第26話 高島宮

文字数 1,543文字

 瀬戸内海は、往古より多くの船が行き交う海の要路である。
 各地の(みなと)には船着き場が整備され、利用する船から通行料を貰うかわりに航海の安全を保障する一族もいた。
 いわゆる海賊である。
 なかでも芸予(げいよ)諸島は広島県本土と愛媛県本土の間に位置し、大小数百の島々から成る瀬戸内海有数の要衝で、海賊たちも精強で知られていた。 
 ほかにも塩飽(しあく)諸島、直島(なおしま)諸島などの小さな島々にも、縄張りを競う海賊の郎党はいた。

「なあに、蹴散らしてやる」
 と五瀬命は息巻いたが、日向勢は海上の戦闘は不慣れである。
 複雑な地形と速い潮の流れが、操船に慣れた者の優位を生み出すのは自明のことだった。
「ここは通行料を払ったほうが賢明です。ここで惜しんではなりません」
 椎根津彦の建言に渋々でも従わざるを得なかった。
 幸い資金は潤沢にあった。
 日向を出る際に、父のウガヤフキアエズが南海の貝輪や鉄鋌(てつてい)などを抱えきれないほど持たせてくれたのだ。
 磐余彦たち兄弟が自ら次期王位の座を譲ったことに対する、父親としてのせめてもの心遣いだった。
「いらねえよ」
 はじめ五瀬命は受け取りを拒んだが、磐余彦が「長旅の道中、何かの役に立つかもしれません」と()()して餞別(せんべつ)の品々をもらった。

 加えて一行には稲作の名人の稲飯命や、医師の心得もある三毛入野命がいた。
 稲飯命は米作りの技術を通過する国々に惜しみなく伝え、三毛入野命は病人を診たり野草から薬を作る方法を教え、行く先々で歓迎された。
 こうして訪ねる国ごとに稲作指導や薬作りを奨励し、返礼に肉や魚貝の干物、貴重な産物や絹織物などをもらった。
 おかげで日向を出航した時よりむしろ財産は増えたほどだ。

「ヤマトのニギハヤヒ王とは、倭国の行く末について忌憚(きたん)なく語り合いたいものだ。話し合いができるならヤマトと日向の連合も見えてこよう」
 磐余彦の本心は武力による平定ではなく、平和的な連合政権の樹立である。
 椎根津彦はうなずいたが、すぐに厳しい口調で言った。
「それを実現させるためにも、今我らが為すべきことは兵を増やし武器や食料を整えること。軍備の後ろ盾なしには話し合いなど夢のまた夢です」
 軍事的圧力抜きには平和的解決もありえない、という椎根津彦の言葉に磐余彦は気を引き締めた。
「分かっている。彼らとて簡単には政権を手放すまい。和戦いずれにせよ、今の我らではまともに相手にされないはずだ」

 磐余彦が日向を出発するにあたって、参加した仲間はわずか七人だった。とても軍と呼べるような編成ではない。
 ところが旅を続けるうちに各地で従軍を希望する若者が増え、今では五十人を下らない戦士が磐余彦の下に馳せ参じてきた。
 それだけ磐余彦への期待と、ヤマトに対する怨嗟(えんさ)の声が高まっている証左である。
 とはいえ磐余彦たちはまだまだ微弱な勢力である。
 いくつかの国は、ヤマト攻略の暁には援軍を差し向けると約束したが、それが本心かどうかも分からない。
「まずは他をあてにせず、自前の軍を増やし鍛えることです」
 いずれ将として軍を指揮することになる日臣も、そのことはよく(わきま)えている。

 一行は備前(岡山県)の児島(こじま)に辿り着いた。
 『日本書紀』神代の段では、大八洲国(おおやしまのくに)のひとつに吉備子洲(こじま)が数えられている。
 現在は江戸時代に始まった干拓工事により本土と陸続きになっているが、かつてはその名が示すとおり、瀬戸内海に浮かぶ「島」だった。
 むろん磐余彦の時代には島である。
 
 「書紀」によれば、磐余彦は吉備国高島(たかしま)行宮(あんぐう)(仮宮)を建てたとある。
 いわゆる高島宮である。
 所在地については諸説あるが、児島湾に浮かぶ高島(現岡山市南区)が、文部省により「聖蹟伝説地」に認定されている。
 磐余彦たちはこの地で船舶を揃え、武器や食料も蓄えて三年を過ごした。
 
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