第56話 苦い勝利
文字数 2,375文字
長髄彦との会談を終えて間もなく、ヤマト王ニギハヤヒから降伏の申し出があった。
「急な話だが、とにかく良かった」
「まだ信じられん」
磐余彦も側近たちの多くも半信半疑でいた。
そこへニギハヤヒが僅かな供を連れて、三輪山の磐余彦の陣に現れた。
一人として剣を持たず、鎧 も着けていない。
完全な武装解除の意思表示である。
「吾らヤマトは、磐余彦さまを新しき王としてお迎えすることで衆議一決しました。なれどこの者だけは心が捻 じ曲がっており、従わせることが叶いませんでした」
ニギハヤヒが跪 き、沈痛な面持ちで――少なくともそう見えた――麻袋を差し出した。
磐余彦は息を呑んだ。
袋に入っていたのは、数刻前に別れたばかりの長髄彦の首級 である。
「このままではこの者が新しき国造りの妨げとなるは必定。それゆえ、やむをえず誅 した次第にございます」
そう言って平伏した。
ニギハヤヒの言葉遣いや所作が、いちいち芝居がかっていると感じたのは気のせいか…。
磐余彦には俄 かには信じられなかった。
先ほどまで自分と会っていた長髄彦は、身体を張ってでも戦いを止めると言った。
そこに清々 しいまでの決意を感じた。
「信じられぬ……」
言いかけたとき、椎根津彦が押し止めた。
何も言うな、というように首を振った。
椎根津彦が止めたのを見て、ニギハヤヒは大きく肩で息をした。
安堵したのだろう。
平静を装いながらも、内心はやはり不安に苛 まれていたようだ。
――冷酷な男だ。自分が助かるためなら忠臣を容赦なく斬り捨てるとは!
磐余彦ははらわたが煮えくり返る思いだった。
とはいえ、多くの国々を束ねていくのは誰にでも出来ることではない。
たとえ部下を斬り捨ててでも、一族を長らえさせることが族長の使命だとすれば、ニギハヤヒの選択は正しかったのかもしれない。
いささか残酷な結末ではあるが……。
「これで磐余彦さまに王座をお譲りするにあたって、最大の障害は消えました。無駄な血を流すことなく、道を開いた吾の忠誠もお忘れなきよう」
付け入る隙のないニギハヤヒの口上に、磐余彦は返す言葉が見当たらなかった。
横からすかさず椎根津彦が言った。
「ニギハヤヒどの、新しき大王 とともに、よき国造りに励みましょう」
「ははーっ!」
ニギハヤヒに加え、従ってきた者たちも一斉にひれ伏した。
とんだ猿芝居である。
ニギハヤヒが去り、磐余彦の陣には静寂が戻った。
戦いは終わり、磐余彦たちは勝利を得たのである。
だが漂うのはほろ苦さだった。
「よく喋る男よ」
道臣が苦虫を噛み潰したような顔でぼそりと呟いた。
「好かぬようだな。お喋りは」
椎根津彦が微苦笑した。
「いかぬか」
道臣がぎろりと睨む。
「いや、吾も同感だ」と椎根津彦もうなずく。
椎根津彦自身も口数が少ないほうではない。
しかし実を伴った雄弁である。
それに比べニギハヤヒの場合は、ひとつひとつの言葉に誠意が感じられない。
計算高さと狡猾 さだけが透けてみえる。
「しかし、ヤマトの者たちとも手を携 えていかねばならん。吾らのほうが圧倒的に数は少ないのだから……」
椎根津彦が諭 すと、「分かっておる!」と道臣が吐き捨てた。
理屈では道臣もよく分かっている。
いま磐余彦がヤマトの王位に就いても、周りは敵だらけである。
いつ寝首を掻 かれるか分からない。
その危険を可能な限り避けるためにも、ヤマトの領袖 であるニギハヤヒを味方につけておく必要がある。
これは絶対的な命題といっていい。
――だが、あいつは嫌いだ!
