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文字数 5,961文字

 今日もミツ子さんの病室を訪れると、今度はうつではなく躁状態じゃないかというくらい、彼女は元気だった。
 ばあちゃんは持ってきた造花を瓶に入れると、テレビのわきに置いた。生花だと、水がこぼれるかもしれない。だから、今度は造花だ。これならけんかになってもまだマシだ。
「自称・義母さん、また来たんかね。あんたも暇だね」
「ミツ子さんが心配なんだよ、これでもね。あんた、病院退院したら、どうするつもりだい?」
 ばあちゃんはミツ子さんに問いかけた。とりあえず、今の状況を維持していられるなら、ばあちゃんを介護をする必要はない。阿部家に戻ってもいいが、ミツ子さん自身はどう考えているのだろう。
 本当はうつ状態の人にAorBみたいにどちらか選ばせるのは控えた方がいいのだが、阿部家でミツ子さんの面倒を看られるのは、現在のところばあちゃんくらいしかいない。それをよく知っているばあちゃんは、ミツ子さんにひとつ提案した。
「あたしと一緒に阿部本家に住まないか? あたしも今は久子の家にいる身だし、やっぱり自分の家にいたいんだよ」
 ミツ子さんは黙った。まだ自分で答えは出せないらしい。だが、退院の時期は迫っている。ばあちゃんはミツ子さんの面倒を看たいと自分で言い出した。だから、自分でこうやって責任を取ろうとしている。しかし、ミツ子さんからすれば、自称・義母の少女が一緒に住みたいと言っている、不思議な状態なのだ。すぐに答えを出せという方が難しい。
「退院の日まで、答えは待ってるから」
 そう告げると、ばあちゃんはミツ子さんのいる大部屋を出て行った。

 ばあちゃんは病院を出ると、そのまま阿部本家に向った。鍵は久子伯母さんから受け取っている。
「浩介、あんたも手伝いな」
 そういうとマスクとはたきを渡された。
「これは?」
「掃除するんだよ。ミツ子さんはきっとあたしと一緒に住むことになると思う。その前に部屋をきれいにする。当然だろ」
 ばあちゃんはあっさり言うが、阿部本家は昔からの地主で、やたら家もでかい。それを二人で掃除するのは骨が折れる。
「美佐子も呼ぼうよ」
「大丈夫。二人で終わるから。掃除は上からな」
 ばあちゃんは俺の提案を即却下して、掃除に取り掛かる。俺も仕方なく、はたきで上のほこりを下に落とす作業を始めた。
 ほこりを落として、畳の目に沿って箒で掃き、雑巾で乾拭き。縁側も雑巾で拭いてきれいにする。一階のだだっぴろい大広間が終わると、今度は二階のミツ子さんの部屋だ。ミツ子さんはわりと整理好きらしく、いたるところに工夫を凝らして収納をしていた。こちらの部屋は窓を拭いて、掃除機をかけるだけで済んだ。それでも気がつけば、昼から始めて腕時計は八時を回っていた。
 食事も取らず、くたくたになるまで働いた俺は、一階の大広間に寝転んだ。木目が雲のような模様を作っている。じっと見つめていると、いつの間にか眠りについてしまっていた。
「……すけ、浩介、起きな」
 ゆっくりと目を開くと、電気の光がまぶしくて、目を細める。ぼやっとばあちゃんの顔が見える。腕時計を確認すると、十一時。これは久子伯母さんに怒られる。やばいと思って勢いよく体を起こすと、節々が痛い。掃除のせいで筋肉痛なんて、情けない。ともかく久子伯母さんに連絡しないと。
 黒い電話に近づこうとすると、ばあちゃんは平然と言った。
「久子にならもう連絡したぞ。その電話で」
