第7話 蜀の塩職人

文字数 2,367文字

 本州から帰ってすぐ、磐余彦は師である塩土老翁の家を訪ねた。
「磐余彦です」
 磐余彦が来訪を告げると、「どうぞ」と声がして招き入れられた。

 部屋の真ん中に()が組まれ、土間の一角に茣蓙(ござ)が敷いてあるだけの竪穴式住居である。
 元々は貴人に準ずる高床式の住まいを与えられていたのだが、「吾にはこちらのほうが住みやすいので」と自ら申し出て、狭い陋屋(ろうおく)に暮らしている。
 見上げると、木の革や葦で覆われた天井が(すす)で煙っていた。

 磐余彦が本州で出会った男の話をすると、塩土老翁は息を呑み、驚きの表情を浮かべた。
「お会いになったのですか、長髄彦どのに?」声が震えていた。
「ええ……」
「よくご無事で……」
 塩土老翁は皺くちゃの手で磐余彦の両肩を強く摑み、何度もうなずいた。
 その青ざめた顔を見て、磐余彦は何かとんでもないことをしでかしたのだと悟った。
「長髄彦どのは出雲の狼と呼ばれるお方です」
 今度は磐余彦が息を呑む番だった。

 その昔、素戔嗚(すさのお)と呼ばれる男がヤマト王権内の権力闘争に敗れ、出雲に下った。
 素戔嗚は出雲で美しい姫と出会い、二人の間に娘が生まれた。
 やがて成長した娘は夫を迎えた。それが長髄彦である。
 長髄彦は乱暴な義父とは異なり、仁義に(あつ)いとの評判だった。
 しかし素戔嗚の死から程なく、出雲王国はヤマトの圧力に屈し、降伏した。
 長髄彦は義父の恩讐を越えて、近々ヤマトに将軍として迎え入れられることになっているという。

「実は、長髄彦さまからこれをいただきました」
 それを見た塩土老翁が大きく目を見開いた。
「まさか、天羽羽矢(あまのははや)天鹿児弓(あまのかごゆみ)……」
「天羽羽矢、天鹿児弓?」
 鸚鵡(おうむ)返しに聞くが、磐余彦には何のことか分からない。

 しかし次に塩土老翁が告げた言葉に磐余彦は驚愕した。
「ヤマト王の正統な証です」
「まさか!」
 炉にくべた小枝がぱちぱちと音を立ててはぜた。

 塩土老翁は火が静まるのを待って話を続けた。
「ヤマトの王位に()く者は、祖神である高皇産霊(たかみむすび)より下賜されたという弓矢を代々受け継いできました。それがこの天羽羽矢と天鹿児弓です」
——!
 今度は磐余彦が驚く番だった。磐余彦は絶句したまま、手に握った黒い弓矢と塩土老翁の顔を交互に見比べた。
 まるで夢を見ているような話である。
 まさか自分が手にしているのがヤマト王の証であるとは、今この瞬間まで想像もしていなかった。
 心臓が早鐘を打った。

「素戔嗚さま、つまり長髄彦どのの義父が、ヤマト王家の争いに敗れて出雲に逃げる際に、王宮から弓矢を持ち出したのだそうです。弓矢はそのまま出雲のものとなっておりました」
「ただしご存知のとおり、出雲は先年ヤマトに降伏しました」
 その降伏の(あかし)として弓矢を返すことになったのだろう、と塩土老翁は言った。
「……」
 磐余彦は以前として絶句したままである。
「しかし長髄彦どのは、なぜこの弓矢を磐余彦さまにお与えになったのでしょうね?」
 塩土老翁に聞かれても、磐余彦には皆目見当もつかない。
——あの人はいったい何を考えて、見ず知らずの自分に呉れたのか?
 何度考えても答えは見つからない。磐余彦はただ首を傾げるよりなかった。

 塩土老翁は大陸から戦乱を逃れて海を渡ってきた漢人(あやひと)である。
 祖国・(しょく)の滅亡とともに、命からがら海を渡ってきた。
「多くの仲間とともに長江を下り、船出をしましたが、そのほとんどは海の藻屑(もくず)と消えました。私は運良く仲間とともに東に逃げる船に乗り、()の地を踏むことができたのです」

 日本がまだ倭国と呼ばれていたこの時代、唐土(中国)では()()蜀の「三国志」の時代が終わり、統一王朝(しん)(おこ)った。
 塩土老翁は蜀の都・成都(せいと)(現四川省成都市)の塩職人だった。
 塩は鉄とともに重要な戦略物資である。
 蜀は内陸国だが良質な岩塩の産地として知られ、成都の「山菱(やまびし)岩塩」は今なおその名が知られている。

 倭国にたどり着いた塩土老翁は、日向の地で塩作りをはじめ、唐土の先進技術や文化を教えてきた。
 塩土老翁から文字を習う若者も少なくない。
 むろん磐余彦もその一人である。

「長髄彦どのはあなたを見て、殺すには惜しいと思われたのかもしれません」
「そうなのか」
「さよう。あなたは生まれながらに並外れた貴相の持ち主です。加えて聡明な頭脳と謙虚さがおありになる。その資質を見抜かれて、敢えて殺さなかった長髄彦どのも、(たぐ)(まれ)な英傑といえるでしょう」
 塩土老翁が言ったが、磐余彦がいくら考えたところで、真相が明らかになるはずもなかった。
 ただ自分が殺されなかった僥倖(ぎょうこう)に、震えが来たことだけは覚えている。

――それから十余年。
 未だに腕力では長兄の五瀬命に到底(かな)わない。
 知力でも次兄の稲飯命(いなひのみこと)や三兄の三毛入野命(みけいりののみこと)には明らかに劣る。
 だが長じるに従って、磐余彦には自分が三人の兄とは異なる資質が備わっていると思うようになった。 

 磐余彦には、目的を遂げる強い意志とまっすぐな実行力がある。
 意志の強さは、ともすれば人の話に耳を貸さない頑迷さにもつながる。
 その点磐余彦には、人の地位を問わず人の言葉にも素直に耳を傾け、よいと思えば素直に従う柔軟さがある。
 加えて、周囲の者が思わず力を貸したくなる天賦の才を備えているようだ。
 日臣(ひのおみ)来目(くめ)は、磐余彦を慕って自然に集まってきた仲間である。そして三人の兄たちも、磐余彦にはなぜか一目置いている。
 その点についても塩土老翁は「あなた様に徳があるからだ」と言う。

 そして磐余彦には、自信を持って言えることがもう一つある。
 今から十数年前に長髄彦から弓矢を貰ってから、磐余彦は弓の修練を一日たりとも欠かさなかった。
 雨で弓が引けぬ日も、三重に()った弦を引くことで己の腕を鍛えた。
 遠くの物を見て距離を測る訓練も怠らなかった。
 
 いま、その成果が、黒鬼との戦いで表れたということである。
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