ストーキング・ライダー<下>

文字数 4,820文字

そんな風にしばらく過ごして、もうすぐ春休みが始まる時期になった。
その日の夕方ちかく、偶然公園の前を通った時、おれはその自転車置き場にエージの自転車が停めてあるのをみつけた。子どもが自転車で公園に来なくなっていたので、停まっていたのはただ一台、エージ自慢のスポーツサイクルだけだった。例の事故のせいで塗装が剥げているところがあったけれど、やっぱりかっこいい自転車だった。
おれは素通りするのをやめ、中を覗き込んでみた。

「おーい。エージ?」

やっぱりエージはいた。エージはそこでサッカーの練習をしていた。自転車が停めてあるということは、乗ってきたのだろう。「乗って大丈夫なのかな?」と思った。

「あ。マサトか」

こっちに気付いてエージが手を振ってくれた。おれは少しエージと話していくことにした。

「自転車……。また乗り始めたの?」
「うん。今日から」
「それって……」

それって大丈夫なの? と聞きたかったし、聞きそうになったけれど聞けなかった。うまく言えない。おれは「追いかけてくるそいつ」のことを怖く思っていたけれど、同時にそいつにおびえて騒ぐのも恥ずかしいような気がしていたのだ。エージもまた、何か考えがあって乗ってきたのだと思う。だからそれに触れるのはやめた。

「マサトはさ、ヤマトのこと覚えてる?」

エージはつま先やかかとでサッカーボールを器用に弄りながら、そうぽつりとおれに聞いた。ヤマト。シノダ・ヤマト。3年のとき、半年間くらいだけこの学校にいた子だ。そして、エージを追いかけて転ばせた自転車にのっていたそいつは、その子の顔をしていた。

「覚えてる。どっかから転校してきて、またすぐに遠くに引っ越しちゃった子だよな。たしかエージとすごく仲がよかった」
「うん。少年サッカーチームで一緒だった」

エージは足でボールを弄りながら、何をどう話すか、慎重に考えているように見えた。

「あいつさ、おれよりもサッカーがうまくてさ。なにをやってもあいつのほうが上手でさ。おれはあいつに全然かなわなかったんだ」

エージが足で弄っていたボールを「ぽん」と膝にのせた。これができるだけでもエージはすごいとおれは思う。
おれにはこんなことはできない。休み時間のサッカー(ごっこ)に混じる時もわぁわぁ騒ぎながらボールを後ろから追いかけるのが精いっぱいなのだから。

「おれ。小さい頃は自分が誰よりもサッカーがうまいって思い込んでいたからさ。強いチームに入ったり、大きな大会に出たり、ひょっとしたらプロの選手になったり……なんて妄想していたんだけれど。あいつに会って、それは多分無理だなって気づいたんだ。ヤマトは本当に強くて、上に行って有名になるのはおれじゃなくて、ヤマトみたいなやつなんだなって。うまく言えないけれど」
「そんなこと……」
「いや。いいって。わかってるんだ。おれは『地元の有名選手』くらいが限界なのかも、って。中学とか、高校で部活に入って、地区の試合に出て……。今みたいに、みんなには頼りにしてもらえるけれど。それはうれしいけれど。それくらいが限界かもって」

エージはまたボールを膝にのせて「ぽん」「ぽん」「ぽん」と何度かリフティングした。ほんとうにうまいなぁとおれは思った。おれから見たらエージだって十分すごいのに……と思うと何も言えない。

「あいつが引っ越してから、おれ、一生懸命練習してあいつよりうまくなってやるって頑張ったんだけれど。あいつはおれ以上に頑張って、うまくなってるんだよな。おれ、実はずっとヤマトと連絡を取り合っててさ。だから今、あいつが何をしてるのか知っているんだ。あいつ、すごいんだよ。今住んでいるところの強豪チームで大活躍しているんだよ。入るのにセレクションがあるようなチームで」

