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文字数 4,183文字

 アパートの横にある街灯の下に、小さい影と大きい影が落ちていた。顔を確認すると、小さい方の影はトキだ。大きい影は、ひげで顔がわからないボロボロの服を着た男だ。
トキがひげの生えた変質者に襲われている!
「この子から、離れろ!」
 俺はひげの男を渾身の力を振り絞って思い切り殴り飛ばすと、トキを自分の胸に引き寄せた。ひげの男は殴り飛ばされ、地面にはいつくばって呻いている。
「トキ、ごめん! 本当にごめんな! こんな恐い思いをさせて……」
 トキの無事を確認すると、怒りが更にわいてきた。男は頬をさすりながら立ち上がろうとする。俺は男の胸辺りにタックルした。今度はお互いが道路に倒れこむ。起き上がると、やっとこれで変質者を倒せたと安心した。しかし、トキを恐い目にあわせたのは俺の責任だ。俺はトキに向き合うと、もう一度目線を合わせて「ごめんな」と呟いた。
「コウスケ、何言ってるんだ?」
 トキは純粋すぎて無防備だ。今も変質者に襲われそうになったというのに、それすら気がついていない。
「ともかく、変質者は俺が倒したから。俺ももう怒鳴ったりしない。部屋に戻ろう」
「へんしつしゃ? 違うぞ、それ」
「そ、そうだ。よくもやったな、浩介」
「何で俺の名前を……」
 ひげの男はやっとの思いで起き上がり、服についた小石を払い落とす。ひげで顔がよく分からなかったが、切れ長の目に見覚えがあった。
「ま、学さん?」

 阿部学。四十歳、独身。学さんは完二伯父さんの長男で、美佐子の年の離れた兄だ。ばあちゃん――トキが死にそうだと親戚一同集まったときですら、父である完二伯父さんに呼んでもらえなかった、半ば勘当されたような人である。噂では世界一周の旅に出ていたと聞いたが、そんな彼が何でトキを襲っていたのだろう。
 あまりにも体臭がきついので、先に風呂に入ってひげを剃ってもらうことにした。一時間後、俺の貸した服を着て浴室から出てきた学さんは、ひげ姿が想像できないほど、シャープな顔立ちをしていた。
「だから、俺はこのお嬢ちゃんに、お前の部屋を聞こうとしてたんだよ。アパートの階段を行ったり来たりしてたからね」
「何で俺の部屋なんて探してたんですか」
 もしかして、ばあちゃんのことで来たのか? だとしたら、トキはもう見られてしまったからうまくごまかすしかない。
「俺、親父に嫌われてるだろ? で、新潟に帰るわけにはいかなかったのよ。それに他の伯母さんたちにもあまり好かれてないし。となると、一人暮らししてるお前の家に転がり込むのが一番かな、と」
 勝手な言い分だった。しかし学さんは俺とトキのことは何も聞かず、自分で持ってきたらしいコンビニ弁当をがつがつ食べているだけだ。ばあちゃんのことはもちろん、トキのことすら訊かないなんて、少しおかしい。その方がもちろん都合がいいのだが、黙っていられてもむしろ不気味だ。
 トキは自分の孫であるこの男をじっと見つめる。すると学さんは笑顔でトキの頭をなでた。
「このかわいいお嬢ちゃんは、いつからここに住んでるの? 俺と同じ居候か?」
「トキはそんなんじゃ……って、ちょっと待ってください! 学さん、居候するんですか?」
「あたしは居候じゃないぞ! コウスケがここにいろって言うからいるんだ!」
 三人が一気に自分の言いたいことを言うもんだから、余計話がこんがらがる。俺は一息おくと、まずトキの説明をした。
「この子は俺の父方の親戚で……」
「違うだろ、コウスケ。コウスケはうちの書生。あたしは佐藤家長女、佐藤トキだ」
 嘘をつこうとしたが、それはトキ自身の発言で無意味なものになってしまった。
「佐藤トキ? ばあちゃんの旧姓と一緒だな。それで、書生って何? お前、ここの近くの大学に通ってるんだろ?」
「そうなんだけど……」
 まずい。さっそく学さんにばれそうだ。学さんは、何を考えているかわからない節があるから恐い。人当たりはよく、多分親戚で一番俺と気が合うとは思う。でも、急に会社を辞めて世界一周したり、今日みたいに少女に声をかけていたりと、先の言動の予想がつかない。トキがばあちゃんだということをバラして、マスコミに売らないだろうか。しかも売ったあとに「その方が面白そうだったから」なんて言われてしまった日には、俺は怒りを押さえることができない。
「まあ、いいや」
「へ?」
「何か理由があってここにいるんだろ? 言いたくないことは言わなくていいよ」
 予想外の、あっさりした答えだった。学さんは生ぬるい缶ビールできゅーと一杯やっている。酔っているわけではないのだろうが、俺にしてみればそっちの方が好都合だった。
「世界を旅してみれば、深入りされるのが嫌な連中もいるわけよ。もちろん色んなわけありでね」
 そういうと、つまみのきゅうりの浅漬けを口に入れ、にやりと笑った。その笑みの裏側に、幾多の修羅場をくぐりぬけた男の顔がある。俺は、その男である学さんを信じてみることにした。
「わかりました。しばらくならここに居候してもいいです。その代わり、トキの面倒、見てやってくれませんか? 遊びに連れ出したり、食事を作ってやるだけでいいんです。俺、テスト前なのにトキの面倒見なくちゃいけないって、いらついてたから」
 本当のいらつきはそれだけじゃないのだが、この人に言う必要はない。単なる人生の旅人だ。「世の中そんなこともあるんだな」と笑って一言で終わりそうだ。
最悪、トキがこのまま元に戻らなかったら、学さんに連れて行ってもらえばいいかもしれない。一瞬、その考えが頭を掠めたが、俺は首を振った。俺が決めていい問題じゃない。そのときになったら、トキ自身に決めてもらおう。
「お、悪いな。というわけで、トキちゃん、当分の間、宜しくな」
「うん」
 元気にうなずくと、トキは漫画の続きを読み始めた。学さんも酒で気分が良くなってきている。俺は二人の様子を見ると、少し肩の荷が下りたような気がした。

