美鈴(ベル)の完璧な世界③

文字数 2,923文字

美鈴とみどりが最初に同じクラスになったのは5年前。ピッカピカ、ドッキドキの小学1年生のときのことだ。

美鈴は覚えている。
みどりは最初の最初、入学式のときから「飛ばしていた」ことを。
入学式の席はクラス別に出席番号順。つまり、苗字の五十音並びだから「安藤」美鈴と「山田」美鈴はみどりから離れた場所にお行儀よく座っていた。美鈴にとって、お行儀よくすることは朝飯前だ。躾にうるさい幼稚園で、年少クラスから年長クラスまでずっと先生のお気に入りの子でいつづけたのだから。それが美鈴のママの自慢だったのだから。けれど、新1年生はそういう「できた」子ばかりではない。
特に同じクラスの後ろの席にいる「山田」という子が妙なふるまいをしていて、それで皆がざわざわしていることに美鈴はすぐに気づいた。

式の間、みどりは上履きを脱ぎ椅子の上で膝を抱えて座っていた。そんな奇妙な座り方をしているのは、80人以上いる新1年生の中でみどりだけだった。そして点呼のときに返事をしなかった。自分の番が回ってきてもしばらくは無視し、何回か呼ばれたあとにようやく「はい……」と応えた。上級生が「歓迎の歌とピアニカ合奏」を披露しているときには、耳を塞いで不機嫌な顔でやり過ごした。いかにも聴いていられないといった表情で。退場の時は「さっさとここから出たい」という気持ちが止まらなくなったのか、ものすごい速足で前の子を押しのけながら、式の会場である体育館を出ていった。椅子から降りるときに慌てて突っ掛けた上履きのかかとを踏んだままで――。

「クラスにすごい子がいたわね」

入学式を終え校庭で記念撮影をし、教室に戻り、明日からの生活の説明を受けて家に帰る道すがら、ママは美鈴にそう呟いた。

「『ああいう子』がいると先生は大変そうね……」

美鈴のママの予言はその通りになった。
みどりは授業を聞かなかった。椅子には上履きを履かずに、あぐらまたは三角座りで座った。給食を食べず、食べさせようとすれば逃げた。給食だけでなく、音楽の授業からもよく逃げていた。「音がそろっていない! キモチワルイ!」と言って……。
宿題もちゃんとやってこなかった。漢字やひらがなのドリルの最初の一ますだけを雑に埋める。残りのますは申し訳なさそうな親の字で埋めたものを提出する。算数のドリルは、基本的にやるにはやる。雑な字で答えを書きなぐり、それは合っている。でも、学び始めたばかりの子どもたちを理解に向けて誘導する問題……例えばさくらんぼ算などは全部親の字で埋まっていた。
美鈴はそういったあれこれをよくママに報告した。「きょうね、例の山田さんがね」と。ママはそれをすごく聞きたがった。

「ええ? 山田さんってそんな子なの?」
「先生は大変じゃないの?」
「授業は大丈夫なの?」

最初は興味からという感じだったけれど、そのうちママは「山田さんのヘンな話」をすすんで、喜んで聞くようになった。時期は美鈴とみどりが2年生に上がってしばらくしたころと重なる。それは美鈴のママとみどりのお母さんが、PTA活動で一緒になったことがきっかけのようだった。美鈴のママはみどりの話を聞くたびにこう言うようになった。

「ママは山田さんのお母さんのことを知っているけれど……たぶん似たもの親子ね」
「デキる人っぽいんだけれど、なんだか付き合いにくいの。やりたがらない仕事も多いし。そういうことを手伝ってあげても、全然ありがたそうでも嬉しそうでもないし」

ママはどうやら、PTA活動でみどりのお母さんとうまくいっていないようだった。

「どうも常識が通じないのよね。この前みんなとおしゃべりしているときに、あなたの名前の由来について話したんだけれど、山田さんは「なにがなんだか」って顔をしていたわね。他の人にはすぐにわかったみたいだったのに」

「なにがなんだか」。その顔を美鈴もはっきりと思い浮かべることができた。美鈴は自己紹介のときには自分の名前の由来を話して、「だからできたらわたしのことは『ベル』と呼んで」と皆にお願いするようにしている。クラス替えのとき、転校生がやってきたとき……。大体の子にはそれで通じる。そういうことに疎い男子はたまにいるけれど、彼らもそのうち受け入れてくれる。だって、わたしは、ベルは、「いい子」なのだもの。

でもそうしてくれないのが山田みどりだ。みどりは「なにがなんだか」という顔をして、決してわたしのことを絶対に「ベル」と呼ばない。みどりのお母さんも、きっとそういう顔をしたんだわ、と美鈴は思った。周りの子たちは、そう、先生でさえも「ベル」「ベルさん」「ベルちゃん」、特に仲のいい子ならば「ベルっち」とか呼んでくれるのに。みどりだけはずっと「安藤さん」だ。ひどい。

みどりのお母さんに「自慢の娘の自慢の名前」の話が通じなかったことは、美鈴のママにとって大変遺憾なことだった。美鈴のママもわかっているのだ。この手の「ネタ」は相手が受け入れてくれなければ成立しないことを。受け入れてもらえなければただただ「痛い」ことを。そういう意味でみどりのお母さんは美鈴のママに傷を負わせた。彼女は自分に恥をかかせた相手を許す人ではない。山田親子に対する美鈴のママの感情はどんどんとげとげしくなっていった。

それはちょうど、みどりと学校の間の葛藤が、どんどん高まっていた時期でもあった。みどりは毎日のように何かを「やらかした」。先生はそれを時にきつく叱った。そのうち、先生がカッとなってみどりに声を掛けると教室の中の何かが壊れる、という奇妙なことまで起こりだした。例えば教室の照明の一つが急に切れる、掲示物が破れて落ちる、教室のどこかがミシミシと鳴る……など。それに気付いたお調子者男子のオオシマ ジンが「先生の怒りのパワーがまたサクレツ。ギャハハ!」とふざけるようになると、美鈴はジンをたしなめる役にまわった。
その一部始終を美鈴はママに話した。面白おかしく。それを聞いている時のママはとても気分がよさそうだった。

けれどみどりのような子を先生や学校がいつまでも放っておくわけがない。担任の先生はもともとは怒りっぽい人ではない。家に帰れば二人のやんちゃな男子を育てる忍耐強い母親だ。滅茶苦茶なようで本当はちゃんとわかっていそうなみどりを、「子どもとはこんなもの、子どもとはこんなもの」と、粘り強くずっと見守ってきたが限界も感じ始めていた。しかもみどりを叱るたびに教室の中の何かが壊れる。それがこたえた。「そんなことはありえない」と頭では理解していたが、クラスの子どもたちの言う通り「教室の中のものを壊しているのは自分の怒りではないか?」とひそかに悩むようにもなっていた。
先生はみどりの親に相談した。

「みどりさんには、学校生活を送るにあたっての困りごとがあるのかもしれません。それを調べてみませんか?」

話は決まった。
そこからしかるべき手順を踏んで、みどりは検査に、つまり自分が何者であるかという事実にたどり着いた。学校はそれをもとに「山田みどりの取扱説明書(トリセツ)」を整備した。それが2年生ももうすぐ終わりという頃だ。トリセツもなにもない状態で、先生は2年間も本当によく頑張った。
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