第33話 愚兄愚弟

文字数 3,728文字

 明石海峡を抜ければいよいよ大阪湾である。
 摂津(せっつ)国(大阪府)難波碕(なにわのみさき)まで来ると、潮の流れが急に速くなってきた。
 人の背丈ほどもある白波が立ち、船はそのまま波に押し流されて勝手に進んでいく。
「おおっ、すごい波だ。船がどんどん進むぞ!」
 以来、この海は浪速(なみはや)と名付けられた。浪花とも難波とも表わされる。
「波も吾らを後押ししている。いざ上陸だ!」
 舳先(へさき)に立って五瀬命が叫んだ。

 古代の大阪湾の姿は、現在とは大きく異なっている。
 上町(うえまち)台地が半島となり、それより低い河内平野の東側は内海となって生駒山(いこまやま)の西麓まで広がっていた。
 東大阪市布市町(ぬのいちちょう)では、縄文時代のものとみられる全長約十四メートルのマッコウクジラの化石も見つかっている。
 日向・吉備軍が上陸したのは旧暦三月十日、河内国草香(くさか)村の青雲の白肩津(しらかたのつ)(現在の東大阪市日下)である。

 生駒山地を望む丘で休息をとっていると、北方から兵士の一団がやって来た。
 先頭を歩くのは見慣れた二つの顔、来目と隼手である。
「おーい」来目が嬉しそうに手を振った。
 こうして陸路を進んできた別働隊と無事合流することができた。
「道中危険はなかったのか」
 磐余彦が訊ねたのには理由がある。
 中国地方から畿内に近づくほどヤマトに臣従する勢力が増える。
 殊に生駒山の麓に勢力を持つ長髄彦(ながすねひこ)の軍は、ヤマト最強との呼び声が高い。
「なあに、間道を抜けてきたから平気です」
 来目と祖先を同じくする縄文系の民が道案内をしてくれたという。

「それに剣根(つるぎね)さまが持たせてくれたこれがあったから、山の中でも迷わなかったです」
 来目は自慢気に短い竹の筒を見せた。
 筒の中に先の(とが)った石を置き、その上で一本の針がふらふら動いている。
「なんだそれは?」
 日臣が顔を近づける。
「ほう、慈石(じせき)ですか」椎根津彦が楽しげに言った。
「慈石?」
 中国では紀元前十数世紀から鉄を引き付ける石、つまり磁石の存在が知られていた。この石は「子を(いつく)しむ石」の意味で「慈石」と呼ばれたという。
 『続日本紀』には和銅六年(七一三)に「近江より慈石を献ずる」と記されている。

「それに、宝物をたんまり貰っていたお蔭で、ほとんど苦労しませんでした」
 来目が得意とするのは、情報収集や協力者の発掘、攪乱(かくらん)、破壊工作などである。
 現代でいうスパイ活動で、磐余彦はその活動資金として、来目にゴホウラなどの貝輪の首飾りなどを惜しみなく与えていた。
 南洋の貝の加工品は、いまだ貨幣の流通していない時代には貴重な交易資源だった。
 
 行軍してしばらくすると、道が二手に分かれた。
「さて、どちらに行くべきだろうか」
 日向と吉備の主だった武将が集まって、ただちに軍議が開かれた。
 椎根津彦がなめした鹿の皮に描かれた地図を広げた。
 大まかだがこの辺りの地形が描かれている。
 左の道を進めば生駒山を越えてまっすぐヤマトに入り、右手に行けば紀伊に通じる。
「このまま左の道を行き、ただちにヤマトへ攻め上るとしよう」
 軍議が始まっていくらも経たないうちに、総大将の五瀬命が宣言した。
「それがよい!」
 玄狐をはじめ吉備の武将たちが一斉に膝を叩いて同意した。

「しかし生駒山は長髄彦の支配地です。いったん南に迂回し、紀伊の川を(さかのぼ)って南または東からヤマトを攻略するべきでしょう」磐余彦が反対の声を上げた。
 磐余彦が進言したのは防御の薄い地点を()く作戦で、戦術的にも理に叶っている。
 ところが五瀬命は「いや、戦には勢いも大事じゃ。天は我らに味方しているに違いない」と言下に否定した。
「しかしそれでは太陽に向かって攻めることになります。日に向かうのは天の道に逆らうことになります」

 なおも磐余彦が食い下がると、
(それがし)も同感です。ここはいったん南に回って側面からヤマトを攻めるべきです。多少時を費やしてもそれが良策と考えます」
 軍師の椎根津彦も賛同した。
 すると五瀬命が烈火の如く怒った。
「軍師風情が出過ぎたことを言うな。敵は目の前だ、ここまで来て戦わずに逃げろというのか!」
「ですが我らはヤマトの兵の数も地形も知りませぬ。敵を知らずに正面から戦いを挑むのは無謀です」
「そうです兄者、そもそも日に向かうのは忌むことと考えます」
 今度は稲飯命と三毛入野命が反対した。

 それを聞いて五瀬命はますます頭に血が上った。
「いや面倒だ。ヤマトは目の前だ。臆病風に吹かれた奴は置いていくぞ!」
 猪武者の悪い面が出た。
「そうだそうだ、この大軍勢を見れば敵も逃げ出すに決まっておる!」
「卑怯な策を(ろう)しては吉備の名折れじゃ!」
 吉備の武将たちが口々に(あお)った。
「しかし、敵の弱点を衝くのは卑怯とは言いません。むしろ敵が待ち構えているところに正面から戦いを挑むほうが無謀です」
 磐余彦が懸命に(いさ)めるが、将たちが従う気配はなかった。
 吉備の陣営にはすでに根回しが済んでいるようだった。

