第49話 美しい媛(ひめ)

文字数 2,155文字

 気がつくと会談はすでに長い時間に及んでいた。
 磐余彦はふいに(のど)の渇きを覚えた。
 その時、馥郁(ふくいく)たる香りが漂ってきた。
 一人の女が茶を運んできたのである。
 束ねた黒髪に細い金の(くし)()し、上品な青い衣に身を包んだ、楚々(そそ)とした(たたずま)いの娘だった。
 事代主(ことしろぬし)が紹介した。
「娘の踏鞴五十鈴(たたらいすず)です」

 目を合わせた瞬間、磐余彦は雷に()たれたような衝撃を覚えた。
 黒目勝ちの瞳にすっと通った鼻、健康的で形のよい唇を持った見目(うるわ)しい女性(にょしょう)である。
 思わず魅入っていると、瑞々(みずみず)しく輝く白い肌にほんのり(しゅ)がさした。
 その時磐余彦が感じたのは、これまで会ったどんな女性にも感じたことのない、嫋嫋(じょうじょう)と絡みつく、甘い感覚だった。
 磐余彦はいつの間にか(ほほ)が緩んでいることに気づき、慌てて唇を引き結んだ。

 大和盆地に冬の気配が色濃くなった。
 磐余彦たちが布陣する三輪山(みわやま)の中腹からは、天香具山(あめのかぐやま)畝傍山(うねびやま)耳成山(みみなしやま)の大和三山の姿がくっきりと見える。
 その向こうには、葛城(かつらぎ)山系の山々が横たわっている。
 長髄彦(ながすねひこ)率いるヤマト軍の本隊は、耳成山の麓に兵を集結させて日向(ひむか)の軍勢を迎え撃つ態勢を固めていた。

 双方の距離は約一里(約四キロメートル)ほど。
 軍勢とはいっても日向軍はわずか二百。対するヤマト軍は千を優に越える。
 さらに後方の纏向(まきむく)には、ヤマト王ニギハヤヒ直属の精鋭八百余も控えている。
 兵力では依然として日向軍が圧倒的に不利である。
 三輪の豪族事代主は、表向きは中立を唱えており、直接の加勢は控えている。
 ただし密かに日向軍へ武器の補給を続け、ヤマト軍の詳細な動向を知らせてくれている。

 そこで椎根津彦が「奇兵(きへい)」と「少衆(しょうしゅう)」の策を進言した。
 「奇兵」とは『六韜(りくとう)』の〈竜韜(りゅうとう)〉にある用兵術で、戦いに応じて兵を千変万化に行動させ、敵を混乱させる法である。
 「少衆」は同じく〈|豹韜《ひょうとう〉〉にある法で、多数の強力な敵軍に対して少数の弱兵で戦って勝つ戦術である。
 日中、日向軍は敵の正面から攻めず、大和盆地の南に位置する多武峯(とうのみね)を迂回して、ヤマト軍の側面や後方から散発的に奇襲を仕掛けた。
 ヤマト軍が追って来れば、敢えて戦わずに逃げた。
 日向兵は草木が深く繁る場所に潜んでいるため、ヤマト軍が矢を射かけても木や草むらに(さえぎ)られ、容易に追撃することができなかった。
 深追いしたヤマト兵は狭い谷に誘いこまれ、上から岩や丸太を落とされて怪我人が続出した。
 やがて日没となった。
 ヤマト兵は疲れた身体を引きずって自陣へと引き揚げ、(かまど)を組んで煮炊きを始めた。
 兵士たちが(かゆ)と薄い汁の夕餉(ゆうげ)にありつこうとしたとたん、不気味な風音が舞った。
 矢の飛翔音である。
 矢は三輪山とは反対の畝傍山の方角から飛来してきた。
 まんまと背面を突かれたのである。
 兵士が三、四人、ぎゃっと悲鳴を上げて倒れた。いずれも背中に矢が突き立っている。
「敵襲だ!」
 叫んで立ち上がった兵士にも二本の矢が刺さり、うめきを上げて倒れたきり動かなくなった。
 あたりには(わん)からこぼれた粥や汁の臭いが漂った。
 焚火に落ちた椀や杯がくすぶってもうもうと煙を上げている。
 ヤマトの陣は大混乱に陥り、もはや夕食どころの騒ぎではなくなった。
 剣や弓を探してうろたえる者も続出した。
 その混乱に乗じて道臣率いる突撃隊が飛び込んだ。
 敵の只中に斬り込んだので矢で射られる心配もなく、道臣はあっという間に五、六人を斬り倒した。
 そのころになると、ようやく敵陣から日向軍に向かって矢が射返されたが、日向兵は鉄板を貼った木盾で防いだうえに、胴には短甲(たんこう)という鉄の(よろい)を装着していたので、ほとんど怪我人は出なかった。
 これらはすべて剣根が(こしら)えた防具である。
 優れた鍛冶師の存在が如何に重要か、日向兵は改めて思い知った。

 弟猾(おとうかし)弟磯城(おとしき)八咫烏(やたがらす)から成る遊撃隊は、後方に陣を張るヤマトの補給部隊を襲い、大混乱に陥れた。
 井光(いひか)石押分(いわおしわく)の子はムササビのような動きで、樹から樹へ軽々と飛び回って敵の弓隊を狙い撃ちしている。
 苞苴担(にえもつ)の子も茂みを利用して巧みに相手に近づき、襲っては逃げるという戦法で敵の部隊を攪乱(かくらん)した。縄文系の民が得意とする奇襲法である。

 三輪山の高台には大将である磐余彦と椎根津彦が布陣している。
 この前に立ちはだかるのが、ヤマト最強を誇る長髄彦の本隊である。
 ここでも日向軍は果敢に戦い、椎根津彦は高みから敵陣の手薄な所を見出し、的確な指示を与えて数的不利を感じさせなかった。
 そして磐余彦も、剣根が拵えた片刃の剣を手に溌剌(はつらつ)と戦場を駆け巡った。
 軽くて強く、しかもよく斬れる片刃の剣という〝新兵器″は、剣の達人道臣はもちろん、剣のあまり得意ではない磐余彦にも活躍の場を与えた。
 ただし磐余彦はむやみに敵を殺したりはしなかった。
 剣先で手首や足の(かかと)をさっと斬るだけだ。
 それだけで敵は剣を手離し、倒れ込んで戦闘不能となる。

 敵兵も戦いが終われば、それぞれの村で働き手としての役目を果たすことになる。
 仮に手傷を負って農作業に多少の支障が出たとしても、なんとか生きていくことはできる。
 殺してしまったら今まで生きてきたことが無駄になる。
 今は殺すか殺されるかの戦いをしている関係だが、磐余彦はそうした男たちの未来を(つい)えさせたくなかったのである。

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