のちに道臣は大伴 氏の祖となり、ニギハヤヒは物部 氏の高祖――正確には祖であるウマシマデの父――となる。
大伴、物部両氏は、ともに大王(天皇)家を支える軍事氏族として、古代ヤマト王権で勢力を誇った。
ただ、この両者の仲が必ずしも良好でなかったのは、こうした経緯 いきさつがあったからかもしれない。
余談だが、時代は下って用明天皇二年(五八七)、仏教の受容を巡って廃仏 派の物部守屋 と崇仏 派の蘇我馬子 の間で大規模な戦闘がが起こった。
仏教の信仰に熱心だった聖徳太子は崇仏派に与 し、蘇我氏が勝利した。
この古代史における大事件がきっかけで、日本に仏教が広がったことはよく知られている。
頭領の守屋が討たれ、以後物部氏は歴史の表舞台から遠ざかってゆく。
この戦闘に於いて守屋は、木に登って矢で反撃し、蘇我氏の攻撃を三たび撃退した。
しかし四度目に守屋を矢で射たのが、迹見首赤檮 という聖徳太子の舎人 (下級役人)である。
赤檮はその勲功により一万田を与えられた。
五十歩離れた鳥も射落とす、という弓の名手として歴史に名を残す赤檮は、忠義の人としても知られる。
この迹見首赤檮の出自については諸説ある。
有力なのが、三輪山南麓にある鳥見山 周辺を勢力とする迹見氏の出であるというものだ。
迹見氏は生駒山北東の鳥見山を本拠地とする鳥見 (登美)氏の支族で、赤檮は長髄彦の末裔ということになる。
つまりニギハヤヒの子孫・物部氏は、長髄彦を遠祖とする迹見氏にとっては仇敵なのである。
その長髄彦の血を引く赤檮が、約三百年の時を経て祖先の仇を討ったのだから、壮大な復讐劇というほかはない。
「とにかく、戦いは終わったんだ……これで誰も死なずに済む」
茫然と座っていた来目が我に返ったように呟き、続いて雄叫びを上げた。
「勝ったぞ!」
それにつられて日向の兵士たちも一斉に勝ち鬨 の声をあげた。
「そうだ、勝ったんだ!」
「これで日向に帰れる!」
喜びを爆発させる日向の軍勢を眺めながら、磐余彦は呟いた。
――ヤマトを守るために戦ったのは長髄彦どのだ。
長髄彦の首級は、無念の色を滲 ませながら虚空を仰いでいる。
――吾はあなたが忠義の人だったことを知っています。
磐余彦は目を瞑 り、長髄彦の魂に祈りを捧げた。
「急な話だが、とにかく良かった」
「まだ信じられん」
磐余彦も側近たちの多くも半信半疑でいた。
そこへニギハヤヒが僅かな供を連れて、三輪山の磐余彦の陣に現れた。
一人として剣を持たず、
完全な武装解除の意思表示である。
「吾らヤマトは、磐余彦さまを新しき王としてお迎えすることで衆議一決しました。なれどこの者だけは心が
ニギハヤヒが
磐余彦は息を呑んだ。
袋に入っていたのは、数刻前に別れたばかりの長髄彦の
「このままではこの者が新しき国造りの妨げとなるは必定。それゆえ、やむをえず
そう言って平伏した。
ニギハヤヒの言葉遣いや所作が、いちいち芝居がかっていると感じたのは気のせいか…。
磐余彦には
先ほどまで自分と会っていた長髄彦は、身体を張ってでも戦いを止めると言った。
そこに
「信じられぬ……」
言いかけたとき、椎根津彦が押し止めた。
何も言うな、というように首を振った。
椎根津彦が止めたのを見て、ニギハヤヒは大きく肩で息をした。
安堵したのだろう。
平静を装いながらも、内心はやはり不安に
――冷酷な男だ。自分が助かるためなら忠臣を容赦なく斬り捨てるとは!