「それで、今はその従兄弟のおじさんが面倒見てくれてるんだ」
 旭と俺は、テストが早く終わり、次の時間までカフェテリアで次のテストの追い込みをしていた。学さんは二十はなれた妹、美佐子がいたので、子供の扱いはかなり慣れていた。今日も自分の服を買いに行くついでに、トキの洋服も見てきてくれるという。更にありがたいことに、「久しぶりでやりたくなった」とか言って、朝から豪華な朝食を振舞ってくれたり、洗濯や掃除など家事をすすんでやってくれている。
「今日でテストも終わりだけど、本当に助かったよ」
 法律用語を何度も書き写して覚えながら、俺は呟いた。学さんがいなかったら、俺はトキをどうしていただろう。それこそ虐待までいかなくても、強い言葉でなじったり、邪魔者扱いしていたかもしれない。トキは子供であり、俺のばあちゃんだ。どっちにせよ、弱者であることは変わりない。弱いものを酷い目にあわせ、自分の憂さを晴らすなんて許されない行為だし、もしそこまでしていたならば、俺は自分自身を一生後悔し続けていただろう。トキに――ばあちゃんに思い出を作ってやるはずなのに、悲しい思いなんてさせてたまるか。いつ戻るかわからないが、トキはばあちゃんなんだ。会ったときは変質者だと思ったが、俺は学さんには本当に感謝した。

 帰宅すると、学さんがリュックサックを整理していた。床には今日買ってきたらしい服やら下着やらが散乱している。トキはというと、鏡の前でファッションショーだ。ピンクのフリルがついたワンピースを着て、何度も何度も自分の姿を確認している。
「よ、浩介。お帰り」
「学さんもありがと。トキに服買ってくれて」
「いいって」
 軽く手を振ると、リュックサックの整理に戻る。俺も自分のカバンを置いて、三人分の麦茶を注いだ。テーブルに並べると、学さんがトキを眺めていた。
「美佐子の小さい頃と重ねてますか?」
 冗談半分に言うと、学さんはちょっと困ったようにあごをさすって唸った。
「美佐子、っていうより、うちのばあさんに似てるんだよな、トキちゃんは」
 その言葉に俺は麦茶をこぼしそうになる。学さんは俺の動揺には気づかず、話を進めた。
「昼に定食屋に入ったんだけどな、俺の茶碗に米粒が残ってたんだよ。ほら、俺、そういうの気にしないから。そしたらトキちゃんが急に俺の頭を殴ってな。『お米の一粒には神様が七人宿ってる。それと農家の人の真心が詰まってる。だから、一粒も残さず食べなさい』って。昔を思い出したよ」
「昔、って?」
「俺がトキちゃんくらいの年かな。まだばあちゃんも若かったけど、同じこと言われて怒られたんだ」
 にやりと笑うと、学さんは頭をかいた。詳しくは話してくれなかったが、それ以外にも、今日一日色々言われたらしい。
「小さいばあちゃんだな、こりゃ」
 俺は学さんの苦笑いを見て、この人は何もかもお見通しなんじゃないかと思った。若返りなんて、普通の人は信じない。それでも常識はずれで風来坊なこの人だったら、「やっぱりそうだったのか」と笑って済ませそうだ。
「それはそうと、俺、また旅に出るから」
「え」
「元々パスポートの更新に戻って来てただけなんだよ」
 唐突な学さんの発言に、俺は驚きを隠せないでいた。トキもびっくりしたように目を丸くしている。
「いつ、ここを出て行くんですか」
「明日」
 来たのも突然なら、去るのも突然。それが自由人・阿部学だ。唖然としているうちにも、手馴れたてつきでどんどんリュックサックに荷物を詰めていく。何も言えないでいると、「最後に超豪華な夕飯、作っていくからさ」と、学さんは明るく微笑んだ。

 翌日。もう学校はない。テストも終わり、夏休みだ。これから一ヶ月はトキと一緒に過ごせる。またいらつくこともあるかもしれないけれど、そのときはもうひとりで抱え込まない。学さんがいなくても、旭や美佐子だっているんだ。協力を頼むことだってできる。
 旅立ちは不意だった。俺が寝ているうちに、書き置き一枚残して学さんは出て行った。

『ばあちゃんに伝えてくれ。俺はもっと器のでかい男になって帰ってくる。世話になったな』

 寝起きに、テーブルに置いてあった紙を読むと、すでに着替えていたトキが口を挟んだ。
「マナブは器の大きな男になる。きっと」
 充分大きな器を持っていると思うけど。俺は心の中で笑った。
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