アサヒ・リヴァイヴ、あるいは子犬たちのワルツ⑤

文字数 2,243文字

隣家で父親は怒鳴り、犬たちは甲高く鳴き、ハルトは黙って犬の世話をし、近所の人から文句を言われ……そうして日々は過ぎていく。アサヒはたまにハルトを学校で見かける。ハルトは何か伝えたげな表情をするが、すぐに目を逸らす。これらは全部「何も起こらない悪夢のよう」とアサヒは思う。間違いなく悪夢なのに、何も起こらない。起こらないからなぜこれが悪夢なのかが説明できない。でも本当に「何も起こっていない」と言える? 本当に何も? それを含めての悪夢だ。目の前でおかしなことが起こっているはずなのにそれがはっきりと見えない、そして説明できないというもどかしさ。
けれどそういうとき、表面からは更に見えないレベルで「もっと奇妙なこと」が起こっていることもある。ここからはそういう話になる。
当たり前のことだが、この界隈で犬を飼っているのはハルトの家だけではない。ハルトに文句を言う近所の人の家にも犬がいる。隣家と同じく小型犬だ。範囲をもっと広げれば、二軒三軒……いや、もっと、もっといる。朝夕の散歩の途中で出会う犬たち、小さい犬から大きい犬まで。そして犬たちには犬たちの交友関係やネットワークがある。散歩の途中で出会う犬は互いを認識し、知り合い同士になる。飼い主同士の仲がよければ、よりそうなりやすいだろう。けれどそうでなくても犬は犬同士で繋がるかもしれない。互いを仲間として認めるかもしれない。そういうことが起こるのかもしれない。

アサヒが最初に「それ」に気付いたのは、隣家の犬がリードで吊られたのを目撃してから二週間ほど経ったころのことだ。隣家で犬が鳴きだすと、近所の犬がそれに応えるように吠えるようになった。いままではそんなことはなかったはずだ。吠えるのをやめさせようとご近所さんが叱ってもダメだった。ご近所さんは隣家よりずっと長く犬を飼っていて、犬の扱いも上手だから普段はそういうことはない。犬が吠え始めても、叱ったり宥めたりして止めることができる。そもそも、ご近所さんの家の犬はかなりの高齢だから、最近はあまり吠えたり騒いだりしない。でも、隣家の犬たちに呼応して吠えている時は、ご近所さんの家の犬は止まらなくなる。隣家の犬たちが落ち着くまで吠え続ける。その様子はまるで、犬同士が何かを伝えあっているかのようだった。
それに気付いた時から、アサヒは犬たちの声に耳を澄ますようになった。注意深くその吠え方を聞くようになった。そのうちにさらに気付いた。吠え合いに加わる犬たちが増えて言っていることに。隣家と近所の犬が吠え合うと、どこかの犬が遠吠えでそれに応えるのが聞えるようになった。どこの犬だろう? わからないけれど、こうして聞こえるなら意外と近くにいるのかもしれない。その遠吠えが、一つ、また一つと増えていった。町内のあちこちからここまで、たくさんの犬たちの声が届くようになった。これは偶然なのだろうか? “たまたま”犬たちが同時に吠えているのだろうか? 「ねぇ、気付いてる?」とアサヒは母親に訊いてみた。「隣の家の犬が鳴くと、町中の犬がそれに応えて吠えるみたい」と。「ええ?」と母親は面食らった顔をした。「そんな気がしないでもないけれど、それは偶然じゃないの?」と。

この時期、アサヒの家で、ほんの一瞬だけ引越しの話題が出た。お母さんがお父さんに「わたしたち、もうここに無理して住む必要はないんじゃないかしら?」と問うたのだ。「お隣さんのこともあるし、ここに住み続けるのがしんどいときもあるわ」と。お母さんが「ここに住み続ける必要はない」と言ったのには理由がある。この家は、お父さんの母の近くに住んで、その生活を支援するために買った家だったのだ。それはアサヒが小学校に入る直前のことだった。父親の母に乞われて買って移り住んだ。
アサヒは家を買ったときの事情はよくわからないが、住み始めてからのことは覚えている。
毎週末祖母の家に様子を見に行ったこと。正月、お盆、誕生日、クリスマスなどの行事は必ず祖母と一緒に過ごしたこと。年々祖母の認知症が進んでいったこと。深夜、祖母から何度も電話がかかってくるようになったこと。そのたび父か母が祖母の家に駆け付けたこと。そしてとうとう施設へ入居しなければならなくなったとき、「面倒を見てもらうならやっぱり実の娘がいい」と言って、父親の姉が住む地方にある介護施設に入ってしまったこと。今まで父親の母と姉とはずっと折り合いが悪かったのに、どういうわけか施設入りの話が出たあたりから急速に距離が縮んだのだという。
母親が「ここに住み続けるのはしんどい」というのは、そういう経緯もある。夫の母の気持ちを汲んで、家という高い買い物をして、頑張って支えてきたのに……という思い。なのに、この家を買わせた人間はここから離れてしまった。ならばどうしてこの家を買う必要があったのか? 世話をさせるために買わせたのに、なぜ? こんなことになるなら買わないほうが良かったのかもしれない。正直に言うならもっと別に住みたい家もあった。それを全部飲み込んでここに住んだのに、結果はこうだ。おまけに隣家はこのような有様だ。もう無理にここに住み続けなくても……、とアサヒの母はずっと考えていたのだろう。そしてそれを口に出した。そこから父と母の間で少しだけ話し合いがあった。アサヒを今の小学校から転校させることなく、住み替えができないか? と。けれど話はあまり進まなかった。家を売る、買うとはそういうことだ。
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