第32話 大艦隊
文字数 2,042文字
「でっかいなあ!」
来目が叫んだ。
「ああ、これほどのものとは…」
磐余彦も思わず息をのんだ。
日向の一行にとって、これほど巨大な船を見るのは初めてだった。
長さ七丈(約二十メートル余)、中央に太い帆柱が二本立つ大型船である。
水主 が左右に八人ずつ、櫓 が十六本ある。船頭や操舵手などを入れれば、乗組員だけで二十人を超える。
これなら外海に出ることも十分可能だろう。
この巨大な船が四隻。
これに分乗し、五瀬命を総大将とする日向・吉備の連合軍四百数十人は、吉備の湊 を出て瀬戸内海を東に進む計画である。
それぞれの船には剣や矛 などの武器をはじめ、甲 などの武具、食料もたっぷり積むことになっている。
将には銅 の甲、小隊長には革の甲 、兵卒にはそれぞれ板甲が与えられた。
それぞれが鉄剣や銅剣を帯び、弓矢、矛なども手にしている。
これには吉備王鷲羽 の支援によるところが大きい。
鷲羽は日向軍への加勢として兵士に加え、貴重な戦略物資である鉄鋌 を大量に用意してくれた。
当時の倭(日本)では鉄鉱石は採れず、また砂鉄によるたたら製鉄も未だ始まっていない。鉄素材はもっぱら板状にした鉄鋌を朝鮮半島から輸入していた。
これを使って大量に武器を製造したのである。
——吉備がこれほどまで肩入れしてくれることの裏には、何かあるに違いない。
磐余彦たちが一抹の不安を覚えなかった訳ではない。
「まあ、彼らにも肩入れするだけの理由があるということです」
椎根津彦がすべてを呑みこんだように言葉を吐いた。
「吉備にとっては、ヤマトへの対抗として日向軍が戦端を開いてくれるのは好都合です。万が一日向が負けても、自分たちの損害は最小限に抑えることができると踏んだのでしょう」
陸続きの本州のなかで、日に日に増すヤマトの圧力は、海を隔てている九州日向からは想像もつかないほど強いようだ。
特に出雲がヤマトに屈して以降、吉備にとっては対ヤマト戦略は喫緊 の課題だった。
そこへひょいと現れた磐余彦たち日向の旗印は、格好の玉除 けになるとの計算が働いたのかもしれない。
とはいえ、〈ヤマト平定〉が成就した暁には、日向と吉備の連携が保たれる保証はどこにもない。吉備がその果実を横取りしてしまう可能性もある。
ただし、仮にそうした下心があったとしても、吉備との盟約なしには〈ヤマト平定〉という大事は進まない、というのが磐余彦たち日向の覚悟である。
吉備で兵を募ると、山陰から逃げてきた若者がそれに加わった。
その多くが来目や隼手と同じく縄文系の先住民だった。
日本海に面した出雲は、かつて中国大陸や朝鮮半島との直接交易の地として繁栄を誇った。
山陰地方では近年、妻木晩田 遺跡や荒神谷 遺跡、加茂岩倉 遺跡など弥生時代の巨大遺跡が次々に見つかっている。
また鳥取県の青谷上寺地 遺跡では、矢や刀傷のある百体余の人骨が一箇所に埋められているのが発見されている。
成人男性だけでなく女性や子どもの骨もあることから、村が襲撃され皆殺しにされたことがうかがえる。
ヤマトとの戦いに敗れた国出身の若者にとっては、雪辱の戦いでもある。
徴募した兵士の調練にあたって、磐余彦は弓を指導した。
日臣は剣技を伝授し、来目は土着の民たちに石椎 の使い方を教えた。
熱心な指導のおかげで、若者たちは乾いた土が水を吸収するように技を学んでいった。
磐余彦直属の部隊は未だ百人に満たないが、ヤマトへの復讐に燃える若者たちによる少数精鋭の戦闘集団が出来つつあった。
これに吉備の兵が加わり、軍勢は急に増えた。
ただし、纏 まりや士気という点ではいささか心許 ない、というのが磐余彦の正直な感想である。
その点五瀬命は数の多さに気をよくして気にも留めない様子だ。
「ヤマトなぞひとひねりだ」
「おっしゃる通り。五瀬命さまの威光にヤマトはひれ伏すに違いありません」
この遠征で五瀬命の側近となった玄狐 が調子を合わせて機嫌を取った。
日向・吉備の連合軍は四隻の大船に分かれて出航した。
先頭を進むのは五瀬命を総大将とする主力部隊の乗る旗艦で、これには吉備から加わった者が多く乗っている。
それに続く二隻の船には稲飯命と三毛入野命が分乗し、副将の磐余彦と、側近の日臣や椎根津彦が乗る船は最後尾となった。
これとは別に、来目と隼手が率いる別動隊百人ほどが陸路を先行していた。
合流すれば総勢五百人を超える部隊となり、この時代としては大軍勢である。
日向と吉備の合同艦隊は、瀬戸内海を順調に東に進んだ。
