第9話 襲撃

文字数 3,184文字

 この日磐余彦は、日向(ひむか)から数里ほど離れた霧島連峰を望む小高い丘の草原に立っていた。
 鬱々(うつうつ)とした気分を晴らすために、日臣や来目など気心の知れた仲間と狩りに来たのである。

 磐余彦が人食い熊の黒鬼(くろおに)を倒してから、日向では凶事が続いていた。
 先日は魚獲りに出かけた小舟が転覆し、三人の命が奪われた。いずれも働き盛りの男たちだった。
 またある時は女たちが山菜採りに行ったところ、草むらから飛び出したイノシシの牙にかかって若い娘が息絶えた。
 娘はウガヤフキアエズ王の(きさき)、キクヤ(ひめ)の侍女だった。

 その頃から村では「黒鬼の(たた)りだ」と言い出すものが現れた。
 「熊を獲ると七代祟る」という言い伝えがあることはすでに述べた。
 さらに「熊一頭に子一人」という言い伝えもある。熊一頭を殺すと、自分の子供一人が犠牲になるというものだ。
 いずれにせよ、熊が特別な存在だったことをうかがわせる言葉である。

 今でも九州の祖母(そぼ)山地には熊塚(くまづか)が残っている。この地方に伝わる独特の風習で、熊を一頭殺したら鎮魂のために塚を立てたのである。
 鹿や猪を仕留めた場合にも供養塔や塚が立てられるが、この場合は千頭単位である。
 その点熊は一頭ごとに立てられたので、熊という生き物がそれだけ神格化された存在であることがうかがえる。

 この時代、死者は悪霊となって悪事を働くと信じられていた。ことに生前強い力を持っていた者ほど、とてつもない悪霊となって人々を苦しめるとされていた。
「黒鬼の祟りに違いありません。このまま磐余彦を日向に置くことは災いの元です」
 キクヤ媛は夫のウガヤ王に何度も訴えているが、王は今のところ耳を貸さないようだ。
 しかし、王位を巡って国の中に微妙な気配が漂っていることは磐余彦も承知していた。

 磐余彦の目は、前方の草原に鋭く注がれている。五感を研ぎ澄まし、どんな些細な変化でも見逃さぬよう集中している。
 そのとき前方の背の高い(すすき)の穂先が微かに揺れた。
――いるな。
 磐余彦は前方の草むらを見据えたまま、そっと歩を進めた。
 角の先端が見えた。大きなオスの鹿である。
 距離は五十歩ほど。磐余彦の腕なら十分仕留められる距離だ。

 磐余彦は矢を(つが)え、静かに弦を引き絞った。
 静かに息を吐き、待つ。次に気配がした瞬間には矢が放たれる。
 と、その時。左手の森の中から、
——ぎゃあーっ!
 不意に絶叫が聞こえてきた。続いてがさがさと(やぶ)をかき分ける音。
「助けて!」今度は叫び声だ。
 鹿が驚いて右に跳ね、あっという間に矢の届かない距離に逃げていった。
――何ということだ!
 磐余彦は舌打ちした。
 しかしすぐに「これは狩りどころではない」と思い直し、声のする方向に走った。

 声の主は共に狩りをしている仲間ではない。だが助けを求めている以上、見過ごすことはできない。
 磐余彦は森の手前で立ち止まり、ひゅっと口笛を吹いた。
「おいらはこっちです!」
 右の森の中からよく通る声がした。来目である。
 磐余彦から八十歩ほどの距離にいて、森の中を素早く移動しているのが気配で分かる。南九州に古くから住む熊襲(くまそ)の男で、森の中でも猿のように俊敏に動き回ることができる。

「吾も参ります!」
 左手の岩陰から姿を現したのは日臣である。ふだん無口な男が、獣の咆哮のような雄叫びを上げながら駆け寄ってくる。
 鞘から太刀を抜き払い、長身を躍動させながら疾駆する姿は鬼神のようだ。
 いざという時にはこれほど頼りになる男はいない。日向きっての剣の達人である。

 ほぼ同時に現場に着いた三人が見たものは、凄惨な光景だった。
 数人の男が血まみれで横たわり、血の臭いがたちこめる。すでに息はない。
 その向こうで、一人の高貴な身なりの老人を取り囲んで、七、八人の男たちが剣や斧で切り付けている。