 俺はちょっとびっくりしてばあちゃんを見た。いつの間に電話の使い方を覚えたんだ。不思議に思っていると、電話のところに使い方と各家の電話番号が丁寧に記されていた。きっとミツ子さんが書いたものだろう。いくら嫌いな親戚だって、何かあったら連絡しなくてはいけない。だから、メモを置いていたのだ。
「それより茶漬けを用意したから食べな。起きたばっかりだと、そんなに入らないだろ」
 俺は竜の彫り物がほどこされている机の上に置いてある、茶漬けをちらりと見た。まだ用意されたばかりのようで、湯気が出ている。メーカーの作った「お茶漬けの素」じゃなく、明太子の下にしその葉が敷いてあり、それに緑茶がかかった本当の茶漬けが準備されていた。味はというと、言うまでもない。俺は結局三杯おかわりしてしまい、ばあちゃんに呆れられた。初めて食べた、ばあちゃんの味。いや、初めてじゃなかったのかもしれない。今まで忘れていた、懐かしい味がした。

 それから三日後、ミツ子さんは退院した。結局、ばあちゃんの言った通り、阿部本家でしばらく暮らすことになった。ばあちゃんも一緒だ。ばあちゃんの保護者としての立場から、俺も一緒だ。若返ったばあちゃんに、一度家を出たことのある、鼻つまみ者のミツ子さん、何の関係もない俺の奇妙な三人の生活が始まった。しかし、一緒にいられる時間はそんなになくなっていた。いつの間にかときは九月。下旬から俺は学校がある。ばあちゃんと一緒にいられる期間も短くなってきていた。
 今日は三人揃って、荒れた畑の手入れをしている。九月といえどもまだ暑い。三人揃いの麦藁帽子に首にタオルを巻いての作業。ばあちゃんが寝たきりになってから、一度も触っていなかったので、手でとうもろこしやトマトの苗木を抜いていく。朝から半日かけてその作業をすると、今度は土を耕す。俺たち三人の様子を、じいちゃんが見ている気がした。
「疲れたー!」
「しゃんとしな、あの子を見てみい。食事の支度までして。本当によく働く子ね」
「ミツ子さんは手伝わないんですか」
「腰、腰!」
 ミツ子さんはすっかり腰をやられてしまって、さっきばあちゃんにシップを貼ってもらったところだ。ばあちゃんは昔からの生活が馴染んでいるせいか、その若い体をフル活用して、今は夕飯を作っている。
 だけど、俺は少し安心していた。一時期は自殺未遂までしたミツ子さんが、ここまで元気になるなんて。ばあちゃんのことは相変わらず口では信じていないと言うけれど、本当はトキがばあちゃんだってわかっている気がした。ばあちゃんは姿を変えて生きている。自分のせいで消えたり、死んだりしていない。それに新しい生きがいができた。若くなったばあちゃんとの共同生活が、ミツ子さんに活気を与えていた。世の中不思議なものである。
 夕食はふろふき大根とそうめん、奈良漬と質素だった。ばあちゃんもなんだかんだ言っても疲れてたんだな。そう思うとふいに笑いがこみ上げていた。三人で手を合わせて「いただきます」と食事を始める。すると、今度は二人から右手を叩かれた。俺の箸使いはまだまだのようだ。
 洗い物は、食事をして少し体力が復活した俺が担当した。ばあちゃんは「男が厨房に入るなんて……」とぶつぶつ言っていたが、もうそんな時代でもないだろう。それに疲れている女性二人をこきつかわせるほうが、男らしくない。
 台所の仕事を済ますと、今度は布団敷きだ。これは確実にミツ子さんにはできないので、俺が代わりに敷いてやる。二階の、ミツ子さんの隣りの部屋で寝ているばあちゃんの分も、ついでに敷き終わると、クーラーが軽く効いているとはいえ、少し汗をかいた。しかし、その仕事のおかげで一番風呂に入る権利を二人からもらうことができた。
