美鈴(ベル)の完璧な世界⑰

文字数 3,908文字

塾は退屈だった。
高度なことを学べると聞いていたのに学校とあまり変わらなかった。覚えること、やらなきゃいけないことが増えたりしただけ。テキストを開いても、わたしが好きなことに関係していればずっと前から知っていることばかり。けれどそうでなければつまらなすぎ、見るのも読むのも聞くのもしんどい。たとえば算数。わたしはパズルみたいな問題を解きたい。目の前の情報から法則を探し、頭の中で理屈を組み立てながら解くパズル。でもやらされたのは計算問題。まずはこっちをやれってことらしい。まわりはすぐに正解を競いはじめたけれど、わたしは駄目だった。
わたしは計算を全部暗算でやりたかったから。暗算だけでは厳しい問題でも、筆算も途中式も絶対に書きたくなかった。手を動かして線や数字、文字を書くのが本当に嫌だった。だってそれだけでへとへとになる。自分で書いたものがグチャってなっているのを確認すると、そのたびすごく嫌な気持ちになるし、自分の頭の中にあるものと違っていることがある……。
あと国語。物語とか詩とかエッセイとか、文章も設問も気持ち悪い。「この人物の気持ちに当てはまるものを次の中から選びなさい」とか意味不明だ。オエッってなる。――国語の問題が全部説明文や論説文ならいいのに。

ちなみに教室がウルサイのも学校と同じ。いや、学校よりもひどいかも。授業に関係あることもないことも言いたい放題。それが普通。何度も耳をふさいだ。それでわたしが、自分が知っていることは発言していいと思って口を開けば「関係ないことは話さないように」と黙らされた。そのたびに何で? って思った。関係があることなのに。
塾での「高度な学び」って、大学や博物館の先生から古生物や宇宙の話を聞くような、エキサイティングなものだと想像していた。でもそういうのではないってわかって、本当にがっかりした。わたしが知っていること、知りたいことは、塾では「いらないこと」だ。実はわたしの他にも似たようなことを言う子たちはいた。でもその子たちは、許されているように見えた。「マニアックだなぁ、でも授業に戻ろう」って、笑ってもらえていた。わたしには許されないことが、その子たちには許されていた。

わたしは問題児扱いされていたんだ。同じことをしても「普通の子は許してもらえて、問題児は許してもらえない」。
指示に従わず、まともに授業を受けず、宿題をせず、問題を解かせれば好きな分野なら完璧。興味がなければ散々。気に入らないものはまるごとスルー。口を開けば余計な知識を披露、テキストやノートは古生物や惑星のスケッチだらけ、もちろんクラスはずるずる落ちて一番下。椅子の上であぐらをかき、身だしなみもできない。まわりは小ぎれいだから余計に目立ったみたいだ。見た目については嫌味っぽいことを言われた。「山田さんは今日も寝起きかな?」ってのは、嫌味で合ってるよね。「違います、仮眠を取って来たことはありません」って答えたら鼻で笑われた。周りのやつらもゲラゲラ笑ってた。わたしは「女子」で「女子」がこんな格好だからっていうのもあったらしい。納得できない。

やる気がなく、反抗的で、結果がついてこないくせに自分は賢いつもりでいる“変”な子、そう思われていた。講師からも、周りのやつらからも。

字は下手でも良いから読めるように書くこと、思考の過程を残すこと、興味の広げかた、嫌いなものとの付き合いかた、それを教えてくれたのは、その塾をやめて通い始めた「学習教室」のカナ先生だ。それらがなぜ大切か、どうすればわたしにもそれができるようになるか、一緒に考えてくれたのもカナ先生だ。でもあの塾の講師たちはそんなことはしてくれなくて、ただ「やりなさい」としか言わなかった。わたしでない子には「やりなさい」だけで充分なんだろう。でもわたしは「どうしようもなくやりたくなく」て「できなく」て「どうやったらいいか」がわからないからできない。それは決してわかってもらえなかった。どうしたらわかってもらえるかもわからなかった。

あの頃のことは、クソ、思いだすとクソ、って感じだ。

最悪だったのは、大きな塾と掛け持ちして通った個別指導塾で当たった講師だ。わたしは「大きな塾での勉強に追い付くために、個別指導で算数を習う」なんてことをしていたのだ。「算数ができないととにかくダメ」みたいな話を父さんか母さんがどこかで聞いてきたからだ。無駄なことをした。
その講師には本当にネチネチとやられた。あいつを思い出すと、頭の中で「ギィー」と黒板を引っ掻くような音が鳴る、それくらい嫌な記憶だ。カナ先生は「多分、その人は学生のバイト講師さんだったんだろうね」と言っていた。「経験が浅い先生だとあなたに教えるのは難しいかもしれないよね、あなたもその先生もどっちも運が悪かった」と。そうだったのかもしれない。その講師はとても若かった。こどもみたいな顔をしているくせにスーツを着て、偉そうにしていやがった。そして「普通」という言葉をよく使った。「普通はこうです」「普通はこうしません」「こんなことは普通できます」。……わたしの「普通」は皆の「普通」と違うのに。

