第1話 樹上にて
文字数 1,941文字
高い空の上を薄雲が流れてゆく。
冬がすぐそこまで来ている。
「風が変わった」
男が空を見上げて呟いた。
逞しい身体とは裏腹に、色白で涼しげな目を持つ若者だった。すっと通った鼻筋が上品な印象を与える。
しかしその目がときおり射るように鋭い光を放つ。獲物を狙う鷲のような目である。
若者の名は
均整の取れた身体に生成りの衣と袴をまとい、左肩に
「今夜か、明日の明け方か……」
誰もいない空間に向かって、磐余彦がまた一人ごちた。
磐余彦がいるのは重畳たる山の連なりの、尾根の谷間に
樹齢数百年、高さ七丈(約二十一メートル)を越す
秋もたけなわで、四方に広げた枝々には養分を蓄えた団栗がびっしりと実っている。
この団栗を目当てにさまざまな生き物がやって来る。リスやウサギ、シカやイノシシに加え、タヌキやムササビも甘く熟れた実を心待ちにしている。
そして小さな獣を狙うキツネやイタチにとっても、椎の木の周りは絶好の狩り場となっている。
「手ごろな木に登ったら、まず木の声を聞くんです」
この森に来る前、磐余彦は
「木の声とは?」
驚きを隠さず磐余彦が訊いた。
「木が話しかけてくれるんでさあ」
何でもないことのように来目が答えた。
「どうすれば聞き取れるのだ?」
「まず、一生懸命念じるんです。『おれは敵じゃない』『ちょっとだけここに置いてくれ』ってね。そうして何日も話しかけていると、そのうち木が返事してくれるんです」
来目は身振りをまじえ、目をきらきらさせて言った。真剣そのもので、ふざけた様子は微塵もない。来目は小柄な体のわりに目玉が大きく、おまけに隈取りのような入れ墨をしているので余計に迫力がある。
熊襲は太古の昔からこの地に住み、狩猟採取をして暮らしてきた縄文の民である。だが海を越えてやってきた弥生人――稲作をはじめさまざまな先進技術をもたらした人びと――によって住み慣れた土地を追われ、今では南九州の奥深い場所でひっそりと暮らしている。
その迫害者たる弥生人の末裔である磐余彦に対し、熊襲の秘儀を授けているのである。
「幹の中から水の流れる音が聞こえるようになったら、こっちのもんです。木の言葉が自然に耳に入ってきますよ」
「それはすごい。なるほど、熊襲の狩りが優れているわけだ」
磐余彦が感嘆し、深くうなずいた。
「もちろん、“そんな気がする”ってだけですがね」
磐余彦があまりにも素直に信じるので、むしろ来目のほうが照れたようだ。
「それができたら狩りは成就するな」
磐余彦それには気づかず、何度もうなずいている。疑うことを知らない童のようだ。
来目も磐余彦も髪は
「ですが、絶対に無理はしないでくださいね。おいらだって三回に一回、いや五回に一回しか成功したことがないんですから」
むしろ来目のほうが弱気になってきた。
来目は村で一、二を争う狩りの名人である。その男にしても、今度の狩りが成功するか否か、不安に襲われているのが見てとれる。
なにしろ獲物が尋常ではない。
熊である。しかも並みの熊ではない、「
この邪悪な獣に、磐余彦はたった一人で立ち向かおうとしている。
「一人なんて無茶ですよ」
「そうです。吾もお供します!」
磐余彦の忠実な家臣である
むろん大人数で狩りをしたほうが成功率は高いし、身の危険も少ない。それでも磐余彦が単独の狩りにこだわったのには理由がある。
「熊を獲ると七代
熊を殺した者の家は子々孫々、七代に至るまで祟られる、という言い伝えである。森の守り神である熊をむやみに殺すなという戒めは、古くから各地に残っている。
もし狩りに成功しても、仲間に災いが及ぶのでは意味がない。呪われるのは自分一人でいい。たとえ狩りが失敗して食い殺されることになっても――
そう覚悟して、黒鬼が根城とする森に単身乗り込んだのである。