トンネルのつながる先Ⅱ<下>

文字数 6,588文字

決行は8月16日。あの世からこの世にやってきた人たちが、またあの世に帰っていく日だ、とアッキーは言った。
そして、その時立ち会ってほしいとおれに頼んだ。自分がちゃんとこっちに帰ってこられるようにトンネルのこっち側で待っていてほしいと。
他の子には言わないでくれ、とも頼まれた。色々な人に知られると向こうの世界へつながる道が閉ざされてしまうような気がするから、とのことだった。
これはアッキーの妄想で、8月16日は何も起こらず終わるに違いない、という気がおれはしていた。なのに、それを一人で抱え込むのはつらかった。こわかった。
そこでおれはジン君に相談した。公園遊びで一緒になった日、夕方になって帰る前に呼び止めた。
ジン君はアッキーのことを心配していたし、なによりジン君自身が普通でないことを経験しているらしいからだ。小2のとき、ジン君が知らない人に連れ去られそうになったのをどう切り抜けたか、それをおれはジン君から知らされている。その切り抜け方が、普通の方法ではなかったことも。ジン君の語ったことが本当ならばジン君はすでに「別の世界」と深く関わっていることになるから、アッキーの問題を真剣に受け止めてくれるという気がした。
その想像通り、ジン君はおれの話を真面目に聞いてくれた。そしてこう言ってくれた。

「16日はおれも立ち会う。何もないとは思うけれど、仮に何かあっても必ずアッキーはこっちの世界に戻そう」

“何があっても必ずアッキーはこっちの世界に戻そう”。
ジン君とはそう約束をしたけれど、「何か」なんて本当に起こるのだろうか。そもそも「何か」が起こったとして、その時は何をすればいいのか。
そんなことを考えながらおれが家に帰ると、三つ下の妹がリビングのソファーに三角座りをして「ギリシャ神話」の本を読んでいた。えんじ色の表紙の本だ。妹はこの夏休みの間じゅうこの本を読んでいた。あまりにずっと読み続けているので内容が気になり、本が妹の手を離れたときに、おれも読んでいた。
ふと、おれはその中にあった物語をいくつか思い出した。雷が落ちるように、今のおれに必要な物語を。

死人たちの世界に降りて行った竪琴弾きの話。
ダンジョンの奥深くで飼われている牛のモンスターをヒーローが倒しに行く話。

「あっ。マサトが帰ってきた。この本、もう勝手に読んじゃだめだからね」

おれが帰ってきたことに気付いた妹が、持っていた本を閉じて背中に隠しながら念押しをした。
別にもう読まないよ。とおれは答えた。書かれていることで必要なことはもう、覚えた。

「その日」まで、ためらいながら進むかのように時間が流れた。8月の第2週に差し掛かる頃には、陽射しの具合も変わってくる。季節の切り替わりを予告するかのように、キラキラした明るさは枯れてくる。それはまるでうなだれるヒマワリのようだ、とおれは思っている。そして夏の前半には吹かなかった強い風が、公園の木々を揺らすようになる。雲が大きく流れ、ざわざわと梢が音を立て、目に映る風景を変えていく。

8月16日の午後、公園にやってきたのはアッキーとおれ、ジン君だった。お盆の最後の日だからだろうか、他には誰もいなかった。アッキーは、呼んだ覚えのないジン君がここにいるので「どうして……?」と困った顔をした。それでジン君はうんうん、とうなずいて、こう言った。

「アッキー。おれはこう思う。アッキーがトンネルの向こうからおばあちゃんの声を聞いている時……多分、多分だけれど。あのトンネルは『アッキーのおばあちゃんが生きている世界』につながっているんだ」

そして、「運命って簡単なことで変わるみたいだからさぁ……」ともつぶやいた。これはジン君の実感だろう。いくつもの運命の枝分かれを行き来して危機を乗り越えたジン君の経験から来る実感。