磐余彦ははらわたが煮えくり返る思いだった。
とはいえ、多くの国々を束ねていくのは誰にでも出来ることではない。
たとえ部下を斬り捨ててでも、一族を長らえさせることが族長の使命だとすれば、ニギハヤヒの選択は正しかったのかもしれない。
いささか残酷な結末ではあるが……。
「これで磐余彦さまに王座をお譲りするにあたって、最大の障害は消えました。無駄な血を流すことなく、道を開いた吾の忠誠もお忘れなきよう」
付け入る隙のないニギハヤヒの口上に、磐余彦は返す言葉が見当たらなかった。
横からすかさず椎根津彦が言った。
「ニギハヤヒどの、新しき
「ははーっ!」
ニギハヤヒに加え、従ってきた者たちも一斉にひれ伏した。
とんだ猿芝居である。
ニギハヤヒが去り、磐余彦の陣には静寂が戻った。
戦いは終わり、磐余彦たちは勝利を得たのである。
だが漂うのはほろ苦さだった。
「よく喋る男よ」
道臣が苦虫を噛み潰したような顔でぼそりと呟いた。
「好かぬようだな。お喋りは」
椎根津彦が微苦笑した。
「いかぬか」
道臣がぎろりと睨む。
「いや、吾も同感だ」と椎根津彦もうなずく。
椎根津彦自身も口数が少ないほうではない。
しかし実を伴った雄弁である。
それに比べニギハヤヒの場合は、ひとつひとつの言葉に誠意が感じられない。
計算高さと
「しかし、ヤマトの者たちとも手を
椎根津彦が
理屈では道臣もよく分かっている。
いま磐余彦がヤマトの王位に就いても、周りは敵だらけである。
いつ寝首を
その危険を可能な限り避けるためにも、ヤマトの
これは絶対的な命題といっていい。
――だが、あいつは嫌いだ!
のちに道臣は
大伴、物部両氏は、ともに大王(天皇)家を支える軍事氏族として、古代ヤマト王権で勢力を誇った。
ただ、この両者の仲が必ずしも良好でなかったのは、こうした
余談だが、時代は下って用明天皇二年(五八七)、仏教の受容を巡って
仏教の信仰に熱心だった聖徳太子は崇仏派に
この古代史における大事件がきっかけで、日本に仏教が広がったことはよく知られている。
頭領の守屋が討たれ、以後物部氏は歴史の表舞台から遠ざかってゆく。
この戦闘に於いて守屋は、木に登って矢で反撃し、蘇我氏の攻撃を三たび撃退した。
しかし四度目に守屋を矢で射たのが、
赤檮はその勲功により一万田を与えられた。
五十歩離れた鳥も射落とす、という弓の名手として歴史に名を残す赤檮は、忠義の人としても知られる。
この迹見首赤檮の出自については諸説ある。
有力なのが、三輪山南麓にある
迹見氏は生駒山北東の鳥見山を本拠地とする
つまりニギハヤヒの子孫・物部氏は、長髄彦を遠祖とする迹見氏にとっては仇敵なのである。
その長髄彦の血を引く赤檮が、約三百年の時を経て祖先の仇を討ったのだから、壮大な復讐劇というほかはない。
「とにかく、戦いは終わったんだ……これで誰も死なずに済む」
茫然と座っていた来目が我に返ったように呟き、続いて雄叫びを上げた。
「勝ったぞ!」
それにつられて日向の兵士たちも一斉に勝ち
「そうだ、勝ったんだ!」
「これで日向に帰れる!」
喜びを爆発させる日向の軍勢を眺めながら、磐余彦は呟いた。
――ヤマトを守るために戦ったのは長髄彦どのだ。
長髄彦の首級は、無念の色を
――吾はあなたが忠義の人だったことを知っています。
磐余彦は目を