第48話 事代主の覚悟

文字数 3,952文字

 磐余彦率いる日向軍は、激戦の末に墨坂(すみさか)兄磯城(えしき)を破った。
 これにより、残る敵は長髄彦(ながすねひこ)率いるヤマト本隊のみとなった。

 勝利のあと磐余彦は三輪山(みわやま)の麓に陣を張り、兵を休ませていた。
 そこへ剣根が数人の供を連れて現れた。宇陀から駆けつけてきたのだ。
「大勝利おめでとうございます」
「おお。(いまし)が鍛えてくれた剣や(やじり)(よろい)のお蔭で戦に勝つことができた。心から礼を言う」
「もったいないお言葉。戻ったら天目一箇神(あめのまひとつのかみ)に御礼を申し上げましょう」
 剣根は製鉄・鍛冶の神名をあげて破顔した。

「今日は客人をお連れしました」
 剣根の後ろに控えている小柄な男が進み出た。
 高価な絹の衣装を纏い、翡翠(ひすい)の首飾りをした、立派な身なりの老人である。
 顔は皺だらけだが、瞳の奥に宿る輝きに大人(たいじん)の風格が滲む。
事代主(ことしろぬし)殿でございます。吾とは古い付き合いで、このたび磐余彦さまにお目に掛かりたいと仰せになり、お連れいたしました」

 三輪山一帯に勢力を張る事代主の一族は、ヤマトの中でも有力な豪族の一つである。
 現王のニギハヤヒにとっても、三輪一族の意向は無視できない。
「はるばる日向(ひむか)よりの遠征、陰ながら見守っておりました」
「田舎者ゆえヤマトの方々にはさぞご不興を買っているかと心配しておりましたが、こうしてお迎えいただき感謝のきわみです」
 二人は挨拶を交わしながら、互いの度量を計り合った。

 磐余彦はヤマトの豪族きっての重鎮、事代主と初めてまみえ、威厳とともに不思議な懐かしさを覚えた。
――塩土老翁(しおつちのおじ)に面影が似ている。
 日向の残して来た師のことを思い出し、束の間の郷愁にかられた。
 一方事代主は、この若者がたぐい(まれ)な貴相の持ち主であることに驚いていた。
――だが人は顔だけではない。一見整った風貌でも心根は卑しい者を数多く見てきた。果たして中身はいかがなものか?

 そんな事代主の内心を知ってか知らずか、磐余彦は静かに語り始めた。
「我らはただ征服することが目的で、ヤマトに入ろうとしているのではありません。事代主さまもご承知のように、いま唐土(もろこし)は千々に乱れております。だがいずれ必ず強大な政権が生まれるでしょう。吾はその脅威が倭国に及ぶ前に、国を一つに束ねたいと願うのです」
 ヤマトが小さなクニ(部族)の緩やかな連合体であることは、卑弥呼(ひみこ)が女王として君臨した時代から変わっていない。

 ただかつては代表者たる王(女王)の力が強大で、外国との通交にも王の承認が必要だった。
 ところが今は、各豪族が個々に外交通商を行う方式に戻っている。
 すると或る豪族が親しくする国と、別の豪族の友好国の間で紛争が起きた場合、豪族同士の利害が絡んで右顧左眄(うこさべん)し、倭国として統一した外交方針がなかなか定まらない。
 それが続けば国の紐帯(ちゅうたい)が緩み、外国に付け入られるのは火を見るより明らかだった。

 磐余彦が続ける。
「卑弥呼さまの頃はただ()に遣いを送っていればよかったでしょう。しかしいまの唐土は政権が代わり、周辺の国も大きく変わりました。なのに倭国はいつまでも様子を(うかが)うだけで、自ら動こうとはしない。これでは大国に隷属(れいぞく)する関係から永久に抜け出せないでしょう」
「つまり唐土の行く末がどうなろうとも、倭国は倭国で、自律的に動かねばならぬと言われるのですね」
 事代主が真意を念押しする。
「そうです。ヤマトも吉備も、そして出雲も筑紫も日向も、ともに手を携えて〈国家〉を作らねばならぬ時が来たのです。今のような小国同士の繋がりのままでは、いつまで経っても強大な外国には太刀打ちできぬでしょう」
 言葉が次第に熱を帯び、磐余彦は身ぶり手ぶりも交えて語った。

 磐余彦が目指したのは〈建国〉、つまり倭国全体を統治する一個の政権を樹立することである。
 事代主は黙って磐余彦の話を聞いていたが、おもむろに口を開いた。
「磐余彦さまが国を(うれ)うお気持ちはよく承りました。これまでヤマトの内でも、豪族がそれぞれ軍を持つだけでなく、一つに束ねるべきと語り合った時代もございました。なれどその度に一部の者の反対に遭って立ち消えになり、今に至っているのです」
 時の権力者にとっても、旧弊(きゅうへい)を改めて新しい制度を実行するのは、口で言うほど生易(なまやさ)しいものではない。
 権力基盤を支えてきた層の利害も絡み、抵抗は必ずある。
 無理に押し進めれば自らが足を(すく)われる恐れもある。
 それを恐れて皆二の足を踏むのである。