 顔にお湯をかけると、大きく溜息をついた。俺は一体何をしているんだろう。貴重な大学生の夏休み。一緒にいるのは七十五歳のミツ子さんと、見た目は十五、六だが中身は一〇三歳のばあちゃん。しかもどういうわけか夏休み中はずっと同居して畑仕事をするという。友達と遊ぶわけでもなし、勉強に力をいれるわけでもない。色気も何にもないのに、それでも楽しいって、俺は変なのだろうか。なんだか人間として、男として磨かれている感じがするのだ。体についているあざは、きっと今日の畑仕事のときにできたものだろう。顔がぴりぴりするのは、日焼けだ。去年の夏休みは、旭とカラオケに行ったり、学校の同輩とともにバーベキューに行ったり、毎日遊びほうけてた。それはそれでもちろん楽しかったんだけど、今みたいに人生経験を積んでるって感じはしなかった。あのまま東京にいたら、俺は何もできない軟弱な男のままで終わっていたかもしれない。ばあちゃんが小さくなって、面倒を看ることで俺は少し変わった気がする。
 湯から飛び出すと、俺は頭をがしがしと洗い、風呂から上がった。今日は疲れた。最高に、気持ちいいくらい。
 二人が風呂から上がって、就寝の挨拶をすると、俺は仕切りで半分にした大広間に布団を敷いた。ばあちゃんから教えてもらった蚊帳のつり方も、今ではひとりでできるようになった。クーラーはないが、戸を開けて寝るとずいぶん涼しい。ただ一点あまり嬉しくないことがある。この部屋には仏壇があるのだ。心霊関係は一切信じなかった俺だが、さすがに何回もばあちゃんが霊に襲われたところを見ると、敏感にならざるを得ない。
 それでも気にしないようにして、眠りにつくことだけに集中する。体が疲れていたせいか、思ったより早く睡魔が訪れた。あとは身を任せて、眠るだけだ。

 夏の夜の冷たい風が、俺の体に当たる。暑いからタオルケットを腹にかけただけの俺には、ちょうどいい。その風が耳の横を通り、布の擦れる音がした。
 ――誰かいる? 俺は目を開けて頭の上を見た。そこには紋付袴を着たはげたじいさんがいた。この顔は見覚えがある。はげたじいさんの後ろにある、亡くなった先祖の写真に彼はいた。これは、じいちゃんだ。
 俺は驚いてタオルケットをめくってあとずさった。じいちゃんは厳しい目つきで、その様子をじっと観察している。にらむような、鋭い目が俺に刺さる。じいちゃんは腕を組み、動かない。俺はじいちゃんが何をしに出てきたのか検討がつかず、にらみあったままだ。
 どのくらいにらみあっただろう。俺にとっては一時間くらいに感じられた。でも、壁にかけられた時計は三時十五分。さっきから五分しか経っていない。
 じいちゃんは俺が時計を見たあと、やっと話し出した。霊が話し出す。こんな言い方は変か。じいちゃんは俺の頭に直接語り出した。その言葉はあまりにも突然で、俺は驚いた。
『そろそろトキを返してもらう』
『えっ?』
 「トキを返してもらう」。ということは、ばあちゃんはばあちゃんに戻る。ばあちゃんがじいちゃんの元に逝く。そういうことだ。
『返してもらう、って、ばあちゃんはマネキンの霊に年齢を吸い取られたんだ! それも全部じいちゃんの差し金だったってことか?』
『そうじゃない。それは成仏できていない霊がやったこと。トキが若いままでいると、色々と不都合が生じるんだ』
俺は持っていたタオルケットを手ばなして、じいちゃんにくってかかった。
『まだ、まだいいだろ! ばあちゃんは今の生活を楽しんでる。それにミツ子さんのことだって、やっとうまく行き始めたんだ!』
『だからだ』
 祖父ちゃんの声は頭に響いた。ばあちゃんは、現代にうまく適応している。何か問題があるわけでもない。それなのに、今更お迎えなんて。
『トキが生死をさまよっているとき、何を願っていたか知っているか』