「トンネルから声が聞こえた時がチャンスだと思う。そこにつながるチャンス」

アッキーはこくこくと頷いた。ジン君がアッキーの考えを笑ったり否定したりせず、真正面から受け止めてくれていることが、アッキーに伝わったからだと思う。

「その時」がやってくるまで、おれたちはトンネルの向いにあるブランコに腰掛け、適当に揺らしたり、持ち寄ったおやつを食べたりして過ごした。そして互いにとりとめのないことを話した。ジン君がSWITCHを持ってきてくれていたので、交代で遊んだ。
8月中旬の午後は暑く、公園の前の道路を通る人もまばらだ。蝉の鳴き声の他はなにも聞こえない。時々近所の家からピアノの練習をする音(誰が弾いているのかわからないけれど、うまくはない)が漏れてくるくらいだ。ブランコが木陰に設置されていたのは幸いだった。
アッキーはときどきトンネルの様子を見に行った。行って、戻って……を何回も繰り返した。
「声」は聞こえないまま午後は過ぎ、日は傾き始めた。
公園の時計を見るともう4時を過ぎていた。SWITCHのバッテリーは大分減ってしまった。アッキーの口数もどんどん少なくなった。おれは、そんなアッキーがかわいそうでもあり、けれど何も起こりそうにもないことにホッとしてもいた。
おれとジン君はどちらからともなく顔を見合わせ、何と言葉を掛ければアッキーの気持ちに区切りをつけてあげられるか、相談するように目くばせをし合った。もうあきらめろというのは残酷だ。なら、もうちょっと待ってみようというべきか? いや、でも、一体いつまで待てば「声」は聞こえるのか? 待っても待っても聞こえないかもしれない。じゃあ、今回が駄目でも次があるよと言おうか? 次の春にもお盆はあるよ、って。いや、それも何か違う……。多分それは、アッキーが望んでいることが起こるのは、今じゃなきゃダメなんだ。今、この時に起こらなければダメなんだ。

その時、沈んだ表情でブランコを揺らしていたアッキーがはじかれたように顔を上げた。
ブランコから飛び降りてトンネルに駆け寄った。
「聞こえる、聞こえるよ。来て! 早く!」
おれたちも慌ててトンネルに駆け寄った。中を覗く。覗いた先に見えるのはトンネルの反対側、いつも通りの公園だったけれど、耳を澄ませば確かに「声」は聞こえた。ジン君とおれにも聞こえた。

(アキ君。おばあちゃんはこれからスイカを買いに行くから、おうちで待っていてくれる? すぐに戻るから――)

おれたちは顔を見合わせた。確かにおばあちゃんの声は聞こえた。しかもそれだけではない。

(わかったー! じゃあ今日はここまでにして帰るね。みんな、バイバイ!)
(またなー)
(おれたちもそろそろ帰ろうぜ)
(バイバーイ)
(じゃあな)

おれたちの声も聞こえてきた。アッキーが言っていた「おばあちゃんはトンネルの向こうにいる僕と一緒に夏休みを過ごしている」というのはこのことだったのか。その夏休みをおれたちも一緒に過ごしているのか。

アッキーがこっちを見た。そして「行く」と言って、トンネルにもぐりこんだ。
おれは急いでブランコに駆け戻り、おやつを持ち込んだポリ袋の中からビニール紐の玉を取り出した。古新聞を束ねたりするやつだ。そして、紐の玉から伸びた端をジン君に持ってもらい、本体はおれが持った。

「おれはアッキーと一緒にトンネルの向こうに行く。アッキーを必ず連れて戻る。ジン君はここでこの紐を持っていて。絶対に放さないで」

そしておれもアッキーを追ってトンネルをくぐった。そのときの時刻はまもなく五時。防災無線が夕方のチャイムを流し出す少し前くらいだったと思う。
アッキーを追ってトンネルを抜けた先は公園だった。トンネルを出る時、ほんの少し体にぐらりとした感覚があったのを覚えている。月曜の朝礼で校庭に立っているときになるあれだ。おれはそれに引きずられないように気持ちを立て直し、少しだけ先にこちらに出ていたアッキーと一緒にあたりを見回した。そこはおれたちの良く知るいつもの公園に見えた。ただ、元いた場所よりも少し暗くなっていて、トンネルをくぐっている間にこちら側では少し時間が進んだような感じがした。
おれはビニール紐の玉をぎゅっと握りなおした。紐の先端はトンネルの中に向かって延びていた。向こう側はどうなっている? でも、ぐるりと移動してトンネルの向こうを見ようとしても、見えない力で通せんぼをされているようで、うまくいかない。無理にやろうとすると、ぐらりとするアレが来る。
何だ。ここは何だ。すごく変だ。変な場所だ。
おれは気分を落ち着けようと深呼吸をした。そのとき

