美鈴(ベル)の完璧な世界⑱ 

文字数 4,487文字

それでものすごく落胆したのが父さんだった。わたしのIQが分かった時にすごく喜んでいた父さん……。「父さんにはわかってた。みどりが本当はどういう子か。俺たちを馬鹿にしていたやつらをこれから見返してやろうな」とか言って。「俺“たち”」……どういうことだろう? 父さんにもわたしと似た経験があったのかもしれない。
ともかく今は「馬鹿にしていたやつらを見返す」どころではなくなってしまった。でもそこで母さんが動き出した。「進路をどうするにせよ、みどりをこのままにはできない」「みどりは今の学校には受け入れてもらっている。でもこれから先、今回起きたのと同じことが起こるかもしれない。その前に」とカナ先生の「学習教室」にわたしを連れて行ったのだ。社会スキルの教室での知り合いから教えてもらったという。個人経営の小さい教室だけれど、先生の指導力は本物で、特に「癖の強い子」に教えるのがうまいという。父さんは嫌がった。個人でやっている小さいところなんて信用できないと。でも母さんは譲らなかった。「今みどりに必要なのものは、あなたが言うようなものじゃない」ってはっきり言った……父さんとたたかう母さんを見たのは初めてだった。

結論から言うと、カナ先生の教室に行って全てが変わった。母さんの意見を聞かなかった父さんも最後は折れた。感謝している。

最初にカナ先生と会ったときのことを覚えている。
カナ先生の教室は先生が住んでいる家の1階。1階全部が教室で、そこに子どもたちが集まり、先生は2階で暮らしている。「昔のそろばん教室みたい」というのは母さんの感想。わたしは昔のそろばん教室がどういうものか知らない。はじめ、教室のどこにカナ先生がいるのかわからなかった。小学生から高校生くらいまで、年齢がバラバラの生徒たちが机に向かってめいめい勉強をしている。その間をぐるぐる動きまわってアドバイスをしている人がふたりいた。ひとりは大学生っぽい男の人。服装はTシャツにデニムのパンツ。髪はちょっと長くて後ろで縛っている。もうひとりは、一瞬子どもかと思った。身長がわたしと同じくらいだったから。けれどこっちを振り向いて、ニッと笑った顔がおとなだった。「おとな」。これまで出会った人たちの中で、一番の「おとな」。そういう顔をしていた。それがカナ先生だった。

「大体の話はお母さんから聞いています。大変な思いをしたみたいだね。しばらくここに通って体験してもらって、気に入ったら続けることにしよう。大事なのは、どんな時どんな場所でも学びを手放さないことだからね。ここが気に入ればここでいいし、気に入らないなら別の場所でいいし」

カナ先生は母さんより年上のようで、でも身長はわたしと同じくらい。からだの大きさは子ども、髪型も子どもみたいなおかっぱ、でも中身はおとな。おもしろいな、と思った。この先生はおもしろい。

「この教室では一斉授業はしません。いろんな年齢の子が集まっているからね。私とアシスタントがみんなの席を回ってそれぞれの勉強の手伝いをするよ。このスタイルはあなたが通っていた個別指導に近いかな? でもうちはああいうふうにピッタリはりつくわけじゃなくて、自分で学ぶんです。寺子屋っぽいかも。――あなた寺子屋は知っている? ん、名前だけなら? 寺子屋は江戸時代にあった、子どもたちが読み書きや計算を学ぶ場所ね。大きい子も小さい子も同じ教室に集まるから、それぞれ学ぶことが違うのね。うちと似ているでしょ? 学びの進め方についてはサポートするから安心して。もちろん質問があるときは遠慮せずに。でもそのときは順番を守るのがルール。割り込みは禁止。どう? 大丈夫そう?」

わたしはうなずいた。今までと違う何かかが始まる感じがした。カナ先生も「うんうん、まずはやってみよう、でないと何にもわからない」とうなずいた。

「今日来てくれているアシスタントの兄さんはユーシ君って言うんだけれどね。彼はこの教室の卒業生。小学校、中学校と学校に行かないことを選択して、その間ここには来てくれて、通信制の高校から大学に入って今は院に行ってます。理系の何かすごい研究をしているみたいだから、興味があったら話を聞いてみるといいよ。私にはよくわからないんだけれどさ」

「ユーシ君」がこっちを向いて「あ、どうも」と頭を下げた。

「ユーシ君に限らず、頭が良くて学ぶ意思はあっても学校に合わない子はいるね。学校に背を向けて自分の好きな勉強を自由に進めている子とか。
「そんな訳で、頭がいいから成績がいいわけでも、有名な学校に行くわけでも、行けるわけでも、行かなきゃいけないわけでもないんだな。逆もまたしかり。自分の頭に合わせて自分がどうなるかを決めなきゃいけないってことはない。合わせなきゃいけないのは自分のハートよ。
「そもそも頭の良さってなんだろう。単純なものじゃないと思うね。――ええと、あなたは今は学校には行けてるんだっけ?」

「はいッ!」
弾かれたように返事をした。自然に大きな声が出て、自分に驚いた。こんな風に返事をするのは生まれてはじめてだ。わたしの目と同じ高さにある先生の顔を見て、先生が話していることを聞いて、ここだ、これだ、この人だってわかったからだ。ここは、この人は「普通」じゃない、だからわたしにはちょうどいい。そうしたらわたしの中にあった固いものが外れたんだ、パンッて音を立てて。それがそのまま声になった。
カナ先生は「ワーオ、良い返事」と目を丸くした。隣にいた母さんも驚いてたな。

