アサヒ・リヴァイヴ、あるいは子犬たちのワルツ②

文字数 1,935文字

朝、隣家の父親がバイクに乗って出勤していった。
彼は外国製のゴツいバイクのオーナーでもある。エンジンを入れるとあたり一帯に轟音が響きわたるバイクだ。彼は週に一度くらいバイクで出勤する。自由な働き方ができる人で、多分相当に羽振もよいのだ。
アサヒはそのバイクの音を聞くのが本当に嫌だ。怒鳴り声を聞くのと同じくらい嫌だ。以前と比べて怒鳴り声は減ったが、バイクの音は減らない。エンジンを入れた後、すぐに走り出してくれる時はまあいい。けれど機嫌が悪いと長い間エンジン音をあたりに響かせながら、あれこれと家族に指示をしてから走り出す。しかも朝早くに。これが辛い。多分これは近所の人たち皆が嫌だと思う。けれど誰も何も言わない。それはどうしてかと以前お母さんに聞いたら、

「こういうのって警察に相談できることじゃないのよね。民事不介入っていうんですって」

そう言ってため息をついていた。相手の人柄はこのご近所一帯に知られている。もし争えばどうなるかというのは誰でも分かる。過去にはうっかり注意した人が逆に怒鳴られ威圧され、やり込められて嫌な思いをしたこともあった。そういえばアサヒも、そのやりとりの一部始終を聞いた。やり取りが拗れて、警察を呼ぶ直前まで行ったことを覚えている。そして、こっそり家の中から様子を伺ったアサヒまで「何見てンだ!」と怒鳴られたことも……。
それ以降は皆が以前にも増して、彼らと距離を置くようになった。そういう経緯もある。

「あの家族に引っ越してもらうことはできないの?」
「駄目よ。お隣さんにも『住む権利』があるから。この環境が嫌なら、私たちが引っ越すしかないのよ」
「わたしたちは引っ越せないの?」
「買った家だから、そう簡単にはいかないのよね」

この家はアサヒが小学校に上がるころに中古で買った家だった。アサヒの家には当時、どうしてもこの地域に家を買わなければならない事情があった。そんなタイミングで、相場よりも安めの価格でこの家が売りに出ていた。所有者が二度三度と変わっている物件だというのが少し気になったけれど、必要だったので買った。今から思えば、以前この家に住んでいた人たちは、この環境が嫌になって、自ら離れた人たちなのではないか? けれど、アサヒの家が同じことをするのは難しいらしい。
何だか不公平な話だと思う。アサヒはピアノを習い続けている。アサヒは別にピアノがうまくはないし、将来は音楽の道に……なんて一ミリも考えてはいない。けれど、ピアノが好きだから、もう少しの間レッスンに通おうと思っている。小学校の最後の夏の発表会で「子犬のワルツ」を弾いて教室を卒業する予定でいる。それに向けて練習している。教室だけでなくもちろん家でも練習をする。
でもアサヒは、そしてアサヒの家族は、ピアノの音で近所に迷惑をかけてはいけないと思っている。だから家にあるのは電子ピアノだ。それにヘッドフォンをつないで練習している。ピアノを習い始めた時からずっとだ。たまにはヘッドフォンを外して音を鳴らしてみたいと思うことがある。でもしない。できない。
それなのに……、こっちは遠慮して、皆に迷惑を掛けないようにしているのに、どうして隣家は? と思うとやりきれないほどの不公平感にさいなまれる。でもどうしようもないのだ。自分も、自分の家族も隣家のようには振舞えない。
どうしようもなく嫌でもやり過ごさなくてはならないことはあることをアサヒは学んだ。不公平は当たり前にあって、それを受け入れなければならないことも。耳を塞ぎ、目を閉じ、口をつぐんで得られる平和は確かにある。

ただ、それはアサヒを蝕んでもいた。隣家の振る舞いを見聞きするたびに、彼女は人の怒鳴り声や大きな音を聞くことが本当に苦手になった。ついでにそのような音を立てる「男性」に対して恐怖感を持つようにもなった。
その恐怖が奇妙なものを呼び寄せたこともあった。周囲の子どもたちに「子どもが運転する自転車を狙ってついてくる自転車」のうわさが拡散した。「その自転車は人けのない道で、子どもが運転する自転車のあとをぴったりつけてくる。じわじわと後ろから圧をかけながら」。アサヒはそれと遭遇している。奇妙なのは、その自転車を運転している奴の顔が、出会った子どもによって違うことだった。アサヒが見た顔は「はっきりとはわからないが男の人」だった。アサヒのクラスメートは別の顔を見た。どこかから「それ」は、子どもたちの内側から追ってくるものの顔をしていたのだと思う。
その奇妙なものは、アサヒのクラスメートが追い払ったけれど、アサヒ自身の、また隣家の問題が解決したわけではない。

アサヒの問題は続く、彼女が自身の力でそれと決着をつけるまで。隣家もまた、そうだ。
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