アサヒ・リヴァイヴ、あるいは子犬たちのワルツ①

文字数 2,575文字

“Let it be!”
“Go for it!”

隣家の玄関わきの窓には、ポジティブな雰囲気の英文を並べて印刷したポスターが貼ってある。「これ、何?」とアサヒはそれを見るたびに思う。「意味不明」と。最初に見たときは「何か貼ってある」くらいにしか思わなかった。よくある「ポスティングお断り」の貼り紙かな? と。でもその数日後、少し近寄って見たらそういうものだと分かった。「ええ?」と思って見入っていたら、その家の中から怒声が聞こえたので慌てて離れた。その声がアサヒに向けられたものかどうかは分からなかったけれど、とにかくこういう時には離れるのが正しい……。
あのポスターの下にはヒビ割れがあるのをアサヒは知っている。ポスターは窓のヒビを隠すために貼っているんじゃないかと思っている。そしてその想像は当たっている。
ここ2、3年の隣の家の状況はホントにおかしい。と、アサヒは思う。おかしいって言葉じゃおさまらないわ、いかれてる、とも。
隣の家は(主に父親が)怒鳴り声で会話する家族だった。父親と母親、男子三人の五人家族“だった”。けれど今は上の男子二人と母親は家を出て、父親と末っ子の二人きりだ。そして三匹の犬。

かつて隣の家族はよく喧嘩をしていた。基本は口での喧嘩。父親と息子、あるいは父親と母親の間での喧嘩が毎日のようにあった。
けれど怒鳴り声の応酬だけでは済まないこともあった。窓のヒビもそれでできた。隣家の父親は「ここは俺の家」という意識が並外れて強いようだった。だから家族と揉めても自分は家を出ない。父親が「出ていきたいなら勝手に出ていけ」と啖呵を切るのをアサヒは何度か聞いたことがある。「俺の家」が何よりも大事なのだ。
だから子どもたちは父親ではなく「家」に反撃をして父親にダメージを与える戦術を覚えた。つまり家のどこかを壊すのだ。隣の家の子どもたちは男子が三人。三人揃ってフィジカルが自慢だったので、やるときはやった。これは効果てきめん、父親は狼狽して、その時はおとなしくなった。けれどその戦術は長く続けられなかった。父親は「家」が大事なので壊された場所はその都度工務店を呼んで修理する。それがかなりの出費になった。もうこれ以上は家の修理にお金を掛けられないというところまで来た。そんな状況で家を壊し続けたら、ボロボロのあばら家に住むことになる。子どもたちもさすがにそれは嫌だったらしい。だから玄関の窓ガラスのヒビは、子どもたちが父親に与えた最後の一撃、その名残というわけだ。

けれどそれも今年の春に終わった。隣家の男子たちのうち、上の二人が相次いで家を出たことがきっかけだった。一番上は就職、二番目は高校に進学。母親は二番目の子と住むことになった。そうなると家に残っているのはあの父親と、アサヒの一つ下の子だけということになる。父一人、子一人の生活……。末っ子が家に残った理由は想像するしかない。家を出ていく家族の負担になりたくなかったから? 地元の友達と離れたくなかったから? あるいは、結局兄弟の中で一番父親から可愛がられていたのが自分だったから? そのどれか、あるいは全部……。
末っ子はアサヒと同じ小学校に通っている男子だった。学年は違うけれど、校内で見かけることはある。向こうの家の状況を知っているから正直気まずいけれど、知りあいだから無視できないし、軽く手を挙げて挨拶くらいはする。けれどだいたい(こっち見んな)という表情で睨まれる。辛すぎ。多分向こうの方がもっと辛いのだとは思うけれど。それはじゅうじゅうわかっているのだけれど。

隣家は五人家族向けの立派なつくりだったので、それでいきなりがらんとしたようだ。その隙間を埋めるように父親は犬を飼い始めた。まずは一匹。そのうち、二匹、三匹。いわゆる多頭飼いになっていた。去って行った家族の数と、やってきた犬の数が同じというのは単なる偶然だろうか? 
飼い始めた犬はどれも小さいが、だから世話が楽だというわけではない。食事や身の周りのケアが必要なのは当然ながら、朝夕二度、三匹の犬を引き連れての散歩をしなければならない。この散歩の光景はなかなか壮観で、医療ドラマで見かける「ナントカ教授の総回診」を思わせた。もちろんこの場合の「教授」は「父親」だ。しかも父親のビジュアルときたら「昔はやんちゃでした」「一生落ち着くつもりはありません」と自己紹介をしているかのよう。奇抜な形にそり上げた髪は金髪で、髭も手間のかかったデザインだ。正しく鍛えた筋肉はまるで格闘家のよう。いつもそれがはっきりとわかる服装をしている。やんちゃ系「教授」の足元をちょこまかと走り回る三匹のふわふわ。道で出会えば誰もが振り返る。振り返って二度見するほどのインパクトがある。

犬が家に来てから父親が家族に怒鳴ることは減った。怒鳴る相手が減ったのだから当然かもしれないが、家に残ったただ一人の子どもも、父親と争わなくなった。でもそのかわり犬たちに怒鳴るようになった。たとえば、犬たちがめいめいに吠えて収集が付かなくなった時などに。怒鳴れば不思議と犬たちはおとなしくなるようだったが、それは犬たちに父親を「圧倒的に強い、群れのボス」と認識させることに成功していたからだろう。
ただ、犬たちはいつも周りが不安になる鳴き方をしていた。変に甲高い声で鳴いていたのだ。それを父親が叱って黙らせる。犬相手に粗相を問い詰めていたこともある。また、毎日犬たちにさせる散歩のうち、夕方の一回を末の息子が担うようになっていた。子どもの力で一度に済ませるのは無理なので、複数回にわける。友だちが遊びに誘いに来ても、犬の世話や散歩を理由に断るようになった。子どもの生活が、父親が増やした犬に縛られている。

父親が意外にマメなのか、あるいは家の中の雑多なことを外注する経済力があるのか、末っ子の見た目がみすぼらしくなることはなかった。父親も以前通りの姿をしていた。何も知らなければ何も問題は起こっていないように見える。父一人子一人でとてもうまくやっている。けれどアサヒがいる場所からは「それ」が見えてしまう。「それ」、つまりどうしようもない不穏さが。家族が全員揃っていたときよりも少し静かになったけれど、ふとしたきっかけで何かが起こりそうな危なっかしさが増したことが。
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