 俺は左右に首を振った。じいちゃんは薬指と小指を立てて、一本ずつ折っていった。
『ひとつは、孫たちと思い出を作りたかった。もうひとつは、お世話になったミツ子さんにお礼をしたい。二つとももう願いは叶っているだろう』
「けど!」
 今更だ。せっかくばあちゃんのすごいところや尊敬できるところを見つけたというのに。ばあちゃんが子供になってから俺の生活は変わった。大学生だというのに、十歳の子供の面倒をになくちゃいけないわ、イライラしているときも視界に入ってきて、怒ると逃げて行方不明になるわ。でも、美佐子や学さん、俺には、昔のばあちゃんの思い出がよみがえった。昔のばあちゃん。男よりも強くて、力持ちで、しつけに厳しいばあちゃん。俺はそんなばあちゃんが大好きで、大好きで、しょうがないんだ。
 ばあちゃんが元の姿に戻ってしまうということは、また一〇三歳の姿になってしまうということだ。今は元気に動き回っていられるけど、また寝たきりになってしまう。今度はミツ子さんだけに介護をさせることはないだろうが、それでも、何もできなくなってしまう。そんなばあちゃん、見たくない。
『年をとるということはそういうことだ』
 俺の気持ちを読んだのか、じいちゃんは穏やかに言った。
『お前は覚えていないだろう。わしが死んだときのこと』
 言われて見れば覚えていない。じいちゃんが死んだのは俺が六歳くらいのとき。葬式自体にも飽きてしまって、子供たちはまとめて綾子伯母さんが斎場の外で面倒を見ていたっけ。
 じいちゃんは俺の頭に手を当てると、そのときの状況を俺に流し込んだ。
 じいちゃんのお棺の横で、涙のひとつも見せないで喪主の挨拶をするばあちゃん。だけど、出棺が終わり「ちょっとお手洗いに」と立ったあと、ハンカチがぐちゃぐちゃになるほど泣いていた。
『不謹慎だが、わしはこの瞬間が一番嬉しかったんだ。わしも九十を過ぎていたからな、トキと同じようにいつ死ぬか、と待たれていたんだよ。だから、子供たちは誰一人として泣かなかった。やっとばあちゃんも第二の人生が送れるね、なんて言われてな。でもトキは泣いてくれた。人が死んだら当たり前に泣く。それは一般論で、今では人が死んでも泣かない世の中になったんだよ』
 じいちゃんの言葉に、俺は胸が痛くなった。ばあちゃんが死にそうだと聞いた、六月のあの日。やっぱりばあちゃんが死ぬことで暗くなるかと思いきや、伯母さんや伯父さんは久しぶりの親戚の集まりに喜んでいるようだった。無論、涙が出そうな人なんていなかったし、葬式よりもばあちゃんの残す遺産の方に、みんな興味を持っていた。
『浩介、お前はトキがいなくなったら、泣いてくれるか?』
 意外な質問だった。てっきりじいちゃんは、「男なんだから泣くな」とでも言うと思った。だが、こんな質問愚問だ。俺はばあちゃんが大事だ。二ヶ月ちょっとだけど、一緒に暮らした。その同居人がいなくなる。俺の年の離れた相棒。悲しくないわけないじゃないか。俺は、ばあちゃんが死んだらきっと泣く。今までの思い出を全部思い出して、ひとつひとつに涙を落とそう。
 じいちゃんは俺の答えを聞かずに、一方的にばあちゃんの命の残りの時間を告げた。
『あと一日。今日の夕方にトキを元の姿に戻す。あとは頼んでいいな、浩介』
「ああ」
 いつかは来るとわかっていた日。ばあちゃんが一〇三歳に戻る日。じいちゃんが俺に戻るときをわざわざ教えてくれたのは、俺が残りの時間、悔いなくばあちゃんといられるようにだ。俺は消えていくじいちゃんに感謝した。
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