アサヒ・リヴァイヴ、あるいは子犬たちのワルツ⑦

文字数 1,953文字

例のご近所さんも様子を見に外に出てきた。
吠える老犬を抱いて宥めながら。ご近所さんだけではない、周囲の家も何となくざわざわとして外の様子に注意を払っている様子があった。
ご近所さんは会釈をしながらアサヒたちのそばに来た。いつものご近所さんは完璧なメイクとファッションで装い、まるで女優のようにキラキラしているけれど、今は夜だということもあって、顔はすっぴん、服はルームウェアだ。「あのお宅のワンちゃんたちに反応してこの子も吠えちゃって……こまったわ」。けれどアサヒの家の玄関先に座りこんでいるハルトの様子を、涙でぐしゃぐしゃの顔を、赤くはらした目を見て、口をつぐみ、ハルトにぽつりとこう詫びた。

「ごめんなさいね。おばさんは君に無理を言っていたかもしれないわね」

ご近所さんはハルトに対していつものような嫌味を言わなかった。ハルトが子どもにとっては重すぎるものを背負っているというのに、嫌味を言うことでその荷をさらに重くしていたことに気付いた……いや、それは前から分かっていたことかもしれない。けれどそのことによってハルトが傷ついているのを、多分このときはじめて見たのだ。
ご近所さんは抱いた老犬をあやしながら、深呼吸をしてからこう言った。

「わたし、あなたのお父さんに言おうと思うわ。ワンちゃんたちへの接し方を考えた方がいいって。うちの子に『そうしろ』って言われている気がするのよ。犬を飼うのって食事の世話や散歩だけじゃないわ。犬の飼い方、しつけ方をちゃんと勉強して、ワンちゃんたちを尊重して、大切にしなくちゃいけないって」

怒鳴ったり、リードを引っ張って犬を持ち上げたりするのは駄目よ。私は好きで犬を飼っている人間だからそれは許せないわ、と。そう話すご近所さんに、通りの向こうから誰かが呼びかけた。声の主は3、4人のグループで、皆が興奮した犬を連れていた。それはご近所さんの「犬友」さんたちだった。ご近所さんが「近くの家の犬が吠えるとうちの犬も吠える」と彼らに相談したところ、うちの犬たちも何かに反応して吠えている、という返事があった。互いによくよく確認してみると、ハルトの家の犬たちが鳴いて、ご近所さんの家の犬たちが吠えている時に、やはり犬友さんの犬たちも吠えているということがわかったのだという。

「そんな不思議な話、聞いたことがないですよね。でも実際にそういうことが起こっているわけです。私たちの思い込みや偶然ではなしに。で、今夜の吠え方は何だかいつもと違う……。何か大変な事があったのではないかと心配になって、こうして皆でやってきたんですよ」

興奮して吠えたてる犬たちが何匹も集まって、あたりはさらに騒然とした。様子を見ていた周囲の家の住人達も、ひとり、またひとりと外に出てきた。その中には、あの日、隣家の父親のバイクの音について話にいって、威圧され、追い返された人もいた。その人はこう言った。

「犬のことももちろんそうだが、わたしはもう一度、バイクの音についてあの家と相談してみようと思う……」

その言葉に周りの人々も黙ってうなずいた。そして隣家の玄関へと向かった。この界隈に変化が起きようとしていた。犬たちが、そしてハルトがそのきっかけになったのだ、とアサヒは思った。そしてアサヒの中で何かが動いた。動いたものとは多分「恐れ」だった。隣家の父親対する恐れ。アサヒを怒鳴りつける何者かに対する恐れ。
ハルトの隣に座っていたアサヒは立ち上がって、家に駆け入り、リビングのピアノの前に座った。そしてヘッドフォンのプラグを電子ピアノから抜き、音量を上げて、鍵盤の上に指を置いた。
アサヒは周囲に迷惑が掛からないようにヘッドフォンを使っていたと書いたが、あれは少し嘘だ。本当は、特に隣家の父親から何かを言われることが怖くて使っていたのだ。

アサヒの指が最初の鍵盤に触れて、それを押した。そこから流れるように演奏が始まった。“子犬のワルツ”。アサヒの指は広い場所に解き放たれた子犬のように鍵盤を駆け、飛び回った。いつもはつまずく場所も軽快に乗り越えて。

「すげえ」

大音量で外に漏れてくる演奏の音を聴いたハルトが、そう感想を漏らした。

「アサヒ、ちょっと、何をやっているのよ」

アサヒの突然の行動にお母さんは慌てたが、アサヒを止めることはできなかった。アサヒがこれまで何を飲み込んできたのか、お母さんなりに理解していたからだろう。お母さんが「仕方がない」とため息をついたとき、ズボンのポケットにあったスマートフォンにメッセージが入った。お父さんからだった。会社から帰宅中だったが地元の駅に着いたのだという。お母さんはそれに手早く返信した。今、隣家を巡って起こっていること、そして、隣家の父親との話し合いがこれから始まるかもしれないことを。
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