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文字数 6,026文字

 朝起きて、幸子さんに挨拶すると、ばあちゃんを探す。いつもなら食卓で麦茶を飲みながらテレビをみているはずなのに、今日はいない。訊くと、「今日は早くに病院に行ったわよ」と言われた。幸子さんはてっきり俺も承知だと思っていたらしい。幸子さんに謝って、朝食を食べずに俺は病院に急いだ。
 三階の病棟は騒がしかった。入院患者だけじゃない。看護師さんもミツ子さんの病室の前で様子をうかがっている。ドアは閉められたままで、中からはどかどかと物が壁に当たる音がする。
「ばあちゃん! ミツ子さん?」
 人垣をかきわけ、俺はドアの前でばあちゃんたちを呼んだ。返答はない。それでも、物がぶつかる音は止まった。しばらくして、ドアの隙間から紙が一枚出てきた。
『浩介くんだけ入室を許す ミツ子』
 看護師や医者、偶然居合わせた分州先生はこそこそと話し合っていた。多分、この要求を飲まず、突入しようとでも考えているのだろう。俺はその隙にさっと部屋に入った。
「おれは義母さんのせいでおかしくなったんだあ! なのに、こんな子供まで使って、さらにおかしくさせる気かぁ!」
 そう言って、枕を投げる。ばあちゃんの顔面にそれが当たる。それでもばあちゃんは強気だ。
「ああ、そうだね。あたしのせいかもしれないね。でも生憎、あたしがあんたの義母さんなんだよ」
「嘘つけ! 義母さんは死んだんだ! なんでおれがあんたに介護してもらわにゃならんね!」
「それだけ元気なら、介護もいらんね」
「いらん! そんなもん!」
 それだけ聞くと、ばあちゃんはあっさりと引いた。
「阿部家が嫌になったら、いつでも出て行き。いてもいいなら、一生、あんたの面倒看るから」
 まだ毛を立たせた猫のように鼻息を荒くしているミツ子さんを後ろに、ばあちゃんは出て行った。なぜ呼ばれたのかわからない俺も出て行こうとすると、ミツ子さんに引き止められた。
「浩介くん、あんたがあの子の保護者代わりなんね」
「いや……ええ、まあ」
「カスミソウ放ったのもあの子かね」
 俺は黙った。その様子で、ミツ子さんは察したらしい。親指の爪を噛むと、また癇癪を起こし始めると思った。でも実際は逆で、大きく溜息を落とすと、ベッドに座り込んだ。
「浩介くん、おれが義母さんに暴力振るったのは……もうわかってるか。そのせいで久子さんたちから責められた。でも、あの人たちが責める理由はないね。金だけ渡して、母の日や敬老の日だけ贈り物よこして! 義母さんはそんなもんより、娘、息子に世話してもらった方が何倍も喜ぶのに!」
「俺、思うんだけどさ」
 考えるよりも先に、口がしゃべりだしていた。でも、今口に出していることは間違いじゃない。そう感じて続ける。
「ばあちゃん、最初世話されてたとき、きっと『ごめんね』とか『迷惑かけて』とか、すごく思ったんだと思う。でも、そのうち『ごめんね』から『ありがとう』の気持ちに変わったんじゃないかな」
「『ありがとう』の気持ち?」
「ばあちゃん、若返ってからやりたいことはミツ子さんの介護って言ったんだよ。若返ったんだから、他にもやりたいことがあるだろうに。もし『迷惑かけてごめんね』って気持ちだけだったら、こんなことは言い出さないと思う。ミツ子さんが介護してくれたことで、『ありがとう』って気持ちもあったから、きっと言い出したんじゃないかな」
