アサヒ・リヴァイヴ、あるいは子犬たちのワルツ⑥

文字数 2,157文字

ピアノの発表会が近いのに「子犬のワルツ」の仕上がりが思わしくないことがアサヒの悩みだった。ピアノが好きなだけでうまくなんかないんだから、もっと簡単な曲にすればよかったのかもしれない。どれだけ練習をしても本番までに完成する気がまるでしない。でも、うまく行っても行かなくてもこれが最後なのだから、やれるだけのことをやるしかない。それなのにイマイチ気持ちが乗らない。気持ちが乗らない理由ははっきりしていた。隣家で起こっていることのせいだ。隣家で犬が鳴きだすと、次に起こることを待ち構えて何もできなくなってしまう。何で他人の家のことを気にしなければならないのだろうと思う。そんなの馬鹿げていると思う。でも、あんなものを見た後では気にならないほうがおかしい。
(今日は何も起こりませんように。落ち着いて練習ができますように)
そう思いながらアサヒはリビングに置いてある電子ピアノの前に座ると、そのスイッチを入れ、ヘッドフォンのケーブルを繋ぎ、楽譜を広げ、指を鍵盤に置いた。宿題や自習が終わった夜にピアノの練習をするのがアサヒの日課だった。夜でも弾けることが電子ピアノのメリットだと言えるかもしれない。
けれど練習を初めてすぐに隣家が騒々しくなってきた。犬たちが鳴いている。父親も何かを怒鳴っている。ああ、また始まった、とアサヒは思った。でも何かいつもと様子が違う。他の家族がいなくなってから父親と争わなくなったハルトが、大声で何かを叫んでいる。父親に何かを言い返している。父と子の言い争いはどんどんヒートアップしているようだ。アサヒは悩んだ。このままヘッドフォンを外さず、音量を上げて耳を塞ぎピアノの練習を続けるかどうか。それほど長くは悩まなかった。ガシャン! と何かをたたき割るような音まで聞こえてきたからだ。アサヒは反射的にヘッドフォンを外した。そして身を固くして隣家の物音を聞いた。
ハルトと父親はかなり激しく言い争っているようだった。そのそばで犬たちが鳴いているようだった。ご近所さんの家の老犬がそれに応えて吠え始めた。そして少し離れた場所にいる犬たちも……。
周囲はこれまではなかった空気に包まれた。
ピアノから少し離れたソファに座っていたアサヒのお母さんも緊張した顔つきになった。

「ばかやろう!」

ハルトと父親と、どちらがそう怒鳴ったのかはわからない。多分両方が言った。何か物が落ちるような音。そして足音。玄関のドアがギイと開く音。そしてもう一度。

「ばかやろう!」

これはハルトの声だ。家の中からでなく、外から聞こえた。思わずアサヒは立ち上がってリビングを出て玄関に駆けて行き、外に向けてドアを開いた。「アサヒ! よその家のことに首を突っ込まないの!」とお母さんがアサヒを止める声が聞えた。それはそうだ。その通りだ。でも今はそうするしかなかった。外を見ると暗い夜道をどこかに走って行こうとするハルトの後姿が見えた。アサヒは思わずその背中に呼び掛けた。

「待って! こんな時間にどこに行くのよ!」

ハルトが足を止めてこっちを見た。ハルトは泣いてぐしゃぐしゃになっていた。アサヒはサンダルを履いてハルトに駆け寄った。ハルトの兄弟たちはこういうとき、近くの公園に行って時間をつぶすことが多かった。でもこの時間の公園は危ない。誰がどういう目的で来ているかわからない。小学生が、ハルトのような子どもが行く場所ではない。行かせてはいけない。アサヒは自分の家の前までハルトを引っ張ってきて玄関先に座らせ、何があったかを聞いた。ハルトは泣きながら、でも意外と素直に説明をはじめた。

どうやら犬のしつけが思うようにいかなくて父親がキレたらしい。キレて犬を詰りだしたので、ハルトは耐えられなくなって間に入った。それで怒りの矛先が犬からハルトに変わった。犬を巡る父親とハルトの口論は、気付いたときには母や兄たちを巡るものに飛び火していた。そうなるともう止まらなかった。「お前がそんなんだから、母さんも、兄ちゃんたちも……!」と、ハルトが言った時、父親は傍にあった食器だか花瓶だかを床にたたきつけた。ガシャン! 大きな音におびえた犬たちがさらに吠える。「ばかやろう!」父親は怒鳴った。ハルトも怒鳴り返した。そして家から飛び出した。

「おれの家の玄関の窓に貼ってあるあのポスター……。あんたも知ってるだろ? あの下がどうなってるか。兄ちゃんたちがヒビを入れたんだよな。それを隠してる……。おれ、あんなポスターは早く外して、窓を入れ替えたほうがいいって思ってる……。でも親父はやらないんだ」

気が付くと、アサヒのお母さんがスポーツドリンクのペットボトルを持って玄関まで出てきていた。お母さんはそれを「はい、どうぞ。飲んで」と、ハルトに手渡した。ハルトは「どうも」と頭を下げると封を開けてそれを飲み、話を続けた。

「親父はさ、たぶんあの窓を直すのが怖いんだ。兄ちゃんたちが残していったあのヒビを消してしまうのが……。親父はバカだよ。本当にバカ。窓をそのままにしていても兄ちゃんたちが戻ってくるわけじゃないのに。窓を直しても、兄ちゃんや母さんたちに『ごめん』って頭を下げれば会えるのに。『誰も俺の言うことを聞かない』ってキレてばっかり。犬を叱り飛ばしたり。毎日そんな感じ」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み