第41話 神剣を授く

文字数 2,532文字

 磐余彦は美しい光景の中をさまよっていた。
 熊野の地は神韻縹渺(しんいんひょうびょう)として桃源郷に遊ぶようである。
 しかしその一方で不気味なほど静まりかえっている。
 いつの間にか、鬱蒼(うっそう)と繁る森の奥深くに迷い込んでいた。

 轟々と音がする。
「滝の音だ」
 磐余彦が草を分けてさらに進むと、急に視界が開けた。
 地を揺るがす轟音とともに大量の水が流れ落ちている。
 那智(なち)の滝である。
 これほどの大瀑布(だいばくふ)は、磐余彦も見るのは初めてである。
 滝壷(たきつぼ)濛々(もうもう)と立ち昇る水しぶきに煙って見えない。
 水の冷たさはあたりの冷気で分かる。
 雨が降ってもいないのに木の枝や葉が濡れている。
 
 滝の傍で一人の(わらべ)(たわむれ)れている。
 虫でも追っているのだろうか。
 危ない、と思う間もなく童が滝壷に真っ逆さまに落ちた。
 磐余彦は助けようと、とっさに身を乗り出した。
 
 しかしそれは罠だった。
 磐余彦の身体は黒い(てのひら)を持つ、強い力でぐいと引っ張られた。
 童と思ったのは熊だった。巨大な熊の化身が童に化けていたのだ。
「黒鬼か」
 磐余彦は日向で倒した黒鬼を思い出した。
 その怨霊が現れたのであろうか?
 黒鬼は真っ赤に輝く目で磐余彦を見た。
 残酷に笑ったようだった。
――食い殺される……。
 磐余彦は絶望の淵に立たされた。

 しかしあることに気づいた。
――影がない。
 恐るべき姿で、今にも襲いかかろうとする黒鬼の巨体には、影がなかった。
――そうか、これは幻影だ!
 同時にすべてを吞み込んだ。
 夢の中で黒鬼の幻影を見て、勝手にもがいているだけなのだ。
――目を覚ませ!
 磐余彦は自分の意識に働きかけた。
 しかし何度やっても目覚めることができない。
——ただの夢ではない!
 そう気づいて磐余彦は慄然(りつぜん)とした。

 丹敷戸畔(にしきとべ)がかけた術にかかってしまったのである。
 その結果、どこまでも続く夢地獄に(とら)われているのだった。
——これすらも呪いの術中なのだ……。
 永遠に夢から目覚めなくさせる呪法である。
 こんこんと眠りつづける間も、肉体は年を重ね、やがて朽ちていく。
 磐余彦は何度も(ほほ)を叩いたり、木の枝で腕を刺したりして目覚めようと試みた。
 だが、どうしても夢から醒めることができない。
 底が見えない――。
 どこまで行っても底が見えない夢の深さに気づかされて、磐余彦は絶望的な気分になった。

 唯一できることは、必死で思うことだけである。
――たとえ肉体は滅び魂となっても、吾はヤマトに行くのだ。 
 しかし依然として声に出すことはできない。
 それでも頭の中で必死で念じ続けた。
——死んだ兄たちや多くの仲間のためにも、行かねばならぬ!
 悲壮な思念だけが、折れそうな心を支えていた。

 その時、ふいに《声》が耳に響いた。
〈それほどまでしてヤマトに行きたいのはなぜだ?〉
 姿は見えない。しかし間違いなく磐余彦の頭に届いた《声》だった。
――この国のため、民を救うために行かねばならぬのです。
 力を振り絞って磐余彦は答えた。
〈その心意気はよい。だが、国を救えるならお前でなくともよいではないか?〉
――その通りです。しかし今の倭国に、国を救える者が吾の他におりましょうや?
〈ずいぶんと自惚(うぬぼ)れたものだ。しかしお前がしくじったら国が滅ぶばかりか、()つ国の奴隷に()ちるやもしれぬ。そなたは責任が取れるのか?〉
――それでも、『国を建てる』機会は今を於いてないと吾は考えます。その結果自分の身がどうなろうと、後の世でどれだけ汚辱に(まみ)れようとも、誰かがやらねばならぬのです。
 沈黙があった。しばらくして、《声》が届いた。
〈ならばそなたに悪霊に打ち()つ力を授けよう〉

 ふいに霧の中から一人の男が現れた。
 小柄だが鋭い眼差しの白髪の男である。
 男は(ひざまず)いて、磐余彦に(うやうや)しく頭を下げた。
 磐余彦が戸惑っていると、男は剣を両手に捧げて差し出した。
「これを吾に?」
 磐余彦が尋ねると、男が口を開いた。
「夢に天照大神(あまてらすおおみかみ)(あらわ)れ、あなた様に神剣を授けよと申されました」
 威厳(いげん)のある低い声だった。
「神剣?」
「さよう。これは布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)と申す、国を()べる者のみが持つ神剣にございます。これを(ふる)えば邪気はたちまち(はら)われましょう」

 男は磐余彦に剣を託し、一礼して霧の中に戻っていこうとした。
「あなたのお名前は?」
高倉下(たかくらじ)と申します」声だけが耳に届いた。
 磐余彦には聞き覚えがあった。
 神代の時代、倭国に君臨した偉大な巫覡(かんなぎ)の名である。
 磐余彦はしばし茫然と立ちすくんでいたが、我に返ると授けられた布都御魂剣で黒鬼の幻影を斬った。
 黒鬼に化身した悪霊はたちまち姿を消した。

 磐余彦が目を覚ますと、仲間はみな丹敷戸畔(にしきとべ)の館で、深い眠りに落ちていた。
 外はすでに明るくなって、鳥のさえずりも聞こえる。
 長い間眠っていたようだ。
 日臣も、来目も、椎根津彦も、まだ眠っている。
 磐余彦は右手に感触を覚えた。
 剣である。布都御魂剣が、その手に握られていた。
――やはり夢ではなかった。すると、皆を眠らせたのも悪霊の仕業か?
 磐余彦は立ち上がると布都御魂剣を高く掲げ、右左に大きく祓った。
 とたんに部屋の中を包んでいた邪悪な霧が晴れ、清浄な空気が戻ってきた。

「起きよ」
 磐余彦が静かに告げると、皆が目を覚ました。
「あれっ、どうしたんだ?」来目がきょとんとしてあたりを見回す。
「あっ、目を覚まされましたか?」
 飛び起きた日臣が真っ先に磐余彦に駆け寄った。
「大事ありませんか」
 椎根津彦も起き上がって気遣う。
「ああ、(いまし)らのお蔭で命拾いしたようだ。礼を言うぞ」
 磐余彦の無事な姿を見て、皆の顔が歓喜に包まれた。

「あれ、その剣は?」
 来目が目ざとく磐余彦が手にした剣を見て言った。
「吾は眠っているあいだに夢を見た。不思議なことに夢から覚めると、この剣を手にしていたのだ」
 皆は不思議な出来事に驚くとともに、磐余彦に神の加護があることに改めて感動した。
 彼らにとっても勇気づけられる〈神の(あかし)〉だった。
「敵ながら天晴(あっぱ)れな女だった。魂を鎮めてやろう」
 磐余彦は日臣に命じて、丹敷戸畔の亡骸(なきがら)を丁重に葬った。

 丹敷戸畔にまつわる伝承は、和歌山県串本町や那智勝浦町(なちかつうらちょう)、三重県大紀町など各地に残っている。
 また串本町二色(にしき)戸畔(とべ)の森には、丹敷戸畔の墓と伝わる塔も残っている。
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