 ある本に書いてあった覚えがある。介護は『ごめんね』の気持ちより『ありがとう』の気持ちで。両方が両方気を遣って身を小さくしていたら、苦しいだけの介護になってしまう。でも『ありがとう』というプラスの考えがあれば、またきっと変わってくる。
「確かに伯母さんや伯父さんたちが介護にノータッチだったのは悪いことだと思う。だけどさ、ばあちゃん言ってた。『突然何もできなくなった親を看る勇気がなかったんだ』って。だからって、ミツ子さんに全部押し付ける理由にはないけどさ。それも少しだけでいいから、わかってやって」
 ミツ子さんは下唇を噛んだ。そのうち嗚咽が聞こえてきた。俺はもうここにいない方がいい。ゆっくりとドアを開き、静かに病室を出た。
 そのあとはばあちゃんと一緒に医者や看護師さんからの質問攻めだ。ばあちゃんの若返りの件は大きくはしょって、介護のことで言い争っていたと大まかに説明した。それと、再び自殺未遂しないように気をつけてみていて欲しいとも頼んだ。ああやって、気を昂ぶらせたあとだと、自殺まで思いつめる可能性が高くなる。俺は思ったことを告げただけだったけど、結果、ミツ子さんに大きな影響を与えてしまったかもしれない。だから、予防策で、だ。
 説明が終わると、すっかり昼になってしまった。俺とばあちゃんは病院の食堂で昼ごはんを食べることにした。食べるときは無言。これは、ばあちゃんのしつけの一環だった。しつけされる年でもないが、昔の人の言うことを聞くことも大事と思って、俺も勝手に付き合っている。ただ難点なのは、楽しくないことだ。食事の味はよくわかるようになるけど、少し寂しい。ぼーっとばあちゃんを見ていたら、手を叩かれた。何度も箸の持ち方を強制されたのに、気が緩むと元に戻ってしまう。癖の握り箸をあまり注意されてこなかったので、こればかりはどうしようもないことだった。「二十歳までに直ればいい」と何度も言われたが、俺はもう二十歳だ。そのせいでばあちゃんのチェックは余計厳しくなっていた。何度も叩かれたせいか、今日は右手が痛い。うどんではなく、カレーライスにすればよかった。

 しかしミツ子さんは意外にも次の日、俺たちを病室にすんなりと入れてくれた。その前に医者と看護師さん「あまり興奮させないように」と注意された。おばさんは明日、大部屋に移動するらしかった。今日は荷物整理を手伝いながら話をすることになった。
「浩介くん、本当にこの子は義母さんなんね?」
「ええそうです。信用してもらえないかもしれないけど」
 前置きして、ばあちゃんが子供になったときの状況を説明する。深夜に大人になりきれなかった霊たちが、ばあちゃんの年を吸っていった。これ以上説明しようがないが、やはりミツ子さんはぽかんとしていると思った。でも、意外にもあごに手を当てて真剣に考えている。
「その霊って、白いマネキンみたいなものか?」
 俺はミツ子さんに近寄って、「そう!」と大声を出した。
「実は、おれも夜にそれを見たんだ」
 ミツ子さんの話によると、やっぱり午前四時頃、白い子供のマネキンたちが部屋に入ってきたという。ミツ子さんの体は金縛りのように動けなくなり、霊がベッドを囲みだす。
“この人もいらない人? 生きていても居場所がない人なら、命をもらってもいいんじゃない?”
