第25話 生口(せいこう)の子

文字数 2,723文字

 野盗を撃退したあと、磐余彦と一行は岡水門への道を急いだ。
 先頭をゆく磐余彦と五瀬命に続くのは、イノシシの肉を担いだ来目と隼手。
 続いて稲飯命と三毛入野命。それぞれ持てるだけの食料や薬、武具などを背負っている。
 殿軍(しんがり)をつとめたのは日臣と椎根津彦である。
 万が一先ほどの野盗どもが追って来た場合を考えての配置だった。
 
 日臣と椎根津彦の前を行く男たちの影が長く延びている。
(いまし)の剣はすさまじい。唐土でも将軍となれるだろう」
 椎根津彦は日臣の惚れ惚れとするような鮮やかな剣さばきを称賛した。しかし日臣はにべもなく答えた。
「吾は磐余彦さまのお力になれればそれでよい」
 その言葉に偽りはない。
 日向に於ける日臣の身分は奴隷である。
 今から二十年ほど前、北部九州で起きた村同士の戦いに敗れた部族の遺児だった。
 凄惨な戦いの末に村は焼き払われ、日臣の父も母も殺された。死んだ母親の(むくろ)の下に隠れた幼い日臣と姉の二人だけが奇跡的に助かった。

 戦争での敗者は戦利品として扱われる。
 日臣と姉は生口(せいこう)(奴隷)となり、筑紫の市で売られた。
 二人を買ったのは磐余彦の父で日向の族長であるウガヤフキアエズである。
 以来、日臣は磐余彦に、姉の日奈女(ひなめ)は磐余彦の母である玉依姫(たまよりひめ)に仕えた。
 ところが磐余彦が十五のときに、日奈女が晋に生口として売られることになった。
 中国の史書『魏志倭人伝』にも、景初三年(二三九)に倭国の女王卑弥呼が魏の皇帝に「生口男四人、女生口六人を献ず」とある。
 倭人は我慢強く働くため高値で取り引きされる。こうして海を渡った奴隷も少なくない。

 奴隷と交換で受け取るのは鉄鋌(てつてい)である。
 鉄鋌は武器や工具などの原材料となる薄い鉄の板で、熱してさまざまな形に加工する。
 倭国ではまだ鉄鉱石から鉄を取り出す技術がなく、もっぱら朝鮮半島から輸入していた。
 鉄鋌は非常な貴重品で、金や翡翠などの宝石、夜光貝などで代価を支払うこともあった。
 もし日奈女が大陸に売られてしまえば、姉弟は二度と生きて会うことはできない。
 磐余彦は父王の前に(うずくま)り、両手をついて必死で訴えた。
「お願いです、日奈女は売らないでください。代わりに吾の首飾りを代金にしてください」
 先述したように、イモガイやゴホウラなどの南洋の貝は宝飾品として非常に価値があった。

「だめだ」
 ウガヤフキアエズは首を縦に振らなかった。
「ならば、吾の田を返します」
「なんだと?」
 父が睨んだ。
 磐余彦たち四人の王子には、田がそれぞれ三十枚ずつ分け与えられている。
 そこで収穫される米をもとに各々が従者を抱え、家を維持しているのである。
 田を返すとは、王子の地位も失うことに等しかった。

「意味が分かっておるのか?」
「分かっています。日臣は吾の友です。その友を不幸にするぐらいなら、吾は王子をやめて平民になります」
 恐ろしい父に睨まれても、磐余彦は怯まなかった。
「友……」
 磐余彦の横でひれ伏す日臣の目から大粒の涙がとめどなく流れた。
 根負けしたウガヤフキアエズは、日奈女を病気と称して、代わって貴重な翡翠(ひすい)で支払った。

