アサヒ・リヴァイヴ、あるいは子犬たちのワルツ⑧

文字数 1,474文字

さて、父親と話し合いをしようと、ご近所さんとその犬友さんたちを先頭に、隣家の玄関に向かったメンバーだが、いくらインターフォンを鳴らして呼びかけても、父親から徹底的に無視されていた。

「失礼します。お話があるのですが、出てきてもらうことはできますかね」
「うるさいですねぇ。お宅らと話すことなんて何もありませんよ! 迷惑なンで帰って下さい」

インターフォンのスピーカー越しに、威圧的な声が響いた。一同は顔を見合わせ、ため息をついた。

「あんたらがそこで騒ぐならねぇ、警察を呼びますよ! 警察を!」

インターフォンの前の面々から声にならない呻きが漏れた。わかり切っていたことだが、これは良くない相手だ。こちらが「お宅の迷惑行動について警察に相談する」と言えば「民事不介入だから無意味」とのたまい、逆の立場になれば今度は「警察を呼ぶ」という。こういう相手と話し合いをするのは難しい。やっぱり、この人物と話し合って何かを解決するなんて、無理なのかもしれないという気がする。胃の痛くなる話。

その時だった。
アサヒが演奏する“子犬のワルツ”が出し抜けにあたりに響き渡ったのは。
そこにいた誰もが戸惑った。こんなときにこんな音楽が流れてきて戸惑わないわけがない。けれどその戸惑いを口に出す前に、この場に集まっていた犬たちがそれに反応した。興奮してめいめいに騒いでいた犬たちが、アサヒのピアノに合わせるかのように吠えはじめた。
それはこの場所から町中に広がった。アサヒのピアノのリズムが、旋律が、伝染するかのように、火花が飛び散って着火するかのように、犬から犬に広がりこの町の夜をおおっていく――。

とうとう、「うるさいぞ!」と閉ざされていた隣家のドアが開いた。この異常な状況に耐えられなくなったのだろう「静かにしろ!」「帰れ!」と父親は怒鳴った。家の前に集まっていた人たちに。そして犬たちに。
だが誰も帰らなかったし、黙らなかった。集まった人々は父親の顔をじっと見た。彼の目とそこにいる一人ひとりの目が合った。ご近所さんの目、犬友さんたちの目、かつて威圧して黙らせた人たちの目、アサヒのお母さんの目、アサヒのお母さんから連絡をもらって、急いで自転車を走らせて帰ってきたお父さんの目、そしてハルトの目……。
ハルトは祈るような気持ちでいた。このように、自分の父親が取り囲まれて非難されるところを見るのは辛い。でも「どうか親父、逃げないでくれ」と。自分のさびしさや、やましさを隠すために怒鳴り、威圧し、攻撃することで逃げるのはどうかやめてくれ、と。これから起こることを、どうか怒りで投げ出さないでくれ、と。おれが見ているから、と。見たくはないけれど見届けるから、と。
だって、多分大丈夫だよ、とハルトは思った。たとえ親父がこの人たちの要求を呑んで「負けた」ように感じたとしても、それでここにおれたちの居場所がなくなるわけじゃない、そう思うよ、と。負けた俺たちを受け入れてくれる人たちもいるんだよ、と、ハルトはほとんど空になったスポーツドリンクのペットボトルを握りなおした。

開け放たれたドアから、犬が三匹、父親の脇をすり抜けて、ご近所さんの腕に抱かれた老犬の元に尻尾を振りながら駆け寄った。ハルトの家の犬たちが鳴くたびにこの老犬が応えて吠えていたのは、やはり思い込みや偶然などではなかったのかもしれない。ここまで起こった不思議なこと全てが、小さく弱い者たちの意思によって起こったことだったのかもしれない。
そして誰かが静かに口を開いた。

「今からお話をさせてもらってもいいでしょうか?」と。




<終>
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