美鈴(ベル)の完璧な世界⑲

文字数 4,535文字

わたしは調子に乗っていた。

カナ先生の教室に行き始めて、わたしの頭の中がじわじわと、けれどあるときから急に変わり始めた。なぜだか良くわからない。でもそれは多分、わたしがカナ先生を、そしてカナ先生が言う通りに自分の頭の使い方、学習への取り組み方を見直していくことを受け入れたからだ。

数ヶ月の「助走期間」の後、わたしの頭はあらゆることを吸い込み、吐き出しはじめた。机に向かってカナ先生から与えられた課題を解く。自分で調べたり、カナ先生やユーシ君、他のアシスタントさんからヒントを貰ったりしながら。するとあっと言う間に時間が消えて、教室が閉まる。もちろん家でも。何時間もぶっ続けで課題に取り組んで、ご飯の時間に気づかない。自分が空腹だってことにさえも。そのまま次の日になったり、疲れて机に突っ伏して気絶するように眠ったり……。わたしの学習は、学びへの適応は、普通でないスピードで進んだ。ユーシ君が「マジやべえ、キモい」って言うくらい。ユーシ君が使う「ヤバい、キモい」は「とてもすごい」という意味だと(でも真似をして使わないようにと)カナ先生が教えてくれた。そうしていたら話が出たのだ。「XX女子」を狙ってみるのはどうか? と。

教室に4つ年上の中学生の「かおりん先輩」がいる。そのかおりん先輩が「おいでよ」って誘ってくれたのだ。「うちの学校、みどりんみたいな子がちらほらいるよ。あ、あたしも割とそっち寄りだけど。そっち寄りだから、この教室が合うわけで。とにかくあたしみたいなのでも快適なんだ、XX女子は」って。

かおりん先輩とわたしが「近い」のは会ってすぐにわかった。「波」が合うのだ。感じ方、考え方、スピード感とか。困っていることにも共通点がある。例えばかおりん先輩もわたしも身だしなみが苦手、特に髪を触るのが無理。だからわたしはできるだけいじらすに後ろで結んでいる。かおりん先輩はギリギリまで短くしている。「髪切ってもらうときだけ頑張る、美容室から帰ったら倒れる! 疲れるから!」だとか。髪はベリーショート、赤い縁のメガネ(『コンタクトなんか怖すぎて論外!』だって)、制服はブレザーとスラックス、紺色のネクタイはつけたりつけなかったり。

わたしに近いかおりん先輩みたいな子がいる学校になら行ってみたい気がした。わたしもそこにいるのを想像できたから。そうしていたら模試の結果が「XX女子」を狙えるくらいになってきた。かおりん先輩のような、わたしのような子たちが集まる場所への道がひらけてきた。そしてそれは、誰にでもできることじゃなくて「ヤバい、キモい」やつしかできないことなんだ――。わたしみたいにね。

どうしてこのことをアサヒさんに言っておかなかったんだろう。アサヒさんとは違う中学に行くつもりだってこと。なんで言わなくてもいいって思っていたんだろう。

模試の結果と一緒に返ってくる偏差値ってヤバいと思う。自分がどれくらい優れているかが数字でわかるんだから。5年生の夏、数字が初めて60の後ろの方になったときのゾクゾクは忘れられない。大きな塾でわたしのことを笑った奴らもきっとこの模試を受けているだろうけれど、多分こんな数字は貰ってないぞ、ザマァ見ろって。そうしたらカナ先生に注意された。「あなたはよく頑張ってる、でも偏差値を高くするのを目標にしちゃあ駄目よ。大事なのは学びそのものが好きであること、未来につなげること。あなたが今までに受験とは関係なしに夢中になって学んできたことが今生きているのよ」って。でもゾクゾクするのは止まらない。父さんが「俺達を馬鹿にしている奴らを見返してやろうな」って言った理由がわかる気がする。

わたしはわたしのことを馬鹿にしているやつら――塾のやつら、学校のやつら――よりも、高度なことをしている。難しいことに挑戦して、それに成功しようとしている。偏差値はその証明だ。
わたしはあいつらよりもすごい。あいつらはそれを知らずにわたしのことを下に見ている。小学校の勉強や生活を無難にこなしているだけなのに、自分たちの方が優れていると思い込んで笑っている。
そう思うようになると、アサヒさんといるのも何だか退屈になってきた。「友だち」で「大事」だけど、退屈。でもユウガくんは「こっち」に近いってことを知ってる……「友だち」ではないし、「大事」ってほどではないけれど、アサヒさんに話して伝わらないことがユウガくんには伝わる。だからわたしやユウガくんのほうが上。そう思ってしまったのかもしれない。それでアサヒさんには言わなかった受験のことをユウガくんに言ってしまったのかもしれない。しかもアサヒさんの目の前で。

アサヒさんは何も言わなかった、でもそのうちアサヒさんは安藤美鈴のグループに混じって休み時間をすごすようになった。一緒に来ないかとわたしも誘われたけれどそれは無視した。安藤美鈴がわたしのことを嫌っているということくらいわかっていたし、わたしもアイツのことは苦手だったから。そうしていたら担任の先生にきかれた。「最近アサヒさんと何かあったの?」心配しているみたいだった。

「何か」? 「あった」?

