第10話 穀璧の価値

文字数 2,041文字

「これは何でしょうか?」
 狩り場から戻ってすぐ、磐余彦は塩土老翁(しおつちのおじ)を訪ねた。
 円盤を一目見るなり、塩土老翁は息を呑んだ。
「これをどこで?」
 磐余彦たちが襲撃場面に出くわし、助けようとしたが殺されたこと、亡骸(なきがら)はその場所に埋葬したことを話すと、塩土老翁は深く息をついた。
「これは穀璧(こくへき)といって、(かん)の皇帝から隼人の王に下賜された祭器に相違ありません」

 紀元前二〇二年、高祖劉邦(りゅうほう)によって興った漢王朝は、外国との融和策として服属する周辺の王に硬玉の器「穀璧」を与えた。
 「完璧」という言葉の由来となったのが穀璧である。日本には中国の江南から海を渡り、もたらされたと考えられている。
 この日本唯一の穀璧が発見されたのは文政元年(一八一八)、場所は日向国王ノ山(現在の宮崎県串間市王ノ山)である。
 畑を耕していた農夫が石棺の中から鉄器や玉とともに発見した。
 直径三十三・三センチ、重さ一・六キロ。中央に六・五センチの穴が開いている。
 現在は日本唯一の穀璧として国宝に指定され、東京目黒区の前田育徳会に収蔵されている。

「噂には聞いておりましたが、吾も初めて見るものです」
 塩土老翁は感に()えないといった様子で大事そうに穀璧に触れた。
「奴らは何者でしょう?」
 磐余彦が賊の首領が鹿角の兜を被っていたことを告げると、塩土老翁は眉をひそめた。
「おそらく、クマシカデでは……。ヤマトの王子です」
「ヤマトの王子?」
「さよう、ヤマト連合の王ニギハヤヒには二人の息子がおり、長男がウマシマデ、次男がクマシカデと申すそうです。クマシカデは傲慢で暴虐な男で、ヤマトの豪族からは忌み嫌われておるそうです。なので次のヤマト王に()くのは兄のウマシマデでほぼ決まりと聞いております」
「やはりそなたは物知りだな」
 磐余彦は感嘆した。
 塩土老翁をはじめ中国から来た漢人たちは、日本各地に散らばって独自のネットワークを構築し、さまざまな情報を得ている。
 ちなみに長男のウマシマデはのちに物部氏の祖となり、神武天皇に始まる古代大和王権を支えていくことになる。

「しかしなぜクマシカデが筑紫島(九州)まで来て穀璧を狙ったのか……」
 言いかけて塩土老翁ははっとした。
「もしや筑紫島を乗っ取るつもりでは?」
「どういうことだ?」
 勢い込んで磐余彦が訊ねた。
「もしクマシカデが穀璧を奪い、しかもそれを日向の仕業と思わせれば、日向と隼人の間で争いが起きます」
 磐余彦の目がかっと見開かれた。
「そうやって争いの種を蒔き、お互いが弱った頃に両方を乗っ取るつもりか!」
「さよう。同じことがやがて熊襲や筑紫国との間でも起きましょう」
「なんと卑劣な!」
 ふだん温厚な磐余彦が怒りを露わにした。

「先ほども申しましたが、穀璧は隼人王の(あかし)。これを奪い取られれば隼人は怒り狂いましょう」
 磐余彦ははっとした。
「そうだ、隼人はいまごろ大騒ぎになっているはずだ」
 こうしてはいられない。一刻も早く王が殺された事実を伝え、穀璧を返さねば、怒り狂った隼人族が日向に攻め込んで来るかもしれないのだ。
 そればかりか、ヤマトがこの辺りにまで勢力を伸ばそうとしているという事実は、日向国にとっても大変な衝撃だった。

 磐余彦は塩土老翁の家を出るとすぐ、父である日向王ウガヤフキアエズに報告した。
 磐余彦はてっきり、父はすぐにでも隼人の村へ赴き、経緯を説明するものと思っていた。
 だが、王の答えは意外なものだった。
「王である余が、いま日向を離れるわけにはいかぬ。もし留守であることが知れたら、その隙を狙って敵が攻め込んで来るやもしれぬ」
 この時代、九州南部を本拠とする日向国は、北九州の筑紫国を筆頭に、隼人や熊襲など周辺の土着勢力とは緊張状態にあった。
 足元が危ういというのに、王たる者が迂闊(うかつ)に国を空けることはできないというのも道理である。

 磐余彦はことの次第を三人の兄、長男の五瀬命、次男の稲飯命、三男の三毛入野命に伝えた。
「ならば親父の名代として、俺が隼人の村に行こう」
 長男の五瀬命が真っ先に手を上げた。
 五瀬命は眉が太く目もぎょろりと大きい。父に似て猛々しい風貌である。
 背が高いだけでなく、逞しい二の腕に厚い胸板を持つ。身体のあちこちに傷跡が残り、歴戦の勇士であることを示している。
「いや、あまり無理はなさらぬほうがよいのでは」
 やんわりと(いさ)めたのは稲飯命である。
 五瀬命は性急な性格が災いして周辺の村と度々いさかいを起こしてきたからだ。だが根は素直で弟たちには優しい兄である。
「むろん私も行きますので、ご安心ください」
 温厚で思慮深い末弟の磐余彦の言葉に、次兄、三兄はほっとした。

「吾もお供します」
「おいらも。案内は任せといて下さい!」
 日臣と来目が当然のように名乗りをあげた。
 王子である磐余彦と平民の日臣や来目では身分が違う。
 だが磐余彦が分け隔てなく付き合ってくれるので、彼らは常に一緒にいる。
 磐余彦に心酔しているのである。
 一行は来目の道案内で隼人の村へと向かった。

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