 ひとりのマネキンはそう言ったが、他のマネキンはミツ子さんの顔を瞳のない目でじろりと見たあとに“この人はだめだ”と言ったらしい。
“このひとは「生きていて欲しい」と思っている人間がいる。だからこの人から命をとるのはやめよう”
 そうしてマネキンたちは退散していったようだ。マネキンの言った「生きていて欲しいと思っている人間」。実はそれ、ばあちゃんのことだったりして。ばあちゃんはミツ子さんが自殺未遂したことを自分のせいだと思っていたし、そのあとも自分が面倒を看ると覚悟もしていた。だが、ばあちゃんは強い。自分が寝たきりで何もできなかったときに、乱暴に扱われても、今はそれを気にせず、ミツ子さんと普通に接している。ミツ子さん自身はまだばあちゃんが少女だと信用しているのかはわからないが。
「嬢ちゃんの名前は?」
「阿部トキだって、何度も言っているだろ。ミツ子さん」
「いい加減、悪い冗談はやめんさい」
 ミツ子さんの口調は、昨日とうってかわって優しいものになっていた。少女がばあちゃんだって気づいていないようだが、本心では受け入れているのではないだろうか。傍目から見て、そんな気がした。
「浩介、ちょっと部屋出てな。ミツ子さんの体拭くから」
 さすがに老女の体に興味はないが、ここにいるのはまずい。とりあえず、俺は廊下に一度出た。
 よく考えてみると、霊はどこにでも出没する。最初はばあちゃんの病院。次に出てきたのは俺の家。これは無縁仏が壊されたからだそうだが。次は海。ばあちゃん曰く、ここで襲われたせいで記憶を取り戻したようだ。そしてここ、ミツ子さんの病院。今度はどこに出てくる? ばあちゃんを助けることはできるのだろうか。俺じゃ力不足なんじゃないか? 若干に不安になっていく。今度はミツ子さんがそうされそうになったように、命を狙われるかもしらない。そんなことさせてたまるか。ばあちゃんの命は絶対俺が守ってみせる。
強く握りこぶしを作ると、軽く病院の壁に打ち付けた。ちょうどそこで、ミツ子さんの部屋のドアが開く。
「終わったよ」
 ミツ子さんの身支度が済んだら、今度は部屋の移動の準備だ。大部屋に荷物を運び、同室の人に挨拶をする。それが終わると、「喉が渇いた」とばあちゃんが言うので、三人で一階の自販機へ移動する。つい数日前に自殺未遂をした人間とは思えないほど、ミツ子さんは元気になっていた。この間のカスミソウが効いたのだろうか。
 ばあちゃんが小銭を手に自販機へ近寄ると、俺とミツ子さんはベンチに腰掛けた。
「ばあちゃん、自販機がお気に入りなんです」
 聞かれてもいないことを、俺は説明した。ばあちゃんは缶が落ちる仕組みが気に入ったらしく、俺とミツ子さんの分まで買ってきてくれると言った。
「浩介くんも、あの子がばあちゃんだって言うのかい?」
「ばあちゃんですよ、あれは」
 二人無言で、自販機のボタンを押す少女を見る。ミツ子さんは大きく溜息をついた。
「世の中はわからないね。人が若返ったり、命をとられそうになったり、死にたくなったり、生きることに執着したり」
「俺は、どれも自然なことだと思いますよ。生と死はすぐ近くにあるんです。ばあちゃんは中途半端に若返ったりしてしまったけど、俺が止めなかったら生気を全部吸い取られて死んでた。それでもばあちゃんは、再び与えられた第二の人生を過ごしている。運命っていうのを受け入れてるんだと思います」
 俺が真剣な顔でつらつらとしゃべると、ミツ子さんは何日か振りに笑顔を見せた。
「あんたたちは、あの子がどうしても義母さんだと認めさせたいみたいだね」
「実際そうなんですってば」
 話をしていると、ばあちゃんがお茶のペットボトルを三本抱えて持ってくる。途中でひとつおとすと、他の二本も転がりだす。結局三本全部を落としたばあちゃんは、もう一回一本ずつ拾いなおして俺たちにペットボトルを配った。
「義母さんはここまでおっちょこちょいじゃなかった」
「まあ、まあ」
「二人は何を話しているんだ?」
 ひとり会話についていけないばあちゃんは、子供のようにぷうと頬を膨らませた。