「おばあちゃん!」

となりにいたアッキーが声を上げた。アッキーの視線の先にいたのは見慣れた姿……自転車に乗って買い物から帰ってきたアッキーのおばあちゃんだった。自転車のカゴにはスイカが入っていた。

「アキ君、こんな時間に公園に出てきて、一体どうしたの? マサト君まで一緒で」

公園の入り口に自転車を停め、おばあちゃんがこっちにやってきた。
元気だったころの姿そのままのおばあちゃんがそこにいた。
アッキーがこらえきれずに泣き出したのがわかった。

「あら、アキ君どうしたの? 何で泣いているの? マサト君、何があったのか知っている?」

おばあ ちゃんはそれはびっくりして、アッキーを宥めたり、おれから事情を聞きだそうとしたり……その様子は、元気だったころ俺たちに世話を焼いてくれたおばあちゃんの姿そのもので……おれも鼻の奥がツンとしてきた。そうだよ。おれもアッキーのおばあちゃんのことが好きだったんだ。
そのとき、公園の外から「おばあちゃーん」と聞きなれた声が響いた。聞きなれた……アッキーの声。きっと「こっちの世界のアッキー」だ。おばあちゃんは「あらら?」という表情で、「おれの隣にいるアッキー」と、「こっちの世界のアッキー」の声が聞こえてきたほうを交互に見た。おれはぞわりとした。トンネルを出た時と同じ、ぐらりとする感覚に襲われた。これは「ヤバイ」と理屈抜きでわかった。アッキーとアッキーを出会わせてはいけない。そんな気がした。それをやってしまったら、すごく怖いことが起こってしまうのではないか。隣のアッキーもそれを感じ取ったたようで、しゃくりあげるのをやめて身を固くした。

「すみません。もう遅いし帰ります! アッキーももう大丈夫です! ありがとうございました。本当にいろいろありがとうございました!」

おれは咄嗟にそう挨拶をして、トンネルの中に戻るようアッキーをぐいぐい押してうながした。
おばあちゃんは「帰る」というのにトンネルに入っていこうとしているおれたちを見て「あなたたち一体なにをやっているの?」という表情になったけれど、おれたちにはそれについて取り繕ったり、もっともらしい言い訳をしたりしている時間なんかない。
アッキーは、おれにぐいぐいと土管トンネルの中に押し込まれながら、言った。こっちに来ておばあちゃんに会おうと思いついたその日から言おうと決めてあっただろうことを言った。

「おばあちゃん。僕、一人でもちゃんと夏休みを過ごしているよ。宿題も自習もちゃんと午前中に終わらせて、昼はお母さんが作ったお弁当を食べて、午後はみんなと遊んでいるよ。頑張っているよ」

つらい。
こんなことを言っても、こっちのおばあちゃんには何のことだかわからない気がする。アッキー・も多分そのことは、おばあちゃんに通じないことは分かっている。それでも言わずにはいられなかったのだと思う。

「おばあちゃん、ありがとう。おばあちゃんと過ごした夏休みは楽しかったよ。ずっと元気でいてね――」

アッキーを土管トンネルに完全に押し込んで、おれもそれに続いた。このトンネルを這って、元いた世界にもどるのだ。速く。速く。
けれどそのとき後ろからアッキーを呼ぶ声が聞こえた。おばあちゃんの声だ。

アキ君! アキ君!