あのヤマトってそんなすごい子だったんだ……。と今更のように知って、おれはますます何を言ったらいいかわからなくなった。エージよりさらにサッカーがうまい子なんて、現実離れしているとすら思える。でもある意味それは正しいのだろう。ヤマトはきっと、住んでいる世界が違う子なのだ。何かを持っている子。普通の子ではないのだ。エージにとっては残酷な話だけれどそうなのだ。

「おれさ、6年から塾に通うことになりそうで。カズヤみたいに中学を受験するわけじゃないけれど――親は受験させたいんだけれどな――それで、高校受験のために勉強を……みたいな話になっていてさ」
「うん」
「だけどおれ、塾に行っても、サッカーはやめなくてもいいんだよな? サッカーが好きなままでいてもいいんだよな?」

おれははっとしてエージを見た。その声になんとなく湿ったものが、涙の気配が滲んだような気がしたからだ。
おれは少しだけ息を呑んで、大きく吸って、吐いて、それから頷いて、答えた。

「いいと思う。それでいいと思うよ。もしエージがヤマトみたいになれなくても、エージはサッカーを好きなままでいいと思うよ」

防災無線が五時のチャイムを鳴らした。
エージは一度だけ洟をすすり上げ「やべえ。花粉かな」とつぶやきながら顔をこすった。そして「そろそろ帰らないとな」とボールを拾い上げた。
エージはボールを自転車のカゴに入れ、ヘルメットをかぶった。そのベルトを締めながらこっちを見てニヤリと笑った。

「マサトもうちのサッカーチームに入りなよ。歓迎するぜ」
「ええ? 無理無理無理。それは無理」

無茶振りをされて慌てるおれを見て「ははっ」と笑うとエージは自転車にまたがり、「じゃあ、また明日」と片手を挙げ、ペダルを踏んだ。

「頑張れよ! エージ。頑張れ……!」

走り出していくエージの背中に向けて、おれは慌てて声を掛けた。
頑張れと言っても何を頑張れというのか。サッカーを? それとも? よくわからないけれど、エージにはとにかく今「頑張れ」と伝えておかなければならない気がした。

エージがもう一度片手を軽く挙げて、おれの呼びかけに応えたのが見えた。けれどその次にはもう、エージは角を曲がり、おれの視界から消えた。
「頑張れ」「負けるな」とおれはもう一度つぶやいた。
ひょっとしたらおれはこのあとすぐエージに起こることを予感していたのかもしれない。

***

あの事故にあってから、おれはずっと考えていた。
「後ろから追いかけてくるそいつ」が、なんでヤマトの顔をしていたのか。なんでアサヒとカズヤが見た顔とちがうのか。アサヒとカズヤがそれぞれちがう顔を見ているのか。
あいつに追われて植栽に突っ込んだときにおれははっきりと思い出した。
ヤマトとサッカーの練習をしていたときのこと。ドリブルで相手を抜いて、シュートを決める練習をしていたとき、おれがヤマトの動きについていけずに派手に転んだときのこと。
思い出して、全く同じ気持ちになったのだ。こいつには勝てない、勝てないな、と。
ヤマトがチームに加わって、一緒に練習をして、友だちになって、それなのに半年ほどで引っ越してしまうこと、チームを出ていくことを知った時、おれはこう感じた。
「おれが下手だから、おれと一緒に練習していてもうまくなれないから、上を目指すために、ヤマトはよそにいくのではないか?」と。
頭では「ヤマトの家族の仕事の都合だから仕方がない」と分かっていたけれど、そう感じてしまった。感じたけれど、口にはださずに、忘れたように過ごしてきた。けれど、遠い場所でヤマトが大活躍しているという話を知らされるたびに、その思いは何度もゾンビみたいに起き上がってくる。そんなとき、親から塾の話が出た。親もおれもわかってるんだ。おれがサッカーを続けても狭い世界でしか活躍できない。広い世界を駆けていけるのはヤマトみたいなやつなんだって。それを受け入れなくてはいけないんだって。

