美鈴(ベル)の完璧な世界④

文字数 2,608文字

美鈴は「みどりのトリセツ」が効果をあらわしていくところを見ることができなかった。
3年生のクラス替えで美鈴とみどりは別のクラスになったからだ。

トリセツの効果は抜群だった。トリセツには、みどりの意識が別の世界に飛んでいる時、課題を適切にこなさない時、みどりの感情が荒れているとき……みどりの中で何が起こっているのかが書かれていた。
先生はそれをもとに適切にみどりの問題に対処できるようになった。みどりが困り、周囲も困っている時にした方がいいこと、しないほうがいいこと。それらがわかるようになったのだ。

たとえばみどりは学校にイヤーマフを持ち込むことが出来るようになり、周囲をうるさいと感じるときにはいつでもそれで耳を塞いでよいことになった。みどりは騒音に弱い子で、騒々しい場所にいると、最後には頭がパンクしてしまうからだ。耳を塞いでもつらい時には教室を離れて、「心を落ち着けるための部屋」に移動してもよくなった。給食を食べないときに何も言われなくなった。味覚の偏りは努力でどうにかなるものではないから。授業中に上履きを脱いでも何も言われなくなった。みどりにはそのほうが落ち着くらしいからだ。

また、みどりは前よりも少しだけ宿題をやってくるようになった。
みどりは先生から「あなたにとって、この宿題の問題そのものは簡単だろうけれど、文字や数字を書く練習になるし、出来る範囲でやってみない?」と声を掛けられ、徐々に意識を変えていった。

「山田みどりの理解力は同年齢の平均よりもとても高いので、学習内容は理解していると思われる。しかし、学校から出される課題が簡単に思えて意欲が湧かない、また、書字に苦手意識があるため手で文字や数字を書く活動を避けていると考えられる」

とトリセツにあったのを、先生がうまく取り入れたのだ。みどり自身も「自分には文字や数字を書く練習が必要」だと自分の弱みを受け入れた。みどりの字が雑だったのは、手抜きをしていたからではなく苦手だったからだ。
先生の働きかけと、みどりの自覚の両方があって、そうなった。
みどりは何かをしないことをただ受け入れてもらうだけでなく、できる範囲で自分にできることをやり、それを認めてもらうことを覚えた。

これまで学校で滅多打ちにされていたみどりの自信が回復するきっかけもあった。秋の学芸会でみどりに長台詞がさりげなく与えられた。驚くほど長いものだ。みどりには普通でない記憶力があるのでそれに光を当てると良い、とこれもまたトリセツに書かれていたからだ。もちろんみどりはそれをばっちりやり遂げた。演技も何もない、ただその長い台詞を読むだけの出番だったが、周りの子たちを驚かせるには十分だった。

最初に台本なしでの練習をしたときの、みどりの活躍ぶりと言ったら目の覚めるようなものだった。他の子たちが台詞をとばしたり躓いたりしている中で、みどりはただひとりすらすらと自分が担当する長い台詞を読み上げたのだ。よどむことなく朗々と。いつもの取っ散らかった早口とは全然違う。それを聞いた子どもたちは一瞬、しん、となった。劇の練習のはじめのほうにありがちな、緩んだムードが一気に締まり、その後すぐにどよめきが起こった。

3年生のこれまでの日々を一緒に過ごしてきた子たちは、すでにみどりを「何かを持っている子」と認識し始めていたので、「みどりさんがまたやったぞ!」と喝采の声を上げ、「みんなができることは苦手だけれど、みんなができないことを軽々とやってのけるみどりさんだ!」と、笑った。アサヒのように、入学したときからずっと一緒の子たちは特に興奮した。
この年、みどりのクラスにいた子たちはみんなみどりに協力的だった。みどりが何か良いことをすればそれを認め、逆にやらかした時には適当にスルーする……そういう空気があったのだ。それは間違いなくみどりの成長の追い風になった。

一方、1年、2年のころの「『問題行動』を起こし、自身も周りも困り果てていたころのみどり」しか知らない子たちは「なんだよ!」「なんであいつができるんだよ!」と困惑した。一番長い台詞がある役に「山田みどり」が配されているのを見て、「大丈夫かよ」「できるのかよ」と半笑いをしていた彼らを、みどりは見事に圧倒した。
もちろん美鈴も困惑し、圧倒された方の一人だった。騒がず静かにしていたけれど、心の中では(なにあれ!)と怒っていた。劇で主役を演じるのはわたしなのに、山田さんが全部注目を持って行ってしまった! あの問題ばかりの子が! と。

美鈴の知らないところで、みどりとみどりを取り巻く環境は少しずつ変わっていた。美鈴はそのことに気が付かなかったし、気付こうとしなかっただけだ。
一度に全てが変わったわけではない。トリセツは決して、みどりの困りごとに対する「正解集」ではない。唱えればすべてが解決する呪文が満載の「魔法の本」でもない。
どちらかというと「正解集」よりも「ヒント集」に近い。ここに書かれている「みどりがどういう子か? 何が得意で何が苦手か?」そういった情報が「ヒント」になる。けれど「ヒント」から具体的な「解決」にたどり着くには、みどり本人とみどりに関わる人々とで工夫をしなければならない。ヒントをもとに、目の前の問題にどう手を入れればいいかを考える……大変だ。

「ヒント」をもとにあれこれ工夫をして試してみたのに、ほとんど効果がないこともあった。たくさんあった。でもそれはそれでいい。また別の方法を考え、それを試せば、それで少しでもみどりが前進できれば、みどりと周囲との関係が良くなればそれでいい。それで充分。
みどりに限らず、子どもの、人の成長とはそういうものなのかもしれない。何度でも失敗していい、そして別の方法を試せばいい。成長をやめなければそれでいい――。その時その時は小さな一歩でも、積み重ねていけば、それなりに前進できたことになるかもしれない。

それを信じて、みどりの周りの人たちはみどりのサポートを続けた。みどりの毎日は石ころの多い道を歩くようなものだ。その石ころにつまずいて転ばないように、転ぶならばうまく転べるように、転んでも立ち上がれるように……そういう思いに支えられながらみどりも懸命に毎日を生きた。長くごつごつした坂道を上るように生きた。それは決してラクなものではなかったけれど、歩けば歩くほどに見える景色は変わっていった。
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