第46話 神に代わりて

文字数 1,995文字

 宇陀に戻った磐余彦は、敵の配置を探るため高倉山(たかくらやま)に登った。
 紛らわしいが、先に登った高見山は奈良県東吉野村と三重県松阪市との境界に位置する標高一二四八メートルの峻険(しゅんけん)な山で、別名「関西のマッターホルン」とも呼ばれる。
 それに対しこの高倉山は、宇陀(うだ)の古い町並みから少し外れた場所にある里山ともいえる低山である。
 とはいえ、(いただき)に登れば大和盆地との境にあたる山並みがくっきりと見え、その向こうにヤマトの根拠地がある。

 磐余彦が高倉山の頂に立つと、西の国見丘(くにみのたけ)の上に八十梟帥(やそたける)の軍勢が陣を張っていた。
 八十とは数えきれないほどの大勢、梟帥とは勇猛な兵士という意味である。
 北方の墨坂(すみさか)男坂(おさか)(忍坂)、女坂(めさか)のあたりまで敵が迫っていた。
 いずれも要害の地で、正面から打ち破るのは簡単ではない。
 さらに後方にはこの地方の豪族兄磯城(えしき)の大軍が待ち構えている。

 その夜、磐余彦は神に祈って眠った。
 すると夢に天神が現れ、
天香具山(あめのかぐやま)(やしろ)の土を取ってきて平瓦(ひらか)を八十枚作れ。同じくお神酒(みき)を入れる(へい)を作り、天神地祇(てんじんちぎ)(まつ)れ。さらに身を清めて呪詛(じゅそ)を行えば、敵は自然に降伏するだろう」
 と告げた。
 だが天香具山は敵陣の向こう側にある。
「どうすればよいだろう?」
 真っ先に相談したのは軍師の椎根津彦である。
「訳もないことです」
 そう言って椎根津彦は自らの策を簡潔に述べた。

 それを聞いていた一同が、一斉に椎根津彦を見た。
「その役、誰がやるんだい?」
 来目の言葉に、ぐっと詰まる椎根津彦。
 磐余彦が済まなそうに上目遣いに言った。
「言い出した者がやるのが、もっとも成功するであろうな…」
 一同がにやりとして、「さあ、支度だ!」と活気づいた。

「ぷっ!」
 椎根津彦の顔に泥化粧をほどこしていた来目が、こらえきれず噴き出した。
「渋い男もここまで来ると台無しだねえ」
 来目はさらに調子に乗って、顔に墨を塗り重ねようとする。
 椎根津彦がじろりと(にら)んだ。
「これっ、遊びではないぞ!」
 叱った道臣も、実は必死で笑いをこらえている。そのため怒ったような表情にならざるをえないのだ。
「なんでおいらまで…」
「背格好から、そなたしか頼めぬのだ」
 腐る弟猾に磐余彦が慰めの言葉をかけた。
 弟猾は細身で背も低く、顔立ちも整っているため、女に化けるのには適任だったのである。
 
 接ぎの当たったぼろぼろの着物を着て、破れた蓑笠(みのかさ)を被った老翁(ろうおう)が、憮然(ぶぜん)とした表情で(たたず)んでいる。
 隣にいるのもまた()を着た貧相な老婆である。
 翁のほうは椎根津彦、老婆のほうは弟猾(おとうかし)である。
 両名とも顔は泥や墨に(まみ)れて、端正な顔立ちは見る影もない。
 どこから見ても見すぼらしい老夫婦である。
 
 完全に老翁と老婆に成り切った椎根津彦と弟猾の姿を見て、案の定、敵兵は爆笑した。
 そして、「汚らしい年寄りどもだ。とっとと行け!」と、毛程(けほど)も疑わずに道を開けた。
 お陰で二人は無事に天香具山に登り、土を持ち帰ることができた。
 磐余彦は大いに喜び、この土を混ぜて平瓦や酒器などを作り、丹生川(にゅうがわ)の上流で天神地祇を祀った。
 『日本書紀』には、他にも水なしで(あめ)を作ることができたり、お神酒の瓶を川に沈めたら魚が浮き上がってきた、など不思議な現象があったと記されている。

 その後磐余彦は自ら顕斎(うつしいわい)となって皇祖神である高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の神降ろしをした。顕斎とはつまり神の()(しろ)となったのである。
 日本では古くから依り代といえば巫女(みこ)、つまり女がなるものとされていた。
 邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼(ひみこ)や十四代仲哀(ちゅうあい)天皇の(きさき)神功(じんぐう)皇后などがよく知られている。

 しかし能力があれば、男でも巫者(ふしゃ)の役目を果たせるのである。
 天地開闢(てんちかいびゃく)神話に登場する伊邪那岐(いざなぎ)伊邪那美(いざなみ)両神のうち、伊邪那岐命は男神である。「那岐(なぎ)」とは神薙(なんなぎ)の「薙」である。
 また『日本書紀』には「十代崇神(すじん)天皇の御代に国内に疫病が流行し、多くの死者が出たため占ったところ、大物主(おおものぬし)神による災いによるもので、その子孫を探し出して(まつ)らせよとお告げがあった。そこで子孫の大田田根子(おおたたねこ)に祀らせたところ、災いは収まった」とある。
 実はこの大田田根子もまた、男の巫者「巫覡(ふげき)」である。

 磐余彦は熊野で眠りから覚めて以降、自らの内に宿る神霊の力を強く意識するようになった。
 熊野では天照大神から授かった布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)で邪気を(はら)うことができた。
 しかしこの戦いを勝ち抜くためには、それだけでは十分ではなかった。
 自らが依り代となって、神託を受ける必要があったのである。

 『日本書紀』には磐余彦が「土の(かめ)厳瓮(いつへ)、火の名を厳香来雷(いつのかぐつち)、水の名を厳罔象女(いつのみつはのめ)、食べ物の名を厳稲魂女(いつのうかのめ)、薪の名を厳山雷(いつのやまつち)、草の名を厳野椎(いつののづち)と名付けた」と記されている。
 この「もの」に名前を付けること自体、神に代わって行う行為である。
 この時の磐余彦は、神と人間の間に立ち、土や火、水、食べ物といった自然界から与えられたものを敬い、神の名代として名を授けたのである。
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