第55話 砂塵(さじん)

文字数 2,087文字

 長髄彦が自陣に戻ると、一人の兵士が駆け寄って来た。
「おかしな噂が流れています。長髄彦さまを裏切り者として捕えるというものです」
「なんだと!」
 長髄彦の目がぎらりと光った。
 しかしその光はすぐに消え、長髄彦は傍にいた少彦名に声を掛けた。
「すまぬが、すぐに兄者と三炊屋(みかしきや)の元へ走ってくれ」
 兄の安日彦は先日の戦いで磐余彦の放った矢を受けて負傷した。
 その矢は皮肉にも、かつて長髄彦が磐余彦に授けた天羽羽矢(あまのははや)である。
 安日彦は今、妹の三炊屋(ひめ)の館で手当てを受けている。
「そのまま兄者を守り東国へ行け」
 つまり、兄たちを連れて落ち延びろということである。

「そんな、儂も一緒に戦わせて下され!」
 出雲以来の宿将は懇願した。
 当然である。ここまで労苦を共にしてきたのに、あまりにも勝手な言い草だ。
「もう(しま)いだ。これ以上皆を死なせたくない。頼む!」
 長髄彦の兄安日彦は、のちに東北地方に逃げ落ち、蝦夷(えみし)の王となったとの伝承がある。
 平安後期の前九年、後三年の役で朝廷を震撼させた安倍貞任(あべのさだとう)宗任(むえとう)ら安倍一族の祖となった、という言い伝えだが定かではない。

 間もなく、伝令が来た。
「ニギハヤヒさまがお呼びです」
 ニギハヤヒの近衛軍は、長髄彦の陣から後方へ四里(当時の一里は三百歩)、纏向(まきむく)に布陣している。
「分かった、すぐに行く」
 答えた長髄彦は少彦名の顔を振り返った。
 少彦名が黙ってうなずくと、長髄彦もうなずき返した。
 寂寞(せきばく)とした空気が漂った。
 互いに今生の別れとなる運命を察知していた。

 本陣で待つニギハヤヒの顔は憤怒(ふんぬ)に満ちていた。
「どういうことだ!」
「はて、どうとは?」
 長髄彦が軽蔑の眼差しで問い返す。
「これは何だ!」
 ニギハヤヒが突き出したのは一本の黒い矢である。
 紛れもなく、磐余彦が放ち、安日彦を傷つけた天羽羽矢である。
――いったい誰が、吾の陣から持ち出したのだ?
 
 ニギハヤヒの背後に玄狐(げんこ)がいて、薄笑いを浮かべていた。
 さては玄狐が盗み、密告したに違いない。
 玄狐ははじめ日向・吉備軍の一員として遠征に参加したが、途中で長髄彦側に内通した。
 玄狐は少彦名と(はか)って日向軍を孔舎衛坂(くさえのさか)に誘い込み、窮地に陥れた。
 そして今また長髄彦を裏切り、ニギハヤヒに付こうとしている。
「一度裏切った者は、何度でも裏切るというのは本当だった」
 長髄彦がじろりと睨むと、玄狐は怯えるようにニギハヤヒの背中に隠れた。

 ニギハヤヒはもう一本の黒い矢を取り出した。
 磐余彦が放った矢と瓜二(うりふた)つである。
 だが比べてみると美しさといい(やじり)の艶といい、明らかに見劣りする。
 これまで本物と信じて疑わなかった偽の天羽羽矢である。
「これは偽物であろう!」
 ニギハヤヒが怒りに顔面を紅潮させて長髄彦に詰め寄った。
「さて、何のことやら」
 長髄彦はとぼけたが、ひそかに舌打ちしていた。

 今から十数年前、長髄彦が偶然出会って気まぐれに弓矢を授けた少年が、成長して日向軍の首領として現れた。
 なんという偶然だ。
――あの時吾は、ニギハヤヒに渡すぐらいならと、あの小僧に()れてやった。
 そして偽の天羽羽矢と歩鞆(かちゆき)を作り――作ったのは吉備時代の剣根である――ニギハヤヒに献上したのだ。
 そうとも知らず、ニギハヤヒは王権の証を得たと満足し、増長してヤマトを治めた。
「弓矢と歩鞆は、我ら天孫族のみに許された王権の(あかし)じゃ。ところが敵も同じ物を持っていた。むしろ磐余彦とかいう田舎者が持っていた矢のほうが正統だった」

 ヤマトは間もなく滅び、ニギハヤヒも王の座を追われるであろう。
 だがそれは断じて弓矢の有無のせいではない。
 ひとえに自分の力と徳の無さのせいだ。
 ニギハヤヒはこれまで自分が大事に持っていた偽の天羽羽矢を目の前に掲げ、両手に力を込めた。
 乾いた木があっけなく折れる音とともに、矢がぽっきり折れた。
 ニギハヤヒの目に(くら)(きらめ)きが宿った。
「よくも……吾を虚仮(こけ)にしたな」
 怒りで目が血走っている。
 長髄彦は瞑目(めいもく)したまま返答しなかった。

「吾は磐余彦に(くだ)ることにした。他の豪族たちも賛同している」
 ニギハヤヒは赤い目をぎらつかせて冷酷な笑みを浮かべた。
「ついては土産(みやげ)がいる」
 ニギハヤヒが「裏切り者を殺せ!」と叫ぶと同時に、十数人の兵士がいっせいに長髄彦に襲いかかった。
 ヤマトきっての勇将と(うた)われた男は、味方である兵卒の刃にかかって(たお)れた。
 血に染まった大地をかき消すように、大和盆地に砂塵(さじん)が舞った。

 兵士たちに刃を向けられても、長髄彦はなぜか剣を抜かなかった。
 長髄彦ほどの歴戦の勇者なら、血(まみ)れになっても切り結び、血路を開くことだって可能だった筈だ。
 それが一合も交えず、切り刻まれたのはなんとも不可解だった。
 むしろ、大地に伏す直前にニギハヤヒを見た長髄彦の目には、(あわれ)みの色さえ浮かんでいた。
 それは仕える甲斐のない主君に対する、絶望と憐憫(れんびん)の情だったのかもしれない……。
 
 こうしてヤマト随一の忠臣長髄彦は、主君ニギハヤヒの裏切りにより、あえない最期を遂げた。
                                  (第十章終わり)

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