「よし、このまま左に進む。ヤマトは目の前じゃ!」
 五瀬命が手を高々と突き上げた。
「おう、ヤマトに目にもの見せてくれる!」
「五瀬命さまがヤマトの王になるのももはや目前。太陽の御子にふさわしい」
 玄狐をはじめ吉備の武将が拳を突き上げて気勢を上げた。
 ここまでの道のりが楽だったぶん、明らかに気が緩んでいる。
 磐余彦には、五瀬命が吉備の兵士たちにうまく乗せられているのが気がかりだった。

「ならばせめて、偵察をしてから進軍しましょう」
 椎根津彦がとりなした。
 偵察には井守(いもり)家守(やもり)の兄弟が指名された。玄狐(げんこ)とともに吉備から従ってきた屈強な若者たちである。
「あいつらで大丈夫かな」
 来目が心配そうに見た。
「どうした?」
「あの兄弟のことを小耳に挟んだんですが、連中は吉備じゃあ酒癖が悪く鼻つまみ者だったようです。従軍したのも(てい)よく吉備から厄介払いされたという奴もいます」
「そんな奴に偵察を任せるのはどうかしている」
 日臣が憤慨(ふんがい)したが、(くだん)の兄弟の姿はすでに森の中へ消えていた。

 一刻ののち、井守と家守の兄弟は、山へと続く道を散策でもするように歩いていた。
 開けた場所に出ると、一人の小柄な農夫が畑を耕しているのが見えた。
「おい」
 二人はさっそく駆け寄って農夫に訊ねた。
「このあたりの者か?」
 井守が大声で訊ねた。
 相手が農夫と侮ったのか、剣をちらつかせて横柄な態度である。
 
 農夫は突然現れた二人の大男に怯えながら答えた。
「ああ、長髄彦がおったけど、西から強い兵が来ると聞いて逃げて行っちまいました」
 それを聞いた二人はにやりとした。
「なんと、腰抜けよ!」
 大口を開けて笑う井守と家守。
 揃って智恵が回らない兄弟は、農夫がにやりとしたのにはまったく気づかなかった。
 調子に乗った井守と家守は、その後ろくに調べもせずに意気揚々と帰陣し、五瀬命に誇らしげに報告した。

「そうじゃろうとも。五瀬命さまの威令を聞いて逃げ出したに違いない」
 玄狐の巧みな言辞に気を良くした五瀬命の心は、すでにヤマトの地にあった。
「ようし、ヤマトの財宝を根こそぎ奪ってやる」
「ヤマトの女は綺麗だというからな。(たの)しみだぜ」
 井守と家守も(はや)る気持ちを抑えずに吠えた。

 日向・吉備の軍勢は、勇み立ってヤマトに向けて進撃を開始した。
 部隊は二手に分かれ、総大将の五瀬命率いる四百人余りの本隊が先発。
 磐余彦の指揮する約百人は後詰めとなった。
「大丈夫ですか。こっち側には敵の軍勢がうようよいる気配でしたぜ」
 斥候(せっこう)を務めた来目の報告でも、行く手には敵影が色濃く漂っているようだ。
 だが磐余彦は眉根を寄せながら首を振った。口は固く閉じられたままである。
「よいのですか」椎根津彦が重ねて問うた。
「吾には分からぬ。だが従うよりない」
 言葉を吐き出した磐余彦の表情には悲壮な決意が見えた。

 磐余彦にとって、一軍の長の地位を奪われたことは最早どうでもよかった。
 ただし、ここで無理に諫言(かんげん)する気にはなれなかった。
 仮に言ったところで、五瀬命が素直に聞き入れるとは思えなかったからだ。
——こうなるまで放っておいたのは他でもない自分だ。
 磐余彦は己の迂闊(うかつ)さを責めた。

  五瀬命のことは長兄として敬愛している。
 だがその取り巻きがよくない。根が単純な兄を持ち上げて、利用しようとしている様がありありと見えた。
 吉備王が随行させた玄狐をはじめ、武将や兵卒がどれほどの働きをするのか。
 兵の数五百余はこの時代としては大軍だが、統率が取れていないのは明らかである。
「戦は数ではない。皆が一致団結して戦いに臨まねば(もろ)いものだ」
「分かっておる。だがどう止めろというのだ!」
 椎根津彦の懸念に日臣も苛立ちを隠せない。

 このままでは危険だということは、日臣にも痛いほど分かっている。
 だが磐余彦が決断せぬ以上、どうしようもない。
「臣に策がある。いざという時は――」
 椎根津彦が日臣と来目、隼手を呼び寄せて何事か耳打ちした。
 三人とも真剣な表情で聞いていた。

 その日を境に来目の姿が消えた。
「おや、来目はどこへ行った?」
 磐余彦が問うたが、日臣は「別な務めを果たしに行きました」とだけ答えた。
 磐余彦が重ねて訊ねようとすると、日臣は厳しい顔のまま無言で首を振った。
 〈何も言うな〉という合図である。
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