多分。多分だ。「後ろから追いかけてくるそいつ」はおれの中から来たんだ。おれの心の中から来たヤマト。アサヒとカズヤが見たものも多分そうだ。あいつらの心の中から来た何か。あいつらを追ってくる誰かだ。
カズヤについては心あたりがある。カズヤはすごく勉強ができて、有名な受験塾に行っているけれど、そうなるきっかけは幼稚園生のころにクラスのガキから受けた嫌がらせだったと聞いている。嫌がらせをしてきたガキが「オジュケン」に成功して名門小学校に入学したとかなんとか……。アサヒのほうは良くわからない。でも多分、何かあるのだと思う。
だって、誰にでも何かはあるし、誰にでもあるなら、俺にも、アサヒにも、カズヤにもあるのだ。

公園でマサトと別れて、家に向かって自転車を走らせはじめてすぐに、おれはそいつの気配に気づいた。
ついてくる。
そいつがついてくる。
そうなることを予想した上でおれは、今日自転車に乗ってきたんだ。
おれは大きく息を吸って、吐いて……。そいつが掛けてくる圧を跳ね返すつもりで、あえてゆっくり、ゆっくり、ペダルを踏んだ。ゆっくり、ゆっくり、角を曲がった。
角を曲がるたびに背中にかかる「そいつ」の圧が重くなっていくのを感じた。けれどそこでスピードを上げてしまったら負けだ、とも分かっていた。前回と同じことになるか、もっとひどいことが起こるだろうと分かっていた。「そいつに追いつかれたら殺される」と誰かが言ったけれど、それは違うと思う。でも「狙った相手を仕留めるためにそいつは追ってくる」というのは正しいかもしれない。おれは、そいつに追いつかれまいとして怪我をしたんだから。だから、落ち着け、落ち着け、自分。
おれの家まであと少しのところまで来た。おれの家はどでかいマンションの中にある。それが見えてきた。
このマンションが建って住み始めた時、親は「こんな立派な、特別なマンションに住めるなんて!」とはしゃいでいた。おれもはしゃいだ。でもそのうちわかった。みんながわかった。このマンションに住む人みんなが同じようにはしゃいでいたってことに。本当の「特別」っていうのは「ここ」とは別のところにあるってことに。
それから何年かたって、マンションの近くに地主さんがびっくりするようなお屋敷を建てて、それを見てみんな急に冷静になったのだ。みんな「特別」をほしがるけれど、それを手にするのは難しいってこと、いまではよくわかる……。

おれとそいつはマンションの周りにある歩道までやってきた。前回はここで「やられた」。縁石に乗り上げて、転んで植栽に突っ込んだ。じゃあ今回は?
ブロックを敷き詰めて舗装した道が、公道のアスファルトとは違うがたがたした感触を自転車に伝えてきた。おれは自転車のスピードをさらに落として、そのまま止めた。
その瞬間「そいつ」の圧が直接背中に張り付いたような感じがあって、俺は息がつまり、心臓は止まりそうになった。けれどそれは一瞬のことだった。そいつはおれをすり抜けていった。その後ろ姿をおれは見た。やっぱりそれはヤマトの後ろ姿に似ていた。こちらを振り返ることもなく走り去って行くその背中。黒い自転車……。

「どこまでも行けよ、ヤマト」

おれはおもわずそう呟いていた。どこまでも行けよ。どこまでも、どこまでも、行けるところまで行けよ。おれも、おれのまま、おれの行けるところへ行くよ。
春へと季節を切り替える夕方の風が吹いた。その風に、夕闇の中に、その自転車は溶けるように消えていった。
おれはそれを最後まで見送った。

***

これが、あの日、おれと別れたあとにエージが経験したことらしい。
このことについて、エージはこう言った。
「ケリをつけてきたから、もう大丈夫」
大丈夫だ、とアサヒとカズヤの目を見て言った。
春休みが始まり、新年度が始まるころには、もう、自転車に乗る子どもたちの姿が町に戻っていた。
誰からともなく乗り始め、何があって自分たちが自転車に乗らなくなったのかも忘れていった。
エージは塾に行き始めた。でも塾のない日は相変わらず公園でサッカーの練習をしている。その姿をおれはたまに見かける。
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