「いっそ旧態の(しがらみ)とは無縁のあなた様のような方が、新たに国造りをするほうが遥かに容易(たやす)いかもしれません。ただし急ぎすぎれば国は乱れ民が苦しみます。それでもやるべきだと?」
 念を押すように事代主が訊ねた。
「確かに、豪族たちも多くは反対するでしょう。民もいきなり『国家』と言われても、はじめは戸惑うかもしれません。だが唐土の行方が定まらない今だからこそ、やってみるべきだと考えます」
「ただし民は食えなくなれば怒り、怠け、最後には逃げるでしょう。民を治めるのは一筋縄ではいかないというのが、この老いぼれの知るところです」

「ならば、事代主さまは民をどう扱うべきだとお考えですか?」
 今度は磐余彦が訊いた。
 だが事代主は答えない。
 逆に「磐余彦さまはどうすればよいと?」と聞き返してきた。目に光が宿っている。
 事代主は明らかに磐余彦を試している。
 磐余彦の可能性と限界を見極めようとしているのかもしれない。

 磐余彦はひとつ息を吸って思うところを正直に述べた。
「吾が思うに、よき国造りとは民の日々の暮らしに安寧を与え、それが末長く続けることでしょう。そのためには民に食べる物と住む場所、そして健やかなる暮らしを与えることが肝要かと考えます」
 事代主がうなずいた。ただし目の光は消えていない。
「しかし、そのためには上に立つ者はまずおのれが正しいと思う政策を立て、誠意をもって実行しなければなりません。そうしなければ豊かな国など絵に描いた餅になってしまいます。民の声にはできるだけ耳を傾けつつも、おのれが正しいと信じるなら、たとえ民が従わない場合でも、果断に事を進めなければならないと考えます」
 事代主は「ほう」と目を見開いた。

「仮にその時に暴君と呼ばれようとも、吾は怖れません。名君か暴君であるかの判断は、のちの世の人に任せればよいことです。為政者と民とでは、評価が真逆になることもあるでしょう。また時代によって評価が一変することもありましょう。唐土でも若い頃は名君と呼ばれた皇帝でも、年を経るに従って暴君に豹変(ひょうへん)することもあると聞きました。つまり暴君と名君の差は紙一重なのかもしれません。むろん吾は暴君とは呼ばれたくないですが」
 磐余彦の率直すぎる答えに、事代主は思わず笑った。

 しかし決して馬鹿にしたり、苦々しく思っている訳ではないことは気配で伝わる。
――この若者には恐れを知らない気概がある。これはヤマトの者にはないことで、田舎者と言ってしまえばそれきりだが、この爽やかなまでの素直さには抗しがたい魅力がある。しかも言葉には未来を見据えた重みも感じる。果たしてこれは神意なのか……。
 事代主はいつの間にか、この若者に好意を抱いていることに戸惑いを覚えた。
 
 そんな事代主の心を知ってか知らずか、磐余彦は拳を握って熱く語った。
「むろん民を幸せにすることが、王たる者のもっとも大事な務めであります。しかし吾は倭国のような小国はまず、外国からの侵略を防ぐことを優先すべきだと思うのです。吾は日向で師から『蟹の甲羅のごとく硬く、(はさみ)のごとく鋭く』が国防の(きも)である、と教わりました」
 その意味は、蟹の甲羅のように守りが堅ければ、敵もいたずらに攻める気持ちは持たない。
 だがこちらが隙を見せれば、初めは攻め入る気持ちがなくとも、良からぬ心が芽生えるかもしれない。
 相手に悪しき心を芽生えさせるのもまた、悪しき(まつりごと)のゆえである、ということである。

 磐余彦は話しながらふたたび塩土老翁の顔を思い浮かべた。
「心に響くお言葉です。歓心を買おうとして綺麗事(きれいごと)を並べる者が多い中、たいへん珍しい」
 事代主の言葉が磐余彦を現実に引き戻した。
「吾は民にはただ楽をさせればよい、とは思わないのです。国にとって何が善で何が悪か、何が栄える道で何が滅びる道か、民にも学ぶ機会を与えることが必要だと考えます。そうして民に学ばせ、豊かになる道を自ら選べることが、良い政なのではないかと吾は考えます」
 冷静に言葉を(つむ)ぐ磐余彦。

「たしかに、その考えは理に(かな)っています。それが実現するためにも政が安定しなければならないのも道理です」事代主は何度もうなずいた。
 しかしここで磐余彦は突然頭を()いた。
「とはいえ、その機が熟しているか否か、今がその時なのかは吾にも分かりません」
 心持ち顔を赤らめながら率直に胸の内を明かす。
 そんな磐余彦の姿を見て事代主は思わず微笑んだ。
「本当に飾らないお方だ」
 そう呟いたのを最後に、事代主は固く目を(つむ)った。

 磐余彦の掲げる理念が果たして今この国にとって正しい道で、しかもそれが成就するか否かは事代主にも分からない。
 ただ事代主にとってこれは大きな()けである。
 磐余彦が三輪一族の命運を託すに足る人物か、そして今が「その時」か、見極めが必要である。
 診立てを誤れば、一族ことごとく無残な(むくろ)(さら)すことにもなりかねない。

――それでも……。
 事代主は顔を上げ、まっすぐ磐余彦の目を見て言った。
「この老いぼれの身、存分にお使いください。磐余彦さまの国を憂うお気持ちに、我が身を捧げましょう」
「事代主さま!」
 磐余彦は事代主の前に膝を進め、両手を握った。
 事代主の手は、老人とは思えぬほど力強かった。
                                  (第九章終わり)


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