第54話 勇者の背中

文字数 2,295文字

「知ってのとおり、吾は出雲の出だ。力及ばずヤマトの軍門に下り、いまは生駒の鳥見(とみ)に館がある。だが心は今も出雲にある」
 長髄彦が懐かしそうに語った。

 日向軍が河内に上陸した際、長髄彦軍との間で激しい戦闘が繰り広げられた。
 磐余彦の長兄五瀬命はその戦いで腕に矢を受け、その傷が元で五瀬命は命を落とした。
「我らはあれで勝ったと思うた。だが(いまし)らは短い期間に信じられぬほどの力をつけ、吾らをここまで追い込んだ。実に見事な戦いぶりじゃ」
「自分ひとりの力ではありません。ここにいる仲間の他にも、死んだ兄や多くの仲間が力を貸してくれました。そして天神の導きも頂き、ここまで来られたのです」

「やはり〈天神の子》の噂は(まこと)のようだな。ならば、ヤマトに来る大義も備えていることになる」
 長髄彦は皮肉な笑みを見せて、後ろに控える少彦名(すくなひこな)を見た。
 長髄彦に代わって少彦名が言った。
「問題はニギハヤヒさまじゃ。あの方が自ら身を引かれるというならば、(わし)らも最早戦う理由がなくなる」
 長髄彦に付き従ってきた出雲以来の宿将も、長引く戦いに()んでいるようだった。

「だが、ニギハヤヒさまの心根が今ひとつはっきりせぬ。『儂はいずれ磐余彦に王位を譲ってもよいと思うておるが、まだその時期ではない。だからそなた達にはまだ戦っていてほしい』と言うのが本心と見ておりますが」
 少彦名が眉間(みけん)に刻まれた皺を寄せて言った。
「つまり、『我が身の安全が保証されるまでは、王座は降りない』ということなのですね」
 椎根津彦の皮肉交じりの推察に、少彦名の眉間の皺がさらに深くなった。
「さよう、『降りて欲しくば、褒美(ほうび)を寄越せ』という、大した王じゃ」
 少彦名が言うと、二人の軍師は顔を見合わせて苦笑した。
 親子ほども年が離れた少彦名と椎根津彦だが、互いの才覚を認め合っているようだ。

「あの方は『亡き女王のために』と申さば、吾らがただ従うと思っておるのだ」
 長髄彦が苦々し気に吐き捨てた。
 ニギハヤヒに国を()べる力がないことは、誰もが承知している。
 それでもこの(うるわ)しき国を、女王卑弥呼が愛したヤマトを、むざむざと余所者(よそもの)に明け渡してはならじ。
 その一点でニギハヤヒを支えてきた長髄彦である。
――吾とて時代の流れに(さお)さすことは潔しとせぬ。だが吾を倒せぬ者に、新たな国など造れるはずがない。ヤマトに歯向かう者に吾が立ちはだかってきたのは、ただその一念じゃ。

 長髄彦が持ち続けた信念が揺らぐことは、これまでなかった。
――だがこの腐ちかけたヤマトを、そうまでして生き長らえさせる価値があるのか?
 そう思うようになったのは、自分が老いたせいかもしれない。
 そして、
――磐余彦にはその資格があるのかもしれぬ。
 いまや長髄彦はそう考えるようになっていた。
 磐余彦は高貴な血筋と風格に加え、慈悲の心を備えているように映る。
 これこそが、まさに天神の子、つまり王者に求められる資質である。
 道臣や椎根津彦のような一騎当千の若者たちが素直に、かつ懸命に付き従うのが、何よりの証左であろう。

「もう誰も死なせたくはないのです。敵も味方も。吾とともに新しき国を作っていただけませんか」
 磐余彦が懸命に呼びかけた。
 だが長髄彦は首を縦に振らなかった。
「勘違いするな。吾にはいまさら新しき国造りなどする気など毛頭ない。吾の願いはせめて禍根を残さぬよう、露払いして果てるだけだ」
「ヤマトに(じゅん)じるということですか?」

「ああ……」
 言いかけて長髄彦は口を閉じ、にやりと笑った。
「それも嘘じゃ。本音はヤマトの行く末など最早どうでもよい。吾はただ戦いが好きなのだ。この度もニギハヤヒの優柔不断さを利用して戦いを続けてきた――」
 長髄彦は言葉を切り、虚空を見据えた。
 瞳に悲しみの色があった。
「これまではそれでよかった。だが汝との戦いで兄の安日彦(あびひこ)が傷を負った。吾が無益な戦いを繰り返した結果なのだ……」
 磐余彦は不思議な感動を覚えた。
 権力や地位には恋々(れんれん)とせず、戦うことのみに喜びを見出していた男が、今や悔恨(かいこん)の姿を隠そうともしない。

 だがふたたび磐余彦を見据えた時には、長髄彦は毅然とした顔に戻っていた。
「どうやら吾にも、もうひとつ仕事が残っているようだ」
 長髄彦が立ち上がって言った。
「ニギハヤヒに降伏を説いてみよう」
「長髄彦どの!」
 謝意を伝えようとして立ち上がる磐余彦を、長髄彦は制した。
「説得できるとは限らぬ。汝とはまた戦場でまみえることになるかもしれぬ」
 結果が出る前に礼など言われたくない、というせめてもの意地なのかもしれない。

 会談を終え、去っていく長髄彦の後ろ姿を見送りながら椎根津彦が呟いた。
「どうぞご無事で」
「どういうことだ?」
 磐余彦が驚いて振り返った。
 椎根津彦は一瞬顔を曇らせたが、つとめて平静に言った。
「長髄彦さまが疑われねばよいと思ったのです」
「何を?」
 磐余彦は戸惑ったが、すぐに気づいた。
「まさか、我らに寝返ったと?」

 ヤマトきっての勇者、長髄彦の背中が遠ざかっていく。
 駈け出そうとする磐余彦の前に、道臣が両手を広げて立ちはだかった。
「行ってはなりません」
 強い調子で制止した。
「どけ!」
 磐余彦は剣を抜いた。しかし道臣はいささかも(ひる)まなかった。
「どきません。あなた様を行かせるわけには断じて参りません!」
 命がけの気迫に気圧(けお)された磐余彦はぐっと唇を噛み、椎根津彦を睨んだ。

(やつかれ)の思い過ごしかもしれません」
 椎根津彦が感情を押し殺して言うと、警護を終えて現れた来目が、「そうだ。きっとそうだよ」と妙にはしゃいだ声で笑った。
 笑い声が途絶えると、重苦しい沈黙があたりを覆った。
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