「今もこれからも、行きたくて行けるなら、行くほうがいいね、学校は。ユーシ君も言ってたよ。『大学にはスゲー奴、ヤベー奴らがゾロゾロいた』『俺、割とフツーの方だった』ってさ、そこからユーシ君の青春が始まったんだよね。
「この通り、ひとりでいたんじゃわからない世界があるからさぁ、学校は死ぬような思いで行く場所じゃないけれど、そうでなきゃ行くのはオススメよ。あと学びはやっぱり大事ね。苦手なことや誰かの悪意から自分を守るために、ちょっと我慢して学んだり、学校に通ったりすることは生きていく上で必要だね。これは私の経験から――」

「先生、話がなげーっす」
ユーシ君がカナ先生を呼んだ。カナ先生がわたしと話している間、一人でみんなの相手をしていたのだけれど、そろそろヤバくなってきたらしい。

そしてわたしはこの教室に入った。体験の期間が終わる前に入室の手続きを済ませた。だって決めていたんだ。カナ先生に会った時「この人の言うことを聞こう」って。わかったんだ「わたしはこの人の言うことならば聞くだろう」って。だって、カナ先生は普通じゃなかった。そこが良かった。それに、カナ先生はアサヒさんと同じ服を着ていたから。見た瞬間にわかった。先生が着ているのはアサヒさんがいつも着ているのと同じメーカーの服だ。からだの小さなカナ先生にぴったりの子ども服だ。先生に確認したら、その通りって笑ってた。

「クラスのアサヒさんが同じのを着ているんです」
「へえ、アサヒさん」
「アサヒさんは、毎日休み時間に一緒に絵を描いたり、学校から帰ったりする子です」
「へええ、一緒に絵を描いたり、帰ったり、それは楽しそうだね」
「アサヒさんが着ている服はいつも、先生が着ているのと同じです。同じメーカーの子ども服」
「はっは! すごい! あなた、よく観察しているのねぇ! そう。私はあのメーカーの子ども服を愛用しています。だって私にぴったりなんだもん。」

先生は笑いに笑って、じっとわたしの目を見た。わたしは目を見たり見られたりが苦手で、すぐ逸らしたくなる。でも大丈夫な相手も何人か。父さん母さんは大丈夫。親戚は祖父だけ大丈夫。アサヒさんも大丈夫。アサヒさんと仲がいい“サラちゃん”と、担任の先生と保健室の先生はちょっとだけ大丈夫。そしてカナ先生、この人も大丈夫だった。

「そのアサヒさんっていうのはみどりさんの友だちなのかな?」

ともだち?

わたしはぽかんとした。それで逆にカナ先生にきいた。

「えっ? そうなんですか? アサヒさんはわたしの“友だち”なんですか?」
「あら……? むむ……?」
「わたしには“友だち”ができないんです」

あなたは”友だち”ができない子だと、最初に言われたときのことは忘れない。幼稚園生のときに担任の先生からそう言われた。「みどりちゃん、あなた、“おともだち”の気持ちを考えられるようになろうね。これをされたら嫌だ。これを言われたら悲しい、何がいいことで何が悪いことかっていうのを考えようね。泣いたり暴れたりしないで、自分の気持ちをことばで伝えられるようになろうね」「このままだと“友だち”がいなくなってしまうよ」「“友だち”ができなくなるよ」。
幼稚園の先生は“おともだち”という言葉と“友だち”という言葉を使い分けていた。“おともだち”っていうのは近くにいる子どものことを指すんだ。そこにいる、特に誰ってわけじゃない子を指すときに使う。あの頃からそれはわかっていた。

わたしは結局あの後変われなかったから、“友だち”はできなかった。わたしのまわりには“おともだち”しかいなかった。自由遊びの時間はいつもひとりで、砂場に穴を掘って化石の発掘を想像していた。他のみんなは”友だち”と遊んでいたけれど、わたしには誰も近寄らなかった。
小学校に入ってからもそれは変わらない。アサヒさんが休み時間にわたしと一緒に絵を描いてくれるようになったけれど、わたしは“友だち”ができない人間なのだから、アサヒさんも“友だち”ではないだろう、親切な“おともだち”の一人には違いないけれど。
わたしはそうカナ先生に説明した。カナ先生は頷きながらうんうんと話を聞いて、「私はこう考える」と、こう話してくれた。

「誰が誰のどんなところを好きになったり嫌いになったりするかなんて、誰と友だちになりたいかなんて、他の人からはわからない。幼稚園の先生は、あなたに友だちはできないって言ったようだけれど、その後あなたがどう変わって、どんな人と出会うかなんて、その先生にわかるわけがない。だからあなたにアサヒさんという友だちができるのは、ありえないことじゃない。大アリなのよ」

わたしはまたぽかんとした。友だち、アサヒさんは友だち。そんなわたしを見て「仲良くなさいよ、アサヒさんと」とカナ先生は笑った。

友だち、そうか、そうなんだ、わたしにとってアサヒさんは友だち。生まれてはじめてできた、友だち。物語文を読むと必ず出てくる謎の存在。それがわたしにもいたんだ。物語文には「友だちを大事に」とあったから、アサヒさんのことを大事にしなきゃいけないと思った。大事にするってよくわからないけれど色々頑張った。アサヒさんのことを教えてもらったり、自分のことを話したり。誕生日にカードを渡したり。夏休みにアサヒさんのピアノを聴きに行ったのもそのひとつ。お花を持って、苦労して身だしなみを整えて……。

でもわたしは裏切った。友だちを裏切った。裏切った後でそれに気が付いた。



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