アサヒ・リヴァイヴ、あるいは子犬たちのワルツ③

文字数 2,084文字

“Let it be!”
“Go for it!”

アサヒは例の英字ポスターを眺めた。なんとなくだけれど、これは隣家の父親の自作だという気がする。風雨で傷まないようにラミネート加工までしてある。アサヒはまだ小学六年になったばかりだけれど、この程度の簡単な英文の意味ならば分かる。それで「いかれてる」と思う。この、変に前向きなポスターの内容と、この家で起こっていることが全くかみ合っていないように思えて。
ポスターから目を逸らして自分の家に入ろうとしたとき、隣家の父親が犬たちとの散歩から帰ってきた。きょうは父親が一日家にいる日らしい。いつもは末っ子が担当させられている夕方の散歩を、父親がしている。

「わんわんわん!」
「オラ、オマエらうるせえぞ! まっすぐ進め!」

あまりじろじろ見ないほうが自分の身のためだと分かってはいるけれど、なぜだか見てしまう。丁度ピアノのレッスンから帰ってきたところだったので、アサヒは肩に下げたバッグから鍵を探すふりをしながら、そっと彼らの様子を伺った。犬たちは父親の足元を、互いに吠え交わしながらちょろちょろと走り回っている。それを父親が怒鳴りつけている。
そして犬たちの一匹が父親の制止を聞かずに家とは逆の方向に進んでいこうとしたとき、アサヒはギョッとするものを見てしまった。

「コラ! 家はこっちだ!」

父親はその犬のリードを引き、首輪の近くを掴んで犬を引っ張り上げて小脇に抱えた。引き上げられた瞬間、犬は首を吊られたようになっていた。ぶらりと吊られるがままになった犬の姿がアサヒの目に焼き付いた。

(あんなこと、やって大丈夫なの?)

一瞬、隣家の父親と目があったような気がした。(何見てんだよ)とにらまれたように思って、アサヒは急いで目をそらし、身をすくめた。隣家の父親は引っ張り上げた犬を抱きかかえ残り二匹は従えて、何も言わずに家の中に入っていった。隣家の玄関のドアが閉まる音が聞こえた瞬間、アサヒは思わず小さく呻きながらその場にしゃがみ込んでしまった。

(ああ、嫌。ほんとうに、嫌)

何が嫌だなんて一言ではいえない。身近に怖い人間がいるのが嫌だ。怖い人間が怖さをまき散らしているのが嫌だ。それを自分に向けられるのが嫌だ。自分より小さいものに向けられているのを見るのも嫌だ。皆がそれを放っておくのが嫌だ。その「皆」の中に自分もいるのも嫌だ。戦うことも逃げることも出来ない人達……そして自分……。
しばらくそうしてうずくまっていると隣家の前に自転車が停まる音がした。振り返ってみるとその家の末っ子だった。今日は父親が夕方の犬の散歩をしたから、友だちと遊ぶことができたのだろう。
自転車から降りたその子と目があった。その時、アサヒは思わず彼にこう訊いていた。アサヒにとっても自分の中からこんな言葉が出たのは意外だった。

「犬、飼い始めたんだね。かわいい?」
「あっ……」

「犬」
その言葉が引き金になったのかもしれない。彼ははじかれたようにアサヒを見た。何かを伝えようとするけれどうまく口を動かせないようだった。気付いてくれ、わかるだろ、うちで何が起こっているのか、と、訴えかけるような目をしていた。アサヒは息をのんだ。そして続けた。

「三匹もいるんだよね。お世話は大変?」

大変じゃないわけがないだろ、と彼が言いたい気持ちがわかった。そういう顔をしていた。彼は根気よく犬たちの面倒を見ていた。愛情をもって世話をしていた。彼が犬を散歩させている時の様子を見れば、また、隣家から漏れてくる彼の声を聞けばそれは分かる。彼は犬たちが吠えても父親のようには怒鳴らない。それで犬たちからは舐められているのかもしれないが、それを仕方ないものとして受け入れているように見える。
でもそれでも「大変」なのには違いない。父親が増やした犬を、父親が家にいない間は彼が世話をしなければならない。それだけではない。父一人、子一人の生活だ。今の彼に彼自身のことをする時間がどれだけあるのだろうか? まだ小学生だというのに。そして「まだ小学生」だから立場も弱い。アサヒは何度か見たことがある。近所の一部のひとたちが、父親ではなく彼に犬の文句をいうのを。「うちの前の電信柱でオシッコをさせないでくれる?」「あんまり吠えさせないでくれる?」「犬相手に怒鳴ったって仕方がないでしょう」「お父さんにも言っておいてよね」と。父親相手には怖くて言えないことを、その子どもには言うのだ。これは大の大人の狡さの表れだ。彼は犬の世話を通してそういうものも世間から向けられ、背負わされているのだ。
彼の顔がふっと歪んで泣きそうになった、ようにアサヒには見えた。けれど彼は泣かなかった。泣くかわりに「別に」と言って目を逸らし、家の中に入って行った。彼が家のドアを開けとき、中にいる犬が「ヒュウン」と甲高い声で鳴いたのが聞こえたような気が、アサヒにはした。
それからは、隣家の犬が悲鳴のような声で鳴くたびに、アサヒはリードでつるされた犬の姿を思い出すようになってしまった。そして末っ子が目を逸らしたときの表情も。
ああ、嫌。本当に嫌。
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