第60話 皇統初代

文字数 1,504文字

 辛酉(かのととり)の年の新春、磐余彦は木の香りも芳しい橿原宮(かしはらのみや)で即位した。
 清浄な空気に満たされた王宮の朝殿には、道臣ら日向以来の家臣に加え、旧ヤマト政権で政務を執った重臣たちがずらりと並んでいる。
 その中には事代主やニギハヤヒの姿もある。

 中央奥の一段高い場所に玉座が据えられ、磐余彦が厳粛な面持ちで座っている。
 磐余彦が纏った絹の衣は、赤みがかった黄色をしている。
 この衣は、(かいこ)繭糸(まゆいと)(つむ)いで作られている。
 養蚕は弥生時代には日本にすでに伝わっており、邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼(ひみこ)()の皇帝に献上した物の中にも「倭錦(わきん)」、つまり絹製品があったことが記されている。
 髪は美豆羅(みずら)を端然と整え、よい匂いのする油をつけて光沢を放っている。
 腰に()いているのは神剣、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)である。
 頭に被った冠には流麗な金の細工が施され、翡翠(ひすい)瑪瑙(めのう)などの大粒の宝石が飾られている。

 どこから見ても(まばゆ)いばかりの威厳に満ちた出で立ちだが、磐余彦は少し気恥ずかしそうにしている。
「なんだか立派すぎて居心地が悪い」
 傍にいた道臣や来目にだけ聞こえる声で囁いた。
「磐余彦さま、よくお似合いです」
 道臣が励ますようにいった。
 その道臣も、汗と泥にまみれたぼろぼろの貫頭衣を脱ぎ棄て、目の覚めるような白妙(しろたえ)の衣を身に纏っている。
 大王に仕える重臣としてふさわしい、(りん)とした風格を備えた美丈夫(びじょうふ)である。
馬子(まご)にも衣装って、兄いみたいなのを言うんだなあ」
「なんだと!」
 来目の冷やかしに、道臣は顔を真っ赤にして拳を振り上げた。

「これ、大王の前で慎みなさい」
 椎根津彦がたしなめる。
 剣根や弟猾、弟磯城改め黒速もいる。
 彼らもみな真新しい装束を来て、大王の側近として心を一つにしていく覚悟である。
 そして磐余彦の脳裏には死んでいった五瀬命や稲飯命、三毛入野命ら三人の兄のほか、去っていった隼手ら多くの家臣のことが浮かんだ。
 彼らの思いに必ず報いなければならない、と磐余彦は心に誓った。

 滞りなく式典が終わり、つづいて即位を寿(ことほ)ぐ舞が奉納された。
 掃き清められた舞台の上に、舞装束をつけた道臣が腰に剣を佩いて立つ。
 凛々しくも、きりりと引き締まった涼やかな(かお)である。
 女官たちが(まぶ)しそうに(なが)め、思わずため息を漏らす。
 玉座に座る磐余彦に一礼した道臣が表を上げたのを合図に、琴や笛が奏でられる。
 《神風の 伊勢の海の 大石にや い這ひ廻る 
  細螺の 細螺の 吾子よ 吾子よ 細螺の い這ひ廻り 
  撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ》
 道臣の舞は躍動感にあふれ、力強さの中にも流れるような足さばきが美しく、見る者が思わず息を呑むのが伝わってくる。

 やがて舞に三人が加わった。
 来目と椎根津彦、弟猾である。
 力強い舞に続けて軽妙さや華麗さ、端正さが混じり、一転して賑やかな宴になった。
 イツセも宴を祝うかのように空高く舞っている。
 舞を見守る磐余彦の横には、正妃の踏鞴五十鈴媛(たたらいすずひめ)が優美な微笑みを湛えて寄り添っている。
 四人の踊り手は床を踏み鳴らし、邪をなぎ払うように一斉に剣を振り下ろした。
 息の合った所作に、会衆は手を叩き歓声を上げた。
 来目(久米)舞は、現在も天皇の即位式で披露されている。

 新しき国の誕生を祝う宴もたけなわで、新春の光を受けて輝く男たちの勇壮かつ華麗な舞に、会衆は酔い()れた。
「大王万歳!」
「大王よ弥栄(いやさか)に!」
 会衆の叫び声がこだまし、磐余彦は莞爾(かんじ)と笑った。
 
 それから間もなく、磐余彦の大王(天皇)即位の(しら)せが国中に轟いた。
 今に続く皇統の初代、神武天皇の(まつりごと)の始まりである。   
                                       (了)
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