「もし姉が売られていたら、吾はウガヤ王の命を狙っただろう。たとえそれで処刑されようと構わぬと思っていた」
 日臣の唇が震えている。
「その時吾は誓った。磐余彦さまのためなら命もいらぬと」
 日臣の顔に夕陽がさすと、涙がきらりと光った。
「姉御はどうされた」椎根津彦が遠慮がちに訊ねた。
「近くの村の男と縁を結び、いまでは四人の子持ちだ」
 日臣の目が泣きながら笑っていた。
「よい話を聞かせてもらった」
 椎根津彦がうなずくのに合わせるように夜鴉(よがらす)が啼いた。

「やれやれ、この先も漕ぐのは大変だな」
 水先案内人の椎根津彦と舵取りの隼手を除けば、漕ぎ手は六人しかいない。
 ここから先は複雑な潮流が流れる瀬戸内の海である。
 同じ海でも(なだ)と瀬戸では海底の様子が著しく異なる。
 灘は潮流の流れが比較的緩やかで、海底も大きく削られることはない。
 しかし瀬戸は潮流が潮汐作用によって真逆になり、勢いも激しく変化するので海底の岩盤がえぐられて複雑な地形になりやすい。
 また干満によって運ばれた砂が堆積し、それが原因で潮流の向きまで変えてしまう。
 一見おだやかに見える海も海底が岩礁か砂地か、さらに小石かによって、時には思わぬ危険を伴うのである。

 ここで椎根津彦は舟を改造することを進言した。
「この先は帆を張って進むことにしましょう。風を利用して進むことができます」
 椎根津彦は舟の中央に太い柱を立て、それに大きな(むしろ)を張った。折からの西風をはらんだ筵がはためく。
「聞いたことがある。帆船(はんせん)というのだな」磐余彦が同意した。
 帆に風を受けてその推進力で航行する帆船の歴史は古く、古代エジプトでは紀元前三千年前から外洋航海に帆船が用いられていた。
 中国でもジャンク舟が外洋航海に出ていたことが知られている。
「唐土ではこれで外洋にも出かけます」

 椎根津彦はさらにもう一つ工夫を加えた。
竜骨(りゅうこつ)といいます」
 竜骨とはヨットなどで見られるキール(重り)のことである。
 これを付けることで復元力が得られ、舟が大きく傾いても転覆する心配が減った。
「さあ、行きましょう」
 岡水門(おかのみなと)の港を出航した磐余彦と一行は、旧暦の十二月二十七日に瀬戸内海の安芸に上陸した。
「もはや冬のさなか。無理に進むのは賢明ではありません」
 椎根津彦の進言に、磐余彦をはじめ皆がうなずいた。
 美々津(みみつ)の湊を出てすでに二か月余りが過ぎた。
 豊後水道を抜け、関門海峡を往復したのちに瀬戸内海を渡るという、今日においても困難な航海の連続である。
 口にこそしないがみな疲れ果てていた。
 
 一行はここに行宮(あんぐう)埃宮(えのみや)を建てた。
 行宮とは仮宮殿のことである。
 現在の広島県安芸郡府中町の多家神社が建っている場所がその跡だと伝えられる。
 ただし名前の由来の埃とは、「ほこり」や「ちり」の意味である。
 その名の通り木の枝を組んで雨除けを掛けただけの粗末な小屋だった。
 それでも陸の上でゆっくり休める場所が確保できてみな安堵していた。
 『日本書紀』によれば、冬のあいだ埃宮に留まり、翌年の三月六日に吉備国に移ったと記されている。

 古代の広島湾は現在より奥深くまで湾が入り込んでいて、海がよく見渡せた。
 多家神社は誰曽廼森(たれそのもり)という鬱蒼(うっそう)と繁る森の中に建っている。
 磐余彦が「曽は誰そ(そこにいるのは誰だ)」と訊ねたことからその名が付いたとされる。
 また埃宮にほど近い松崎八幡跡地には、磐余彦が腰かけて休息をとったという「腰掛岩」も残っている。
                                   (第五章終わり)

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