「普通にできない子にはこうするものだ」「これができれば普通だ」「普通になれ」と学校の補習レベルの指導が延々と続いた。「これくらいのことはわかる」とわたしが反論しても続いた。わかっている証拠を挙げて(『これがわからなかったら、このページのこれとこれ、次のページのこれは正解できません』)具体的に反論すればするほど続いた。……仕方がなかったのかもしれない。あの頃のわたしはエラーだらけだったから。頭の中だけでは処理できないものを、無理やり頭だけでやり過ごそうとしていたし、何かを理解していることと、それを使いこなすことは、同じようで全然違うってことを分かっていなかったから。

それでも、わかりきっていることを繰り返すのはウンザリだった。「なんであなた(なんか)があの塾に通っているのか?」みたいなことを何度も言われた。「親がすすめました」と正直に答えたら、白けた顔をされた。「何言ってんの? そういうことを聞きたいんじゃないんだけど?」って顔だったんだろう、アレは。嫌われたし、わたしもあいつのことを大嫌いになった。

そうしているうち、2年生のときと同じ「力が集まる感じ」がわたしに帰ってきた。我慢我慢の末に収縮する、このまま行けばまたあれが起こせるぞっていう、発火寸前の感覚。塾なんか居続けたいわけじゃない。けれどわたしが周りと揉めると母さんが嫌な思いをする。だから我慢していた。母さんは学校でも、社会スキルの教室でも、塾でも、あちこちで頭を下げていた。「ご迷惑をおかけします。ありがとうございます、よろしくお願いします」……学校なんか、わざわざそうするためにPTAの役員をやってた。学校に行って先生に会って、頭を下げる機会を増やすために。母さん、わたしと同じでコミュ障なのに。知らない人とか、ママ友とか苦手なのに。

だから――。でも――。

もう駄目だな、と思った。

「何度も言っているけれど図や途中式はちゃんと書いて下さい。こんな暗号みたいな走り書きじゃ意味がわからないよ。――何? 山田さんはこれでわかるの? 充分なの? すごいねぇ。だったらちゃんと正解してほしいなぁ。でもこんなんでうまく行ったことなんてないよね。普通にやってよ、普通に」

そこでわたしはそいつの顔に机の上のノートを投げつけた。コピペの力を燃やして。

手は動かさない。膝の上に置いたまま。机の上からノートが飛んで、隣に座る講師の顔に当たる一連の動きを想像し、眼の前にコピーアンドペースト。何かを人に向けて動かしたことはなかった。これが初めて。顔そのものに当てることはできないかも。顔は常に動いているから。瞬き、呼吸、鼻のひくつき、唇の歪み……それに向けて物が動くのを想像するのは無理そうだ。動かしたいものと、それを当てる対象が同時に動くのを正確に想像するのは難しい。人の動きはわたしの想像の外にあって、触れられそうにない。でも動くことのないモノに当てるなら? たとえばコイツが掛けているメガネなら? できるか? それならできるかも――どうだ?

「うわっ」

講師が悲鳴を上げた。
――できた。コピペはできた。そこから先は「眼の前の出来事」。講師の眼鏡にヒットしたノートは顔の表面を滑り、再び机の上に落ちる。滑り落ちるノートの下から講師のあっけにとられた顔がするするとのぞく。あの瞬間を誰か見ていたやつはいたかな? 生徒の席はパーテーションで区切られているから、誰も見ていなかったはず。
でもその後の騒ぎは皆聞いたと思う。皆の注意がこっちに向いたのがわかったから。何があったか、これから何が起こるか、興味津々って感じ。ああ、その視線、うるせぇ。

講師はキレた。わたしは「何もやってません。手はずっと膝の上でしたよね」って反論してみた。自分でやっておいて逃げたくなったのだ。手を使わずにノートを投げるなんてできません、とか言ってみた。嘘半分、真実半分。自分で言っておいて、バカみたいだ。
あいつは顔を真っ赤にして「自分がやったと認めろ」「謝れ」って怒鳴った。お前が投げたんだろ、手は隠したんだろ? それしかないだろ、ってさ。

そういうわけでわたしはここにいられなくなった。大きな塾も一緒にやめた。どういうわけだか引き止められたけれどやめた。もう無理だったんだ。退屈も、嫌われるのも、嫌うのも、全部疲れた。そして、こんなのだったら学校の方が何倍もマシだと思った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み