 襲撃しているのはいずれも黒っぽい装束に黒い布で顔を隠した男たちだ。
 隠しようのない明らかな殺意が感じられる。
 少し離れて指揮を執っている男は、鹿角の付いた鉄兜を被っている。
 一味の首領のようだ。
 老人は短剣を振り回して懸命に抵抗を試みるが、多勢に無勢で体中を斬られ、血まみれになっている。
「何をしている!」
 叫ぶと同時に、磐余彦が十間(約三十メートル)離れた距離から矢を放った。
 振り向きかけた賊の一人が悲鳴を上げて前のめりに倒れた。背中に矢が深々と刺さっている。
 賊どもが一斉に振り返った。
 
 その隙に輪の中央に押し入った日臣が鋭く剣を振った。
 すさまじい早業に二人の男がたちまち斬り伏せられ、立て続けに絶叫が上がった。肩口がざっくりと斬り裂かれている。
 日臣が手にする素環頭大刀(そかんとうのたち)は、長さ二尺七寸(約七十八センチ)、両刃の直刀である。
 斬れ味鋭い、湾曲した片刃の日本刀はまだこの時代にはない。だが日臣は、それを補って余りある剣の技を身につけている。
 長身で引き締まった肉体と、真っ直ぐな眉に高い鼻筋の精悍な風貌をもつ。
 剣を上段に構える姿には、剣士としての風格が滲む。
 
 賊たちが(ひる)んだ隙に、
「あらよっ!」
 という掛け声とともに、樹上から黒い影が降ってきた。来目である。
 石椎(いしづち)という短剣を両手に一丁ずつ持ち、大きな目でぎょろっと睨みながら、舞うように自在に剣をふるう。
 断末魔の叫びとともに男が倒れた。
 離れた敵には細い棒の手裏剣を放った。目に突き刺ささった男が悲鳴を上げて身悶える。
 
 来目の目が大きく見えるのは、熊襲の男の習俗で目の周りに入れ墨をしているせいである。入れ墨には魔除(まよ)けの意味がある。
 熊襲は日本列島に古くから暮らした縄文人(古モンゴロイド)の流れを汲む。
 小柄だががっしりした身体に長い手足を持ち、毛深いのが特徴である。ごつごつした彫りの深い顔で眉も唇も太い。
「なめるな!」
 思わぬ敵の登場に、形勢不利を悟った鹿角兜の男が剣を抜き、磐余彦めがけて突進してきた。
 弓を構えている暇はない。

 磐余彦は青銅の剣を抜き、身構えた。
 するどい金属音とともに火花が飛び散る。
「王子!」
 日臣が心配そうに振り向く。
「大丈夫!」
 相手の剣を受け止めた磐余彦は、体を入れ替えた瞬間に相手の胴をなぎ払った。
 しかし浅く腰を切っただけで、致命傷は与えられなかった。

「引け、引け!」
 首領の号令で賊がいっせいに逃げ出した。
 磐余彦はほっと息をついた。追い掛ける余力は残っていなかった。
 念のため辺りの気配を探り、賊が戻ってこないのを確認してから老人に駆け寄った。

 だが老人は左胸に致命傷を負っており、すでに虫の息だった。
「これを……阿多(あた)の……」
 口から血を吹きながら、必死でそれだけ言うとこと切れた。
「この爺さん、隼人(はやと)ですね」
 来目がぽつりと言った。

 こんにち「薩摩隼人(さつまはやと)」といえば、鹿児島の勇猛な武士を表わす言葉として知られる。
 だがもともとは、()種(本州人)とは容貌や風俗、習慣、言語なども異なる異種族とみなされていた。
 名前の由来は「すぐれて敏捷(はや)猛勇(たけ)き人の意で、“はやびと”から来る」と本居宣長(もとおりのりなが)の『古事記伝』に記されている。
 隼人も、来目の出自である熊襲と同じく縄文系で、東北の蝦夷やアイヌと同じく古くから日本列島に住み着いた古モンゴロイド人種であるといわれる。

 殺された隼人の男は、立派な身なりや装飾品などからかなり高い身分のようだった。大きな包みを手に握ったまま死んでいた。
 磐余彦が包みを開けてみると、鮮やかな緑色の円盤が現れた。
 材質は石で、毛皮や布で幾重にもくるまれ、精緻な絵柄が彫られているので磐余彦にも貴重品であることは分かる。
 ただし普通の皿とは異なり、中央に大きな穴が開いている。
「これは何だろう?」磐余彦の問いに、
「皿じゃねえみてえだし……」
「吾も初めて見るものです」
 来目も日臣も首をひねるばかりだ。
 三人の若者は互いに顔を見合わせて、戸惑ったように苦笑した。
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