わからなかった。わからなかったので、そのままわからないとこたえた。
でも気になった。気になったからかおりん先輩とユーシ君に相談してみた。カナ先生には話せなかった。叱られそうな気がしたのだ。何となく。

「あ、あー、イテテ、それ、多分やらかしたね、みどりん」
「おれ、こういうのはよくわからないし、正直、できるやつ、できないやつ、話が分かるやつ、わからないやつがいるのは当然だからこうなるのは仕方がないけどさ。今回はまずかったような気はするな。何となく」
「うん、アサヒちゃんを怒らせちゃったかも。受験のことは卒業までずっと秘密にして誰にも言わないか、またはアサヒちゃんだけにちゃんと話すとかしたほうがよかったかな。少なくともアサヒちゃんはこういう形では聞きたくなかったかもね」

ひとの心はこわい。むずかしい。
本当のところを言うと、わたしはやっぱり、まだ、よくわからない。アサヒさんが怒った理由が。でも怒っていることは、それがわたしのせいだということだけは、二人に言われて理解した。
いつもいっしょにいたアサヒさんの心がわたしにはわからない。いや、わたし自身の心すらわからなかったのかもしれない。わたしの心の嫌な部分がアサヒさんとの関係をゆがめたのだろう。わたしの心にそんな暗い場所があるなんて、今までわかっていなかった……。

一人で過ごす休み時間は長い。
描きかけのアノマロカリスを自由帳からむしり取って丸める。晴れた日に教室に残っている子はとても少ない。わたしみたいに一人だったり、少人数でくっついていたり、絵を描いたり、本を読んだり、何かを話していたり。わたしとは仲が良くも悪くもない子たちだ。敢えて関わろうという気にはならない。
席を立って校庭を見おろす窓のそばに行く。
バスケットボールのゴールのそばでアサヒさんが楽しそうにしているのが見える。その近くには安藤(ベル)美鈴がいる。

なにが「ベル」だ。いつだったか「安藤美鈴が自分のことを『ベル』と呼べというけれど意味がわからない」と母さんに話したら、「どうやらこういうこと」と、古いアニメ映画を観せてくれた。黄色いドレスのヒロインとでかい動物の姿をした王子の話。けれど意味不明だった。なぜ安藤美鈴がこの話のヒロインの名前で自分を呼ばせたがるのか、この話が何を伝えたいのか、両方とも意味不明。本がずらりと並んだ図書館の場面だけは、何かうらやましいなと食い入るように観たけれど、それ以外はよくわからなかった。わかりたくない感じがした。安藤美鈴は一体あの話の何がそんなに好きなのだろう? わたしは物語は苦手だ。愛とかぼんやりしたものを扱うものは気持ちが悪い。

でもこれだけはわかる。安藤美鈴はやっぱり「おひめさま」なのだということ。安藤美鈴はわたしにはできないことが何でもできて、いつも幸せそうで、きれいな顔できれいな言葉を使って。いつでも主役で、特別な少女で、何でも持っているくせに、アサヒさんまで持っていこうとする。
安藤美鈴が走る。長い手足、軽やかな足取り。夏の温度が残る日差しを浴びて、ゆるく波打つ茶色ががった髪が輝く。笑っているのがわかる。安藤美鈴が笑うと周りも笑う。アサヒさんも笑う。全部眩しい。

足を引っ掛けてやりたいな、と思う。
足を引っ掛けて派手に転ばせてやりたい。アイツを。

力が集まる。頭のなかで想像したことを目の前に持ってくるコピペの力。わたしの心から、その特に暗いところから湧いてくる力だ。これは「湧き始めたら止まらない」そういうものだ。
わたしは想像する。わたしの力が安藤美鈴の足をすくうところを、足首を狙って、足首を中心に具体的に想像する。何かにつまずいた安藤美鈴がバランスを崩す。走る勢いそのままに前のめりになる。立て直そうとするがそのままよろける。反射神経のよい安藤美鈴ならばそこで手を前に出すだろう。けれどそれはうまくいかない。安藤美鈴は肘と膝から斜めに地面に落ちる。擦り傷ができる。手足だけでなく白い頬にも。整った顔が痛みに歪む――。

できなかった。できるだけ懸命に、こまかく想像したけれどうまくいかなかった。やっぱり動いている人間に正確に「コピペ」をするのは無理だ。こっちの想像を現実がかわしていくから。安藤美鈴は転ばず、何かが足に引っかかったような様子も見せず、そのかわりに、こちらを振り返って見上げた。何かに気づいたかのように。一瞬、わたしと安藤美鈴の目が合ったような気がした。わたしは目をそらし、窓から離れた。心臓がバクバクした。いつの間にか鼻から血がひとすじ伝っていたのを手の甲で拭った。

何が「コピペの力」だ。がっかりだ。くだらない。嫌なことをちくちく言ってくる連中をちょっと驚かすいたずらみたいなことなら簡単にできるのに、本当に起こしたいことを起こすのは無理。ああ――。
世界は変わる。確かに変わる。わたしにはそれができる。でもそれには限界がある。そんなものだ、わたしの力なんて。

わたしが初めて読んだ古生物の本には、アノマロカリス達が生きていたカンブリア紀が始まって終わるまでが、ほんの数行、たったの1ページにまとめてあった。何千万年のあいだに起こった出来事が一瞬で読める。宇宙の本もそう。恒星が生まれてから死ぬまでの何千万年、何億年が1ページで読める。
けれどいま、は違うのだ。いま、はたった一瞬一秒であっても1ページでは終わらない、いつまで経ってもいまはいまのまま、ずっと続く。カンブリア紀だって実はそうだ。たくさんの命が生まれて、たくさん滅んだ。実際にその場にいたら悲惨じゃすまない「いま」が続いていたはずだ。でも1ページになっているから平気で読める。
そんな風に、嫌な奴も嫌なことも、さっさと流れ去ってほしいのに、「これこれこういうことがありました。おしまい」って感じになればいいのに、しつこく目の前に居座り続けて終わらない。

いま、とは何なのか。
わたしがいる、いま、ここ、は何でこんなに長くて重いのか。
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