どこまでも大海原がつづく日向の海とは異なり、春の瀬戸内は波もおだやかで光が波に反射して美しかった。
鳥や魚たちもなんとなくのんびりして見える。
これから凄惨な戦いが始まるとは誰も予想していなかった。
淡路島で水の補給をするまで、吉備の土豪(兼海賊)たちが水先案内をしてくれた。
「わしらの役目はここまで。あとは吉報を待っていますぜ」
浅瀬に船を泊めた吉備海賊の長が、磐余彦に名残 惜しそうに言った。
来目が叫んだ。
「ああ、これほどのものとは…」
磐余彦も思わず息をのんだ。
日向の一行にとって、これほど巨大な船を見るのは初めてだった。
長さ七丈(約二十メートル余)、中央に太い帆柱が二本立つ大型船である。
これなら外海に出ることも十分可能だろう。
この巨大な船が四隻。
これに分乗し、五瀬命を総大将とする日向・吉備の連合軍四百数十人は、吉備の
それぞれの船には剣や
将には
それぞれが鉄剣や銅剣を帯び、弓矢、矛なども手にしている。
これには吉備王
鷲羽は日向軍への加勢として兵士に加え、貴重な戦略物資である
当時の倭(日本)では鉄鉱石は採れず、また砂鉄によるたたら製鉄も未だ始まっていない。鉄素材はもっぱら板状にした鉄鋌を朝鮮半島から輸入していた。
これを使って大量に武器を製造したのである。
——吉備がこれほどまで肩入れしてくれることの裏には、何かあるに違いない。
磐余彦たちが一抹の不安を覚えなかった訳ではない。
「まあ、彼らにも肩入れするだけの理由があるということです」
椎根津彦がすべてを呑みこんだように言葉を吐いた。
「吉備にとっては、ヤマトへの対抗として日向軍が戦端を開いてくれるのは好都合です。万が一日向が負けても、自分たちの損害は最小限に抑えることができると踏んだのでしょう」
陸続きの本州のなかで、日に日に増すヤマトの圧力は、海を隔てている九州日向からは想像もつかないほど強いようだ。
特に出雲がヤマトに屈して以降、吉備にとっては対ヤマト戦略は
そこへひょいと現れた磐余彦たち日向の旗印は、格好の玉
とはいえ、〈ヤマト平定〉が成就した暁には、日向と吉備の連携が保たれる保証はどこにもない。吉備がその果実を横取りしてしまう可能性もある。
ただし、仮にそうした下心があったとしても、吉備との盟約なしには〈ヤマト平定〉という大事は進まない、というのが磐余彦たち日向の覚悟である。
吉備で兵を募ると、山陰から逃げてきた若者がそれに加わった。
その多くが来目や隼手と同じく縄文系の先住民だった。
日本海に面した出雲は、かつて中国大陸や朝鮮半島との直接交易の地として繁栄を誇った。
山陰地方では近年、
また鳥取県の
成人男性だけでなく女性や子どもの骨もあることから、村が襲撃され皆殺しにされたことがうかがえる。
ヤマトとの戦いに敗れた国出身の若者にとっては、雪辱の戦いでもある。
徴募した兵士の調練にあたって、磐余彦は弓を指導した。
日臣は剣技を伝授し、来目は土着の民たちに
熱心な指導のおかげで、若者たちは乾いた土が水を吸収するように技を学んでいった。
磐余彦直属の部隊は未だ百人に満たないが、ヤマトへの復讐に燃える若者たちによる少数精鋭の戦闘集団が出来つつあった。
これに吉備の兵が加わり、軍勢は急に増えた。
ただし、
その点五瀬命は数の多さに気をよくして気にも留めない様子だ。
「ヤマトなぞひとひねりだ」
「おっしゃる通り。五瀬命さまの威光にヤマトはひれ伏すに違いありません」
この遠征で五瀬命の側近となった
日向・吉備の連合軍は四隻の大船に分かれて出航した。
先頭を進むのは五瀬命を総大将とする主力部隊の乗る旗艦で、これには吉備から加わった者が多く乗っている。
それに続く二隻の船には稲飯命と三毛入野命が分乗し、副将の磐余彦と、側近の日臣や椎根津彦が乗る船は最後尾となった。
これとは別に、来目と隼手が率いる別動隊百人ほどが陸路を先行していた。
合流すれば総勢五百人を超える部隊となり、この時代としては大軍勢である。
日向と吉備の合同艦隊は、瀬戸内海を順調に東に進んだ。
どこまでも大海原がつづく日向の海とは異なり、春の瀬戸内は波もおだやかで光が波に反射して美しかった。
鳥や魚たちもなんとなくのんびりして見える。
これから凄惨な戦いが始まるとは誰も予想していなかった。
淡路島で水の補給をするまで、吉備の土豪(兼海賊)たちが水先案内をしてくれた。
「わしらの役目はここまで。あとは吉報を待っていますぜ」
浅瀬に船を泊めた吉備海賊の長が、磐余彦に