第2話 瓜坊

文字数 2,355文字

 夕闇が迫る中、磐余彦は木の上で六度目の夜を迎えようとしていた。
 その時ふいに気配を感じた。
――何かが来る。
 気配のする方角には(やぶ)しか見えない。何かがいれば枝や葉が揺れる筈だが、目を凝らしても何も動かない。

 だが木の上に留まっている六日間のうちに、磐余彦の感覚は研ぎ澄まされ、姿を見せない生き物の存在を感知できるようになっていた。驚くべき進歩である。
 あいにく来目が言う「木と会話できる」までには至っていないが、鳥や獣たちのわずかな息づかいや熱を感じ取ることができる。

 磐余彦は静かに弓を引き寄せた。
 磐余彦がこの狩りに携えてきた武器は、弓矢と頭椎(かぶつち)の刀のみである。
 それには理由がある。多くの武器を手にしたところで、熊との戦いのさなかに一度に使うことはできない。弓矢による必殺の一撃を逃したら、あとは刀を振り回すことぐらいしか猶予はない筈だ。そう肚をくくって最小限の武器に留めたのである。

 食料は干した鹿肉のほかにヒエの干飯で、素焼きの瓶に水を汲んである。木の洞に食料と水を置き、昼夜を問わず黒鬼が来るのをひたすら待つ。眠くなったら身体を幹に縛り付けて寝る。
 小便は使い古した皮袋に溜めて、下に降りた時に川に流す。大便はここから少し離れた場所にあるタヌキの溜め糞に紛れて用を足す。いずれも人の臭いを残さないためである。

 磐余彦が細心の注意を払うのには理由がある。
 ふつうツキノワグマは雑食で、団栗や栗などの木の実や果実、ヘビや昆虫、動物の死骸から魚に至るまで何でも食べる。よほどのことがない限り、人を襲うことはない。
 ところが「黒鬼」はもっぱら生きた人間を殺して喰らうのである。

 この辺りは村同士の戦いが長く続き、多くの兵士が戦いで死んだ。戦いが終わったのはほんの五、六年前である。
 黒鬼は戦いに(たお)れ、野ざらしになっていた人の死肉を食うことで味を覚えた。食ってみると人間は思いのほか美味だった。

 一度味をしめると、次からはもっぱら人を標的とするようになった。偶然に姿を現す他の熊とは異なり、黒鬼は明らかに人間を狙って狩りをした。すばしこい他の動物に比べて人間は動きも鈍く、狩りはすこぶる楽だった。
 これまで六人もの村人が黒鬼に食い殺されている。

 最初は山菜採りに出かけた老人が餌食になった。次に川で水浴びをしていた子供が襲われた。
 それからしばらくして、今度は若い男女が木蔭で睦み合っている最中に襲われた。男は巨大な掌で首の骨を折られて即死。女も逃げようとしたところを襲われ、首筋を噛まれたのが致命傷になった。
 川に落ちた身体の破片が川下に流れ着いて発覚した。襲われた現場には骨まで砕かれた男の死体が散らばっていた。
 辛うじて難を逃れた村人の証言から、黒々とした剛毛を逆立てて立ち上がるさまが悪鬼のようだったという。そのことから「黒鬼」と呼ばれるようになった。

 放っておけなくなった長老たちが罠を仕掛けて捕まえようとした。
 しかし黒鬼は老獪(ろうかい)だった。どんなに巧妙に仕掛けても罠にはかからず、最後の手段として村じゅう総出で狩りを試みた。
 狩りには磐余彦も加わり、勢子に追い立てられた黒鬼が尾根の上に現れるのを待って仕留める手筈だった。

 ところが黒鬼はそんな人間の浅はかな計略をあざ笑うように、囲みのど真ん中に現れた。大混乱に陥った勢子の一人が首を吹き飛ばされ、もう一人は鋭い爪ではらわたをえぐられ、もがき苦しみながら息絶えた。いずれも働き盛りの男たちで、村は大きな損失を被った。
 悲鳴を聞いた狩人が駆けつけて矢を放ったが、体をびっしり覆った剛毛と厚い脂肪に阻まれて内臓に達することはなかった。
 黒鬼はその後も何本も矢を受けながら、いずれも致命傷には至らず崖をよじ登って逃げてしまった。

 黒鬼はいまや悪霊の化身として恐れられ、農作業に出る者もいなくなった。
 このままではせっかく(みの)った作物の収穫もおぼつかない――

 右手の草むらがわずかに揺れ、磐余彦は我に返った。落ち着けと言い聞かせながら、弓に矢を(つが)えて静かに弦を引き絞る。
 しかし薮の中から姿を現したのはイノシシだった。大きな褐色の頭に続いて二つの小さな頭が見えた。胴に縞模様の入った瓜坊(うりぼう)二匹を連れたイノシシの母子である。
 磐余彦は弦を引く右腕をゆっくり戻し、深く息を吐いた。ぴんと張りつめた緊張の糸がほどけた。

 ふだんの狩りなら、イノシシは獲物として申し分ない。だが今回の標的はあくまで黒鬼である。
 母イノシシは子イノシシを呼ぶと、早く食べるよう促した。母に見守られながら、瓜坊どもはがつがつと団栗を貪り食った。その間小半刻(約三十分)。
 地面から団栗があらかた消えると、イノシシの母子はげっぷをしてのそのそと薮の中に消えた。食料の乏しい冬に備えて、まだまだ食わねばならないのだろう。

 イノシシが去って間もなく、今度はリスが磐余彦の肩に下りてきた。
 しかし磐余彦はまったく動かない。いまの磐余彦は、獣たちにも「木の一部」と見做(みな)されている。
 リスは警戒する様子もなく、するすると幹を伝って地面に降りていった。

 昨日まで、静謐(せいひつ)な夜が続いていた。
 夜のしじまを破るのは夜烏の羽ばたきか、遠くの峰で吼える狼の声くらいだった。
 獣たちの静かな動きに合わせるように、風も()いでいた。

 ところが今日は一転して、山から冷たい風が吹き降りた。
「奴が来る」
 磐余彦は確信した。間もなく黒鬼がやって来る。

 強い風にあおられて椎の大木が激しくゆれ、その度に団栗がばらばらと落ちた。
 団栗の雨は磐余彦の顔や身体にも遠慮なく降ってくる。
 だが磐余彦は気にするどころか、その感覚を楽しんでいるようだった。
 しばらくすると、先ほどイノシシが食べ尽くした辺りにも、びっしりと団栗が敷き詰められた。
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