「なんだか数十年ぶりに心が楽になった気がする」
 病院を出る前のミツ子さんは、すっきりとした顔で俺にそう言った。いつも阿部家の嫁という位置で雑用から何でも押し付けられ、失敗すると「だから阿部家じゃない家の人間は」と嫌味を言われていたミツ子さん。確かに一度、他の男と逃げたことは許せるものではない。それとばあちゃんのこと。何もできない病人に、乱暴をはたらくなんて、人間として許されざる行為だ。しかし、そこまでの行動に移すまでには色々な背景が見え隠れする。阿部家の人間が、全部ミツ子さんにばあちゃんの世話を一任していたことも原因だ。
 でも、もうミツ子さんは阿部家から離れてもいいという許可も得た。ばあちゃんは若返った。ばあちゃんのことを信じる、信じないということは置いておいても、ばあちゃんの世話はしなくていいことになった。ミツ子さんはもう自由だ。
「ミツ子さん、無理に阿部の家を守らなくてもいい。もし嫌なら、久子の持っているマンションの一室を貸すし、阿部家と縁を切りたいなら、それでもいい」
 ばあちゃんが言うと、ミツ子さんは首を横に振った。
「いや、まだ阿部家にいるよ。そこの嬢ちゃんが、本当に義母さんか確認したいしね。あと、浩介くん」
 後ろを向いて、病棟を出ようとしたとき突然呼び止められ、振り返ると「ありがとうね」とお礼を言われた。俺は特に何もしていないつもりだったので、少し驚いた。

 病院から帰る途中、ばあちゃんがどうしても寄りたいという場所があり、そこに寄ることになった。まだ三時で外も暗くない。どこかに寄っていっても問題はないだろう。俺はばあちゃんに付き合うことにした。病院から住宅地を抜け、阿部家に近い辺りの畑にそれはあった。
「阿部家之墓……」
 周りはしなびたミニトマトやら枯れたとうもろこし、大きく育ったひまわりがある。何の木かはわからないが、俺の腕よりも円周が広い幹の横に、汚れて苔の生えた墓があった。昔の墓は、墓地ではなく、畑にぽつんとあったり、自分の敷地に作ったりしたようだ。
反射的に俺は周りを見る。いつもの白いマネキンはいない。昼間だからだろうか。
 ばあちゃんは、その墓の前で手を合わせる。俺も真似して手を合わせた。しばらくして、ばあちゃんが目を開けると、俺は訊ねた。
「この墓は?」
「これは、阿部家の先祖代々の墓だよ。総一朗さんと総一朗さんのご先祖さまが入っているんだよ。あたしが寝たきりになってから、やっぱりそのままになってたね」
 そう言って、水道場のところにおいてあった水桶と、向かいのちょっとした雑貨が売ってある小さな商店で買ったスポンジで墓の掃除を始めた。
 畑の真ん中にある小さい墓。まるで豊作を願うように置かれた先祖の、じいちゃんの墓は、水をかけると木漏れ日の下、緑に光っているような気がした。ばあちゃんと一緒に周りの雑草を手で抜いていく。それが終わると、苔の生えた墓石の掃除だ。苔はなかなかしぶとく、あっさりと落ちてくれない。大体きれいになると、もう一度墓石に水をかける。花も線香も買って来なかったが、ばあちゃんは「すぐ汚れちゃうからね」と気にしていなかった。多分、この墓がこんなに荒れていたのは、ばあちゃんしか掃除をする人間がいなかったからだろう。花はすぐに枯れるし、線香の灰は飛んでいってしまう。だから何も置かなかったのだ。
「これで少し総一朗さんも喜ぶかね」
 掃除で汗だくになった俺は、静かにうなずく。ばあちゃんは更に続けた。
「あたしもできたらこのお墓に、総一朗さんと同じところに入りたい。あたしが死んだら、浩介、頼むよ。あたしがここに入りたかったことをみんなに伝えておくれ」
「ばあちゃんはまだ死なないさ」
 俺は少女姿のばあちゃんに言った。今の容貌なら、死とは無縁だ。ただ、またあのマネキン――お迎えがきてしまったら。一瞬、白いマネキンが若いばあちゃんを襲う姿を想像したが、すぐに頭を振って考えないようにした。
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