第42話 王の資質
文字数 1,975文字
丹敷戸畔を倒したあと、磐余彦が村人たちを宣撫 して、丹敷の村に平和が戻った。
村にとっては元々ヤマトに臣従する根拠が乏しかったので、進んで磐余彦の行軍に必要な物資を提供した。
海岸まで引き返した磐余彦は、浜に残してきた兵を集めて軍議を開いた。
吉備を出発した時は五百人以上いた兵士が、今では四十人ほどに減ってしまった。
度重なる戦闘や海難により、意気阻喪 してしまった者も少なくない。
当初は紀伊半島を船で周回して伊勢に上陸し、そこから初瀬 街道を抜けて大和平野に進軍する計画だった。
だが嵐に遭 い船を失っってしまったので、もはや海路を進むことは叶わない。
かくなる上は、峻険 な紀伊の山塊 を縦断してでも宇陀 に辿り着くしか方法がなかった。
宇陀では隼手が兵を徴募し、剣根が武器を山と積んで待ちわびている筈である。
どれほど困難な道であろうとも、山を踏み越えてゆく以外に手だてがなかった。
ただし、紀伊山地の脊梁 たる台高 山脈の縦走は、現代の上級登山者にとっても難度の高い山行である。
この時代ろくな装備も持たない磐余彦たちが越えようとするのは無謀と言えた。
軍議の席で椎根津彦が磐余彦に問うた。
「一度日向に戻るという選択肢もありますが」
「いや、ここで引き返したのでは死んだ兄たちや仲間の死が無駄になる」
磐余彦がきっぱりと返した。
「しかし我らはもはや、武力において圧倒的にヤマトに劣ります。我らは如何にすればヤマトを攻略することができましょうか?」
質問したのは吉備から付いてきた兵卒の頭・岩丸 である。
元は石見 (島根県西部)の武将だったが、ヤマトに国を滅ぼされ流浪の民となっている時に日向軍の旗下に加わった。
この男の下には主に出雲 や吉備から加わった兵士がいる。
磐余彦は岩丸の目をまっすぐに見て言った。
「我らはたしかに孔舎衛坂 では手痛い敗北を喫した。だがそれは敵を知らずに無謀な戦いを仕掛けたからだ。しかし今の吾には天照大神 がついておられる。その証がこの布都御魂剣 だ。どうか吾と吾を助ける神を信じ、ともに戦ってくれぬか」
神剣を高く掲げて発する磐余彦の力強い檄 に、岩丸はもちろん兵士たちも感服して聞き入った。
磐余彦の言葉はさらにつづいた。
「今のヤマトは一枚岩ではない。敵意を抱いている者も少なくない。我らに味方する者も必ず出てくる筈だ。吾はこれからは武力にのみ頼るのではなく、ヤマトの民に我らが為さんとする政 を説き、民を味方につけながら大業を為すつもりだ。政は武のみによって行われるものではない。政を行うには、六つのものがなければ天下は従わぬ。度量、信義、仁愛、恩恵、権力、信念である。この六つを備えて初めて、天下の政治を行うことができるのだ」
兵士たちが一斉に「ほう」と感嘆の声を上げた。
その顔がいずれも喜びに満ちているのは、磐余彦の言葉が新鮮で、かつ前向きに捉えている証拠だろう。
磐余彦が説いたのは古代中国の兵法書『六韜 』中に書かれた「武韜 」順啓 のくだりである。
長く厳しい旅をつづけながら、磐余彦は椎根津彦を通じてさまざまな知識を吸収してきた。
「王としての資質が花開かれたようだな」
その様子を見て椎根津彦が満足気に呟いた。
磐余彦の言葉はなおも続いた。
「海を隔てた大陸では、いつまた政変が起きるか分からぬ不穏な情勢が続いている。倭国の支配層であるヤマトの豪族たちも、さぞ不安であろう。それなのに、誰も敢 えて火中の栗を拾おうとはしないのは、根から腐りかけている証ではないのか」
煽動 ともとれる激烈なヤマト政権への批判である。
兵士たちは固唾 を呑んで磐余彦の発する言葉に聞き入っていた。
「このかけがえのない倭国を救うためにも、吾がヤマトの王となる。それには皆の力が必要だ。どうか吾に力を貸して欲しい!」
磐余彦の一言ひとことが、兵士たちの心を熱く駆り立ててゆく。
