第16話 珍しき男
文字数 1,882文字
岬に突き出た
眼下に広がるのは
この辺りは九州と四国の間のもっとも狭い海域で、瀬戸内海と太平洋をつなぐ海上交通の要衝でもある。
男の立つ場所からは、ぽっかり浮かぶ
そのひと息で渡れそうな狭い海峡が、古くから瀬戸内海の潮流と太平洋の海流がぶつかる難所として知られてきた。
速吸之門はその名の通り、潮の流れがきわめて速い。
波も荒く、地元の漁師たちにも危険な場所として怖れられてきた。
半面この海で獲れるアジやサバは身が締まり、脂がのっている。
豊かな海の幸と隣り合わせの危険な海である。
男はよく晴れた空と穏やかな海を見て、不満気につぶやいた。
「ふん、今日も何事も起きぬか」
理知的な顔をしているが、どこか屈託を感じさせる陰がある。
切れ長の目に鼻筋の通った端正な面立ちで、年の頃は四十絡み。
細身だがよく鍛えられた身体の持ち主で、まっすぐな黒髪が潮風にそよいでいる。
男の名を
文字通り「めずらしい」名前である。
ただし元の意味は「貴重なもの」「尊いもの」で、「変わっている」「珍奇」など、やや否定的な意味合いは後世になって付与されたようだ。
書物によっては渦彦とも呼ばれるが、速吸之門の激しい渦に因んだ名かもしれない。
珍彦は大陸から海を越えてやってきた渡来人の末裔である。
父祖の国名は呉、『三国志』で覇を競った魏呉蜀のうちの一国である。
呉は西暦二八〇年に魏によって滅ぼされた。
呉の軍師を務めた珍彦の父は、幼い珍彦を連れて粗末な帆の付いた船に乗り、命からがら祖国を脱出した。
大陸の沿岸から黒潮に乗り、東シナ海を渡ってようやく漂着したのが九州の南端である。
さらに何度か陸伝いに沖を渡って佐賀関にたどり着いた。
その父が故郷を
珍彦は一人漁をしながら、その後の
佐賀関の突端から見下ろす海岸線には、小さな漁村がへばりつくように点在している。珍彦にとっては代わり映えしない光景である。
珍彦は
家は海岸沿いに建つ漁師の集落から少し離れた小高い丘の上に建っている。
家そのものは他と変わらぬ粗末な小屋だが、ひときわ目立つのが隣に大層な小屋を建てていることだった。
鳥小屋である。
しかも人の住む家に比べても分不相応なほど大きい。
太い木でがっしり組んだうえに、蔓を細かく編んである。少々雨風が吹いたくらいではびくともしない。
珍彦はここで奇妙な鳥を何十羽も飼っている。大きさはヒヨドリより少し大きいくらいだが、頭は小さく羽の色は全体に青みを帯びた灰色で、翼に二筋の黒い帯がある。
少なくとも当時の倭に棲むキジやヤマドリとは明らかに異なっている。
「珍彦さんよう」
鳥小屋に入ろうとした時、後ろから呼び止められた。
振り返ると顔馴染みの漁師たちがいた。全部で四人だ。
首領格の男は
赤く焼けた顔に深く刻まれた
他の三人はたしか
日頃から他人が干した魚をくすねたり、隣村の娘に
「あんたが飼ってなさるその鳥はなんという名です。このあたりでは見かけん鳥じゃ」
狛が
「鳩だ。
珍彦が微笑を浮かべて答えた。
「はと、だすか?」
「そう、何百里も離れた場所から戻ってきて、戦の知らせも届けてくれる便利な鳥だ」
「ほう」
「そりゃすげえ」
漁師たちはいたく感じ入った様子でうなずいた。
不自然なほど大きな仕草だった。
小屋の中では何十羽もの鳩がくるくると
この時代、日本列島には鳩(カワラバト)はまだいなかった、とされる。
日本に渡来したのは飛鳥時代(六世紀末~八世紀初頭)と考えられている。
だが「漢書」や「三国志」などを読むかぎり、それより遥か以前から、倭国と大陸や半島の間で頻繁に往来があったことは事実である。
さらに大陸の動乱を機に、多くの難民が日本列島に逃げて来たことも疑いようがない。
記録に残る以前から鳩が持ち込まれていたとしても不思議はない。
渡来人の血を引く珍彦は、それより遥か前に鳩の有効性を知っていたのである。
漁師たちがちらっと口元を緩めるのが見えた。
しかし珍彦は何事もなかったように家に戻っていった。