当たり前だけれどアッキーは振り返りそうになった。おれは「だめ。だめだよ」とそれを止めた。振り返りかけた顔を力いっぱい手のひらで押し返した。「振り向いたら戻れなくなるよ!」と。妹の読んでいたギリシャ神話の本にあった。あの世から戻ってくるときには、決して振り返ってはいけないという話が。さっき見た世界は「あの世」ではないかもしれないけれど、振り返ってしまえば元の世界に戻れなくなるのは同じかもしれない。
アッキーは泣いていた。見えなかったけれど顔は涙と鼻水でぼろぼろだったと思う。
なんて切ないことだろう。こんなときに振り返ってはいけないというのは。
おれはしゃくりあげるアッキーを肩で押しながらビニールの糸玉からのびた紐を辿り、トンネルを四つん這いで進んだ。これも同じ本にあった。入ったら戻って来られないほど複雑なダンジョンから脱出する時には糸玉を使うのだと。
おれは信じた。信じながら祈った。このビニール紐の先が、元の世界で待っているジン君につながっていることを……。信じて、祈って、祈って、信じた――。信じて、進んだ――。

――。
遠くから蝉の声が聞こえてくる。
瞼の裏に西日のオレンジが焼け付くようだ。
誰かが肩をおれの肩をゆすっている。
ハッとして目がさめた。
目の前にはジン君がいた。おれの肩をゆすっていたのはジン君だった。隣にはアッキーが。おれとアッキーは土管トンネルが埋まっている小山にもたれるように座り込んでいた。アッキーは寝起きのような顔であちこちをきょろきょろと見回し、ジン君はおれが渡したビニール紐の端を握りしめている。ビニールの糸玉の本体はしっかりおれの手の中にある。

「えーと……」

おれは一体何がどうなったのかを知りたかった。おばあちゃんと会って、向こうの世界を後にして、ビニール紐を辿ってトンネルを進んだあと、今ここに座り込むまでの間に何があったか。

「トンネルに入ったと思ったら、すぐに出てきた。秒で出てきた」

そう、ジン君は言った。

「出てきたらアッキーは大泣きしているし、二人とも車酔いしたみたいにフラフラで気持ち悪そうだしで、びっくりしてここに座らせたんだ。一体何なんだよ。何があったんだよ。マジで怖かったよ」

防災無線が5時のチャイムを鳴らし始めた。いつもの「遠き山に日は落ちて」だ。
おれとジン君がトンネルに飛び込んだのは5時少し前だった。ということは、つまり、ジン君のいう通り、おれたちはトンネル入ってすぐ戻ってきたのだ。

***

起こったことについてジン君に話した。ジン君は「良くわかんないけれど信じる」と言ってくれた。すごく変な顔をしながら「たぶんそういうこともあるよな」と言っていた。
正直に言うとおれも良くわからない。何が起こったのか良くわからないだけではなく、起こったことを信じていいのかもわからない。自分が経験したはずのことだというのに、夢を見ていたようでもあり……。
ちなみにアッキーはずっと黙っていた。おれの本音を言うと、何があったのかをアッキーからも話してほしかった。けれどそれはさせられなかった。今アッキーに何かを喋らせるのはかわいそうだと感じたからだ。本当は何があったのかを確認するなんて、アッキーを傷つけてまですることではないような気がしたからだ。

8月の残りはあっという間に過ぎた。アッキーとおれは時々トンネルの近くに寄ってみたけれど、あの時のように声が聞こえてくることはなかった。少なくともおれには聞こえなかった。アッキーはどうだろう? ちょっとわからない。ともかくおれたちはその後あのトンネルに立ち入ることはなかった。ときどき、小さな子たちがおうちの人と一緒にあのトンネルで遊んでいるのを見掛けた。そんなときおれは、そしてアッキーも遊びをやめて、無事にその子たちがトンネルから出てくるのを遠くから見守った。
その年の夏休みはそうやって終わった。

土管トンネルが撤去されたのはその年度の終わりごろだ。トンネルを埋めている小山ごと撤去して、最新の遊具に置き換わることになった。撤去の理由は古くなったから。そしてトンネルの中は周囲の目が届かず危険だからとのことだった。
トンネルがあった場所が更地になったのを見たとき、アッキーはちょっとだけ泣いた。
ちょっとだけ泣いて、「もう大丈夫だよ」と言った。
あの時何かが起こったにせよ、何も起こらなかったにせよ、アッキーが「大丈夫」だと言えるようになったなら、もうそれでいいんだと思う。
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