倭国の民は、新しい時代の舵取りをしてくれる強い王を紛れもなく渇望している。
その王に最もふさわしいのが磐余彦である。
それを証明するためにも、乾坤一擲 のこの戦いに是非勝たなければならない。
日臣が立ち上がって拳を突き上げた。
「吾は死に物狂いで戦う。皆も戦え!」
「そうだ、吾も戦う!」
兵士たちから怒涛のような合唱が起こった。
椎根津彦も日ごろの冷静さをかなぐり捨てて、拳を天に突き上げた。
「磐余彦さまをヤマトの王にするのだ!」
それに呼応して、兵たちが目を赤く腫 らして一斉に叫んだ。
「磐余彦さまを王に!」
「そうだ、磐余彦王だ!」
獣の咆哮 のような声が繰り返し起こり、打ち寄せる波の音をかき消した。
「行こう、ヤマトへ!」磐余彦が力を込めて号令した。
「ヤマトへ!」
ふたたび力強い唱和が返ってきた。
(第八章終わり)
村にとっては元々ヤマトに臣従する根拠が乏しかったので、進んで磐余彦の行軍に必要な物資を提供した。
海岸まで引き返した磐余彦は、浜に残してきた兵を集めて軍議を開いた。
吉備を出発した時は五百人以上いた兵士が、今では四十人ほどに減ってしまった。
度重なる戦闘や海難により、意気
当初は紀伊半島を船で周回して伊勢に上陸し、そこから
だが嵐に
かくなる上は、
宇陀では隼手が兵を徴募し、剣根が武器を山と積んで待ちわびている筈である。
どれほど困難な道であろうとも、山を踏み越えてゆく以外に手だてがなかった。
ただし、紀伊山地の
この時代ろくな装備も持たない磐余彦たちが越えようとするのは無謀と言えた。
軍議の席で椎根津彦が磐余彦に問うた。
「一度日向に戻るという選択肢もありますが」
「いや、ここで引き返したのでは死んだ兄たちや仲間の死が無駄になる」
磐余彦がきっぱりと返した。
「しかし我らはもはや、武力において圧倒的にヤマトに劣ります。我らは如何にすればヤマトを攻略することができましょうか?」
質問したのは吉備から付いてきた兵卒の頭・
元は
この男の下には主に
磐余彦は岩丸の目をまっすぐに見て言った。
「我らはたしかに
神剣を高く掲げて発する磐余彦の力強い
磐余彦の言葉はさらにつづいた。
「今のヤマトは一枚岩ではない。敵意を抱いている者も少なくない。我らに味方する者も必ず出てくる筈だ。吾はこれからは武力にのみ頼るのではなく、ヤマトの民に我らが為さんとする
兵士たちが一斉に「ほう」と感嘆の声を上げた。
その顔がいずれも喜びに満ちているのは、磐余彦の言葉が新鮮で、かつ前向きに捉えている証拠だろう。
磐余彦が説いたのは古代中国の兵法書『
長く厳しい旅をつづけながら、磐余彦は椎根津彦を通じてさまざまな知識を吸収してきた。
「王としての資質が花開かれたようだな」
その様子を見て椎根津彦が満足気に呟いた。
磐余彦の言葉はなおも続いた。
「海を隔てた大陸では、いつまた政変が起きるか分からぬ不穏な情勢が続いている。倭国の支配層であるヤマトの豪族たちも、さぞ不安であろう。それなのに、誰も
兵士たちは
「このかけがえのない倭国を救うためにも、吾がヤマトの王となる。それには皆の力が必要だ。どうか吾に力を貸して欲しい!」
磐余彦の一言ひとことが、兵士たちの心を熱く駆り立ててゆく。
倭国の民は、新しい時代の舵取りをしてくれる強い王を紛れもなく渇望している。
その王に最もふさわしいのが磐余彦である。
それを証明するためにも、
日臣が立ち上がって拳を突き上げた。
「吾は死に物狂いで戦う。皆も戦え!」
「そうだ、吾も戦う!」
兵士たちから怒涛のような合唱が起こった。
椎根津彦も日ごろの冷静さをかなぐり捨てて、拳を天に突き上げた。
「磐余彦さまをヤマトの王にするのだ!」
それに呼応して、兵たちが目を赤く
「磐余彦さまを王に!」
「そうだ、磐余彦王だ!」
獣の
「行こう、ヤマトへ!」磐余彦が力を込めて号令した。
「ヤマトへ!」
ふたたび力強い唱和が返ってきた。
(第八章終わり)