかれているのだ。しかし、俺はトキに自分の祖母であることを伝える気はなかった。寝たきりで、食事もチューブを使ってしかできないでいたことなんて、伝えなくてもいいことだ。
「佐藤さんのお屋敷? ……ああ、そう言えばこの辺にあったねぇ」
 掃除していたおばあさんは、昔を思い出したかのようにぺらぺらとしゃべりだした。
「佐藤さんところの旦那さんは、お嬢さんが駆け落ちしてから、病気になってしまってねぇ。それからお家自身が傾いてしまったのよ。昭和に入ったすぐあとだったかしらね。私も姉から聞いただけだから、よくは知らないんだけど」
「あたしの家の女子は、あたしだけだけど……?」
 トキはよくわかっていないようで、顔中にはてなマークをくっつけているが、俺には少し状況が読めた。つまりトキ、ばあちゃんはじいちゃんと新潟に駆け落ちしてきたんだ。てっきり俺は普通に阿部家に輿入れしてきたもんだと思っていたが、そうではなかった。
 ばあちゃんは苦労してきたんだな。ばあちゃんのこと、何も知らなかったんだと今更俺は痛感した。どうやってじいちゃんと出会って、結婚して、伯父さんたちやお袋が生まれたかなんて、全然興味すらなかった。それがこんな形でわかるとは。
「要するに、あたしん家はなくなってしまったのか?」
 トキが俺の服の裾を引っ張る。考え事をしていた俺ははっとした。トキは今にも泣きそうだ。
「お父様たちはどこに行ったというんだ。あたし、なんだか会わなきゃいけない気がする!」
「トキ、待て。大丈夫だから。トキの家族は引っ越しただけだ!」
「でも! お父様は病気になったって!」
「トキちゃん。お父さんとお母さんは、もう亡くなってる」
 今まで黙っていた旭が口を開いた。トキは旭の言葉を聞いて、目を丸くした。黒くまん丸い瞳からは、自然と涙が溢れてくる。
「何で旭はそんなこと言うの? お父様たちが死んだなんて。コウスケも言ってよ! 嘘だって!」
 腰の辺りを叩くトキに、俺は何も言えなかった。大声で泣くトキの声が聞こえる。旭は無言だ。俺はトキをおんぶすると、大学の近くの公園へ向った。

「旭、お前、何考えてるんだよ」
「俺はトキちゃんに悔いなく過ごしてもらいたいだけだよ」
「じゃあ、わざわざ親が死んでることなんて、言わなくてもよかっただろ?」
「俺が言わなかったら、ずっとトキちゃんは『家に帰りたい』って言ってたぞ」
 確かにその通りだ。旭が言わなかったら、俺はずっとトキが家に帰りたいと言ってもはぐらかしていただろう。俺は両親が死んでることを言わないでおくつもりだった。
 トキは俺の膝の上に頭を置いて眠っている。泣き疲れたのだろう。
「トキちゃんが本当にお前のばあちゃんならば、これからもこういうことが起こると思う。『誰かに会いたい』って言っても、その会いたい誰かはもう死んでるかもしれない。それならお前自身と楽しい思い出を作るほうがいいだろう?」
 旭の言っていることは至極真っ当なことだった。膝で眠っている少女は、この平成の時代にただひとり残されてしまったのか。お袋と綾子伯母さんの言葉を思い出す。『子供の方が先に死んでいくのをただ見ていることしかできない』。ばあちゃんは、知り合いや自分の旦那、自分の子供にもおいていかれ、ひとりで生きていたのか。生きている久子伯母さんや完二伯父さん、美佐子や幸子さん夫婦がいても、自分は寝たきりで話すこともままならない。ミツ子さんに対してはどう思っていたかはわからないが、周りの人たちとの意志疎通もできずにただベッドに横になっているだけなんて、どんなに悔しい思いをしていたのだろう。
 俺はトキの柔らかい髪を撫でた。旭が言うように、このまま死ぬ運命なら、俺が最後に楽しい思い出を残してやりたい。これが今まで何もできなかった俺の、ばあちゃんへの償いだ。もしかしたら神様ってやつは本当にいて、俺みたいにばあちゃんを無視して生きてきた人間に、こういった罰を与えているのかもしれないな。
「旭、ひとつ頼みたいことがあるんだけど」
「なんだよ、改まって」
「トキがいつまで子供のままでいるかわからない。それでも俺、一緒に思い出を作っていこうと思うんだ。だから、何かあったとき協力してくれると助かるんだが」
 旭は不機嫌な顔をした。その様子に俺は怯む。めがねを直すと髪を手櫛で流し、ふう、とわざとらしく息を吐いた。
「今の状態ですでに大分協力してるつもりなんだけど?」
「あ……」
 確かに。巻き込まれた形ではあるが、ずっと昨日から俺の話を信用して、トキと遊んでくれているし、俺に対しては助言もしてくれている。旭じゃなかったら、ここまで付き合ってくれはしなかっただろう。旭は不機嫌な表情から一転して、悪い笑みを浮かべた。
「ま、そうだな。今度発売のゲームで勘弁してやろう」
「……お父様……」
 目を擦りながら、眠っていたトキが体を起こした。俺はトキをベンチに座らせると、おんぶするように促した。まだ寝ぼけているトキは、何も言わずそれに従う。
「ひいじいちゃんはいないけど、俺がいるから」
 呟くのを聞いたのかはわからないが、トキは再び俺の背中で眠りについたようだった。    
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